煉獄
里狂は体を起こす。
割れた窓から差し込んだ真昼の日の光は、少女の瞳を照らしていた。
少女はベッドから降りると、机の上にある薄汚れた小包を手に取った。重みのあるそれは、ジャラジャラと音を鳴らしている。
少女は外に出ると、崩壊した街を歩き始めた。
ここはレンシェル島の最北端に位置する街。かつて一度戦場となり、残ったのは破壊された家々だけとなった。
里狂が歩いていると、通りすがった男と目があった。
「ひいぃ⁉例の秘女じゃねぇか!」
男は彼女の姿を見るなり、そこから逃げるように走り去った。
今ではここは浮浪者やならず者の格好の場となっている。しかし、秘女という絶対的な存在には皆臆し、誰も関わろうとしない。
こういった孤独には慣れていたものの、嫌悪や恐怖を向けられるのはやはり不愉快だった。
「そんなに怖いなら出ていけば良いのに」
里狂は一言そう呟く。
再び歩き始めたときだった。
ヒタヒタヒタと、足音が里狂を追っていたのに気づいた。里狂が立ち止まるとその音も止み、また歩き始めると同時に音も聞こえ始めた。
「(はぁ、なんなんだ……?)」
里狂は角を曲がり、そこで立ち止まる。
足音は徐々に近付き、やがて里狂の前にその姿を見せた。
「あっ……!」
現れたのは、赤い髪の少女。
少女は少し大きめのパーカーに身を包み、どこから出たのかも分からない素っ頓狂な声を上げた。
「私に何の用?さっきからつけ回してたみたいだけど」
里狂はそう言って少女を睨み付けた。
しかし、少女は先ほどからずっと、里狂を見て目を輝かせている。そして、一言口にした。
「やっぱりお姉ちゃんだ!お姉ちゃん!私だよ!煉獄だよっ!」
「は?」
里狂は少女の言葉に戸惑いを隠せなかった。もちろん里狂にとって、彼女とは初対面のはずだ。煉獄という名も聞いたことがない。何かのイタズラかとも思ったが、それにしては間抜けすぎる。
「(触らぬ神に祟りなし……)」
これ以上は関わらないのが一番、そう判断した里狂は、少女に背を向けて再び歩き始めた。
「ねぇ、なんで無視するの?怒るよ?」
少女は里狂の周りをちょこまかと動く。
「おーい、もしかして実は恥ずかしがり屋さん?妹にまで照れなくても大丈夫だよー?」
「帰れ、私にお前みたいな騒がしい妹はいない」
里狂がそう言うと、少女は急に静かになり、その場に立ち止まった。
振り返ると、少女は大粒の涙を流してその場にへたりこんでいる。
「なんでそんなこと言うの……?」
「えっ……あーもう、どうにでもなれ……」
里狂はそう言うと、煉獄と名乗る少女の頭を撫でた。
「お、お姉ちゃんが悪かったからさ、早く泣き止んでくれ……」
里狂がそう言うと、煉獄はぱっと微笑んだ。
「思い出してくれたんだ……やっぱり里狂は、私のお姉ちゃんだよ……!」
少女は涙を拭いながらそう言った。
里狂はなぜかその言葉が引っ掛かり、頭を回す。
そして考えるうちに、その違和感の正体を知った。なぜ、彼女は里狂と口にしたのか。そう、里狂は彼女に名乗っていないのだ。というより、この街にいる者のほとんどは里狂の名前を知らない。
そんな状態で、煉獄が彼女の名を知っているはずがないのである。
にも関わらず、彼女ははっきりと〝里狂〟と口にした。
「(…ただのイタズラにしては不気味だな……)」
里狂は再び歩き始めた。
煉獄は先ほどと変わらぬ様子で、彼女の周りを動き回っている。
「どこへ行くの?」
「ちょっと遅めの朝食。たまにはまともな飯が食べたい気分なんだよ」
「まともな……?」
煉獄はその言葉に引っ掛かり、しばらく頭を回したものの、結局何も分からなかった。
立ち止まって考えている間に、里狂は煉獄を置いて前を歩いていた。
「ま、待ってーっ!」
里狂は一軒のバーの前で立ち止まる。
彼女を追いかけた煉獄は、止まりきれずそのまま里狂と激突する。
「いたっ⁉」
里狂は微動だにしなかったが、煉獄はふらつきながら三回転してその場に倒れた。
「はぁ、何してんだ。さっさと行くよ」
里狂は煉獄が立ち上がったのを確認すると、扉に手をかけた。
夜には盛るバーも昼間にはまだ客がおらず、小太りした中年の男、このバーのマスターがいるだけだった。
「里狂か。そっちの子は?」
「連れだ。マスター、飯を出してやってくれ。メニューは任せるよ」
里狂はそう言って、小包を放り投げた。
マスターはそれを受けとると、中を見て驚愕した。中身は溢れるほど大量の金貨である。
「お前、こんなのどこで……?」
「通貨を持ってない以上、金目のもんを渡すしかないでしょ?なら、それを得るためには多少無理矢理な手を使わなくちゃいけない」
里狂はそう言って舌なめずりをした。
「あくまで合法的に……ね」
里狂はそう言って、金貨のうち一枚を手に取り、反射して映る自分の顔を眺めていた。
「あ、そうだ。何か飲み物はある?酒以外ね」
「お酒以外なら水しかないよ」
「なら水でいい」
里狂はそう言って、カウンター席の一つに腰掛けた。煉獄の方を見ると、テーブル席のうちの一ヶ所に座っていた。
「それにしても、お前が連れなんて珍しいな。孤高の里狂様は引退か?」
「そんなの名乗った覚えはないんだけど。それと、今日ここに来た理由ってのがあいつだ」
「ご飯を食べさせに来たのか?」
「んなわけあるか」
里狂はそう言ってカウンターから身を乗り出した。
「その硬貨の中身、目を瞑って掴んだ分全部をくれてやる」
里狂は男の耳元でそう呟いた。
「何が目的だ?」
「情報が欲しい。あいつの素性についてだ」
「何やらわけ有りみたいだな。とりあえずは了解。と言っても、期待はしないでくれよ」
情報屋、それが彼の本業である。
どこから仕入れてきたのかも分からない情報を、どこからやって来たのかも分からない連中に売っては、儲けを出している。
里狂は彼に事の顛末を話した。
「なるほどね、分かった。飯を作り終えたら確認するよ」
「ああ。それと、前払いの報酬タイムだ」
里狂は近くに置かれた硬貨の袋を手に取り、マスターに向けた。
「目を瞑れ。さっきも言った通り、掴んだ分全部をお前にやるよ」
「こりゃすげぇ儲けになるぞぉ……」
男はそう言って目を閉じた。
里狂はその隙に金貨のほとんどを抜き取り、用意したもう一つの袋に入れた。
マスターは袋を漁る。やがて違和感に気づいたのか、掴んだ量を見るため、目を開けた。
「やってくれるなぁ……」
「ほら、掴んだ分全部あげるよ」
掴んだ金貨、もとい袋の中にあった金貨はたったの七枚。それでも十分すぎるくらいなのだが、先ほどの金貨の山を見た後だと、とても少量に感じてしまう。
里狂は袋を回収すると、哀れむようにマスターの肩を叩いた。
そんな二人の光景を見ていた煉獄は、席に座ったまま声をかけた。
「ご飯まだー?」
「あ、今作るからちょっと待ってね!」
マスターはそう言って支度を始めた。
里狂は出された水のグラスを手に取ると、少量口に含んだ。