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《 長編・青春ホラー 》 “ 影、つどう ”  作者: 黒瀬 珪
第一部 “ 野 分 - の わ き - ”
8/10

1.推定される発端  - その6 -

★ アクシデントで中止となった文化祭公演の代わりとして予定された11月の演劇部特別公演に向け、卓也たちは最後の仕上げに入っていた。しかし元部長の安川一子は、悪夢のような文化祭が終わって以来少しづつ様子がおかしくなっている。そして冷たい雨の降る夜、彼女の言葉に導かれるようにして最初の異変が浄善寺ヶ原を襲った!



               ▲


 198X年10月16日。午後7時。

 A―― 県の中部。県庁所在地である樺山市南東部から館野沢村中部を経、坂越市と牧堀村の境界線近くに至る、人口密度がエア・ポケットのように希薄な帯状の地域に、その夜ささやかな異変が起こった。

 闇夜だった。

 月も星もなく山の端は闇に沈み、冷え切った雨が無人の野面を黒々と濡らし続けていた。

 この夜より後、浄善寺ヶ原の奥まった場所に代々住み続けた人々のあいだに、古来より伝わる符牒が再び囁かれ始めた。その意味する事態が一体いかなるものなのか、一部の古老以外知る者もとうにいなくなった、謎めいて古めかしい言葉を。

 もうじき水ッコ来るぞ(・・・・・・)、と――

 同じ浄善寺ヶ原でも、坂越市の西端に住む人々は三日と経たぬうちに、このささやかな出来事を忘れてしまった。しかし、後に『浄善寺騒乱』なる曖昧かつ不穏な響きの通り名を与えられる奇怪な騒擾事件が勃発すると、その風吹く昏い夜の出来事は異変に至る最初の凶兆として、古くから同地に住む人々の間に長く密やかに語り継がれて行く。


               ▲


 ずしん、という重い衝撃が体育館の基底部を貫いた。

 なにか意味のない言葉を叫ぼうとしていた卓也は、バランスを崩して大きく蹌踉(よろ)めいた。

 足許ではリノリウムが、溶け出したように波打ち始めていた。

 「な、何だ?」

 ごう……地鳴りと共に、硝子窓が恫喝するような音響とともにいっせいに揺れ始めた。。

 階下の用具室とステージで同時にけたたましい悲鳴が上がった。金切り声は高い屋根の下で絡み合って共鳴し、倍音の歪んだハーモニーとともに卓也の耳朶を貫いた。

 とっさに右手を壁際のスチール棚に伸ばしたが、それより早くサッカーボールとバスケットボールがどっとこぼれ落ちて来た。バスケットボールに足を取られ、卓也は再び転倒しかけた。

 「ちくしょう!」

 膝で這いずるようにして床を横切り、ホール側の大きな窓枠にしがみついた。分厚い窓硝子越しに階下を見下ろすと、合板製の床の上をイトマキエイのような巨大な影が幾重にも重なり滑ってゆく。

 天井から吊された照明器具が、振り子のようにゆっくりと揺れているのだ。

 ――まずい! あれが落っこちたら……

 一旦収まりかけてからもう一度、今度は発動機のようなうなりとともに地震は体育館を一段と激しく揺るがし始めた。

 校門の辺りで警笛が二つ、重なり合って長々と響き渡った。

 「みんな落ち着いて! 動いちゃだめ!」

 ステージで螢が叫んだ。呼応するように泣き声混じりの悲鳴が幾つも上がっる。やがて、何かを引きちぎるような音とともに停電が襲ってきた。

 ホール全体が闇に落ち込むのと同時に、急に揺れが激しさを増した。階下では轟音が女の子たちの金切り声を圧倒し、壁が不気味な音を立てて軋み始めた。

 目の前で分厚い偏光硝子が、窓枠の中でごとごとと揺れ始めた。

 その時になって卓也はようやく真の異変に気づいた。

 灯りが全て消えているのにも関わらず、周囲が異様に明るい。

 見ると摺り硝子の全てが、一様に暗い紺青に染まっている。

 ――なんだあれは? 

 ゼリーのように脈打つ床を横切りようやく出窓にたどり着くと、卓也は鍵をはずし、サッシを両手で一気に押し開いた

 頬を包んだ冷たい夜気がつかの間、放心とほとんど区別のつかない落ち着きを卓也にもたらした。しかしつぎの瞬間、卓也は窓から身を乗り出したまま凍りついた。

 星が一つも見えない。

 闇空の高みにあって、地を駆けめぐる暴風を冷然と見ろしていたはずの秋の星座は、夜空の濃紺に溶け入ったように姿を消していた。

 いや、消えてしまったのは、夜空そのものだった! 。

 日の入りからすでに数時間が経過した浄善寺ヶ原の上空に、卓也は時ならぬ黄昏の青空を目にした。大空を満たした薄明かりの中に、細長く寸断された雲が幾条も棚引いている。やがて突然、光が(ほとばし)った

 黄昏が、真昼に変じた ――

 校庭に落ちる松の樹影が蒸発するように消えてゆく。反射的に卓也は窓から飛び退き、リノリウムに伏せた。

 しかし目をつぶり耳をふさいだ卓也のもとに、轟音はいつまでたっても訪れなかった。

 閃光が再び野面を走った。

 畑地のあちこちで野鳥が怯え切った声で鳴き始めた。遠く近く犬の吠える声が響き、平原のあちこちで興奮した主婦たちが交わす大声と重なった。校庭の外周に接して点在するどこかの農家で飼い犬が暴れ、駆けずり回っている。コンクリートの上を鎖がひきずられ、硬い音を立てて跳ね返るのが聞こえた。

 ―― この光、一体どこから射してるんだ? 空じゃねえ。地上のどこかから上に向かって射してるんだ!

 窓枠に肘をついたまま卓也は目を凝らして首を巡らした。

 どこに源が存在するのか分からぬ強烈な光が、おずおずと旋回を始めた。用水路沿いの古い大木が黒々と染まり、大小の水溜まりが火を放たれた油のようにぎらぎらと輝く。

 校庭と、テニスコートのある小校庭の境をなす急傾斜した土手が、濃い影法師を地面に落とした。

 その瞬間、卓也はようやく悟った。

 ――()だ!

 張り出し窓から身を乗り出して首を仰向けた卓也の目に、体育館の滑らかに傾斜した屋根を流れ落ちてくる目も眩むばかりに青い光が飛び込んできた。

 蒲鉾形の屋根の上で何かが激しく輝いている。

 それとも燃えているのだろうか? 

 光の箭はゆっくりと展張しながら大地に倒れ伏し、輝く霧の扇となって並木の影法師を飲み込み、不意に消えた。

 いつの間にか電気が復旧し、明かりが灯っていた。

 だが恐怖は終わったのではなく、まだ始まってさえいなかったのだ。


               ▲


 ふと我に返ると、すでに大地の鳴動は止んでいた。

 蛍光灯は煌々と灯り、幾分まだ興奮気味ではあるものの、階下から聞こえる会話は穏やかさを取り戻している。時折、それに牧堀街道を行き来する車の排気音が遠く近く重なる。

 開いたままの張り出し窓は闇に閉ざされ、夜気の奥で用水路ばかりがざあざあと激しい音をたてて流れていた。 

 卓也の喉が、突然呼吸するのをやめた。

 「―― 安川?」

 大地の鳴動がどれほど続いたのか、よく覚えていない。だが、騒乱の間中安川一子は新品のパイプ椅子に座ったまま、身じろぎ一つしなかった。

 卓也はのろのろと振り返った。

 そして見た。

 揃えた膝にきちんと載せられた小作りな両手。

 思春期直前の少年のような細く丸い頭と、よく手入れされた三つ編みの髪。

 明治の洋画に描かれた令嬢を思わせる、静かな放心を湛えた横顔―― 。

 窓枠に二の腕をついたまま、卓也は魅入られたように一子の虚ろな横顔に見とれていた。

 麻痺しかけた心のどこかで、自分が今目にしているのは一体何だろう? と言う愚かしい思いが、盲目の奴隷のようなそぶりで行き来していた。

 永劫にも等しい数秒ののち一子はすっ、とパイプ椅子から立ち上がった。

 背後に滑るように近づいてくる一子の足取りに合わせ、夜色をしたスカートの裾が幽かな音を立てるのが分かった。


( 続 く )

]

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