1.推定される発端 - その4 -
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ひととき風が止んだ。
いつの間にか雨も上がって校舎は今、獣のような眠りについている。
緩やかに高低する地形の襞に抱かれ、百年前と何ら変わらぬ夜を電子錠で裡に閉ざして。
真っ暗な廊下は闇に溶け込み、天井はもはや存在さえ定かではない。
あちこちに設置された常夜灯や消火栓のランプは、各々の置かれた暗がりを老いた不寝番のごとく朧に照らしている。丘陵の褶曲に身を潜めてうずくまる一塊の巨大な影法師。しかしその一角に、未だ明かりの灯る場所があった。
教室棟の西側にある蒲鉾形の体育館。そこではまだ時の流れを時計で計ることが可能だった。
体育館の巨大な壁面に嵌め込まれた無数の硝子窓は、とうに濃紺の一枚板と化していた。
すでに窓一面を、ぎらぎらとした結露が覆っている。
練習を見物していた卓球部の男子も引き上げてしまい、体育館に残っているのは二十人ほどの演劇部員だけだった。
高い天井に叫び声が幾つも重なり合ってぼうん、ぼうんと反響し、それに笑い声や不満げな大声、そして金槌や鏨を性急に叩く音が交錯する。特別公演まであと一ヶ月を切り、練習はそれなりの落ち着きを見せ始めていた。
やがて館内のざわめきを圧し、一際よく通る少女の声がステージの上から招集をかけた。
館内に沈黙が戻り、ホールのあちこちからステージに向かって足音が近付いて来る。不意に訪れた静けさに、それまで眩しいほどだった天井の照明さえ僅かに翳った。天井より吊された照明器具の投げ落とす光がそれまでのまばゆさを喪い、劫ってそれの届かぬ場所に潜む無数の小さな闇の深さを際だたせ始めた。
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「えーと、これで一幕はOKです。それから彩緒ちゃん。明日中に舞総研に借りる機材のリスト作っておいて」
「はーい分かりましたぁ」
夏休み明けから部長となった二本柳螢は、舞台中央でバインダーノートを抱え、裏方の部員たちに淀みなく指示を与えていた。龍を思わせるくっきりと整った横顔が話す相手を変えるたびに、メタルフレームの眼鏡が照明が反射しきらきらと輝く。
「確定したらこれ清書して小室先生から印鑑貰っといで。遅くとも土曜までだよ。いいことアラレ! これ忘れたらあんた、逆さ磔はりつけの上、打ち首獄門だよ!―― あ、音響と照明さんはもう結構です。二幕の3Pでタイミング間違えないでね。えーと、キャストはもう一度、二幕の通しやってから話しますので休んでて。ただし、火野先輩だけちょっと残って下さい」
よく通る言葉の語尾が小憎らしいくらい効果たっぷりに尻上がりになり、微かな谺を残して天井裏へ消えた。
舞台に沈黙と緊張が走った。
ステージ周辺にたむろしていた部員たちが無意識のうちに螢の視線を避けて身を寄せた。そうして自然に出来上がった間隙の向こうに、舞台の隅へ押しやられた講壇からうっそりと立ち上がる火野卓也の姿があった。
「まだハァ、随分と唐突なご氏名だじぇ」
背を曲げ、筒型に丸めた台本を握って掌に叩き付けながら、卓也はステージの中央に歩み出てきた。
西側ギャラリーの外れから、床に唾を吐くような激しさで誰かの舌打ちが聞こえた。
「唐突、ってなんですか」
前髪を二、三度撫でつけて唇を嘗めてから、螢は夜半の川風の様に冷たくなった口調で切り出した。
「私『凌雲祭』の前から言ってたじゃないですか。一場2P冒頭の一人芝居、棒読みにならないよう変化つけて下さいって」
「ああ。いやって位拝聴させてもらってらァ。んで、お前めの言う通りさしてらべや。ちゃんと文節ごとに言葉ハァ分解してらしよ」
卓也の勿体ぶった返事を最後まで聞かず、螢はバインダーをばん、と閉じた。
「先輩。さっき通しで一通り見せて頂きましたけど、なんです? あれ」
「なんです、とおっしゃいますと?」
濃い眉がきっ、と吊り上がり螢は卓也に一歩詰め寄った。
「おっしゃいますと、じゃないでしょう」
螢は声を荒げた。
「何度言わせるんですか。最初にあそこで棒立ち棒読みをやったら、そこから後すべてがぶち壊しになるんですよ!」
螢の言葉に訛りはほとんどないが、興奮するとイントネーションが幾分県南風の権高な尻上がりになる。
「俺ァ、お前の言った通りにやってらつもりだぞ」
「私の言った通りにやるのが演技ですか? もしそうなら私、先輩にキャストやってもらおうなんて始めっから思いませんよ。いいですか? 感情に任せて一気にまくし立てたって、そんな真っ平らな台詞じゃ誰も感動なんかしませんよ! そう思いません?」
無論、この手の言い合いは今に始まったことではない。適当に受け流そうと思えばそれも可能だった。しかし卓也は、螢にだけは屈することが出来なかった。チームワークと規律、地道な基礎練習を重んずる気の強い螢と、演劇部員に必要なのは各自の個性やひらめきそれに自己主張だ、として先輩後輩の隔てなく勝手気ままに振る舞ってきた卓也は、螢が入部してきた当初からすでに犬猿の仲だった。
二人の対立はいつか演劇部を丸ごと巻き込んだ泥仕合に発展し、結果として卓也は演劇部は言うに及ばず二年生女子のほぼ全てと、更には螢を崇拝している一年生のややこしい娘たちまで敵に回す羽目になっていた。
三浦司に言わせれば “ 男の人徳 ” とかの証拠らしいのだが、卓也には今もって言葉の意味が全く分からない。
「思うも何も螢よ、俺ハァ誠心誠意、文節毎に言い回しば研究して、その上で喋ってらつもりだぞ」
卓也は螢の冷たく澄んだ目を見据え、薄く笑った。
彼女に関して自分の自制心がどこまで保てるのか、卓也は正確に把握している。そろそろ潮時だった。
「やった結果がこれなら、何もしないのと同じ……」
「やがましい!」
最後まで言わせず、卓也は丸めた台本を床に叩きつけていた。
螢の言葉は、卓也が日頃心の底に押し隠している最も敏感な傷口を灼けた針となって貫いた。
――くそったれが。親父みてえなことぬかしやがって!
「てめえ、大概にせえよ! 訳の分がんねェ横車ばっかぎゃあすか押しやがって。おう! この野郎てめ一体何様のつもりだ? 演じんのハァこっちなんだぞ。分がってんのが! お前めハァ人のやる事さケチつけんなら、もうちょっと語彙力ばつけろ語彙力ばよォ! ええ? おめ、俺さ何なったにして欲しい? まさかおめハァ、なった気ィして自分さも意味の分がらねェ御託並べでらんでねえべなァ?」
「な――」
螢の目尻が別個の生き物のようにぴりぴりと震え、体育館全体がしん、と静まり返った。
卓也が一歩前に進み出た。消火栓の前で読み合わせをしていた森美江と藤森美幸が、顔を見合わせ息を呑んだ。だがその時――
「あのさあ! その辺に一子部長さんが螢ちゃん、どっちかいねェ?」
下手の第一用具室から大道具係の大友兵衛がニキビだらけの四角い顔を突き出した。
「ああ、いたいた螢ちゃん。ちょっとちょっと、その辺さ一子部長さんいねえ?」
大友は舞台に向かって頓狂な声でわめいた。
「あたしと一子部長とどっちさがしてるのよ」
「――いま思い出したんだけど俺さあ、どうやら螢ちゃんがらアラレさ渡すように、って預かってらった体育館の使用請求書、あれ一子さんさ渡したまんまだったかもしんねえのッシ―― いや、あの、何故か? っづうど話せば長ェんだげどォ、アラレが書き方よぐ分がんねェづうがら一子部長さんさこっそり教わりに行ってェ、そのまんま一子さんさ預けっぱなしにしちまったらしいの。―― づうがさァ、一子部長さん自分で清書して職員室さ持ってってける、どが言ってたような覚えもあんだげど、もうハ確認しようつっても先生みんな帰っちまって職員室閉まってるでしょ? いや、とにかく何でもいいんだげど一子部長さんどご? ――あ。んで、ゴメンしてけで。はははは」
そのとりとめのない大声に、舞台上の緊迫した雰囲気は一気に崩れ去った。
「この日本脳炎が」
ホールの隅で書き割りの修正をしていた工藤哲矢がそっぽを向いたままぼそり、と呟いた。それが体育館中に妙にはっきりと響き渡り、ギャラリーのあちこちから押し殺した失笑が沸き上がる。
螢は一瞬唖然とし、やにわに目をつぶって両手で左右のこめかみを叩いた。
「御免してけでって、ちょっと! …… あーんもう兵衛! あんたあれまだ通してなかったの? 冗談じゃないわよ。あれなくしたらまた公演がおじゃんになっちゃうじゃないの! ――ちょっと! まさかもう来月の体育館、土日のスケジュール全部埋まってたりしないわよね!」
慌てて走り出そうとして立ち止まり、荒々しく深呼吸をして辛うじて威厳を取り戻すと、螢は卓也をきっ、と見据えた。
「よろしいですか? あたしのやり方が不満でしたら、いつでも退部届お出し下さい。言っておきますが演出は私です。二人はいりません!」
文句のつけようのない標準アクセントで言い放つと螢は足早にステージを横切り、男の子のような身のこなしでホールへぽん、と飛び降りた。
空を舞うポニーテールの残像が卓也の網膜に鈍い傷みを残した。それが鬱屈した怒りを一層かき立て、卓也は毒々しく呻いた。
「ぶっ殺すぞ。てめえ」
爆発的に膨れ上がった暴力衝動をぐい、と内側にねじ向けると恫喝が喉の奥で縊くびられて、再び胃の腑へと滑り落ちて行く。
「誰が辞めっかこの野郎! てめえみでェな腐れ女さ、この部仕切られでたまっか、づうのよ!」
卓也は大げさに肩をすくめると、舞台の袖に取り付けられた箱形階段を荒々しい足音とともに下った。館内放送室に置きっ放しになっているBGM用のカセット・テープに手直しを加えねばならない。
ステージ上手の壁から突き出した『雀の巣』と呼ばれる放送室は、壁の鉄梯子をよじ登れば床の昇降口ハッチから出入りが可能だったが、昨年末に行われた大掃除の際に誰か馬鹿な先生が鍵を紛失してしまって以来一度二階へ上がって体育用具室の奥のドアから入らねばならなくなっていた。
用具室の脇にある暗がりに足を踏み入れてから、卓也は初めて自分の体がひどく冷え切ってるのに気づいた。ぶるっ、と全身を震わせると卓也は雨の臭いがする鉄製の階段を上り始めた。
吐く息が闇の中で僅かに白く染まる。いつの間にか冬は間近に近づいていた。
「…… 一子先輩そちらにおられません?」
垂れ込めた闇の外側で、遠い声が聞こえた。
「…… おかしいな。どこ行っちゃんたんだろう?」
訝しげなその声は、主役を降板した一子に代わって次の公演でヒロインをつとめる中屋敷鏡子らしかった。 ( 続 く )