1.推定される発端 - その2 -
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人気もまばらな教室棟は、風の喧噪のただ中にあって奇妙な寂寥に包まれていた。
階段をおりて天窓から薄陽の射す踊り場にさしかかった時、ふと三浦司が何か呟いた。
同時に風の唸りが金切り声にまで高まり、彼の言葉を根こそぎ奪い去ってゆく。
「え?」
「いや、何も」
「んで?」
そして三浦は不意にうってかわった粗暴な口調で、文節ごとに句切りながら怒鳴った。
「そうすっと火野先生よ、お前ハァ今日もまだ遅ェのが? 」
「おうよ。まだハァ残業だァ」
「あのよォ。おめ、たまには無断欠席ぐれぇして見ろ。気分転換さなっから」
「俺ハァお前どは立場違うんだァ。特別公演まであど何日あるど思ってんのよ」
「な、卓よ。いいがら今晩ちょっと付きあえ」
卓也に最後まで言わせずに、三浦はいきなりたたみ込んで来た。
「これがらちょっとしたツーリングだ。一緒に来」
「これがらぁ? 勘弁せえじゃァ」
呆れて卓也は頭一つ高いところにある三浦の顔を見上げた。
「冗談でねえぞお前ハァ。いい加減もう陽ィ暮れ始めでるねえが。本気で言ってらのが?」
三浦のがっしりした頬骨の下には笑いがまだ名残りを留めている。だが改めて正面から向き合うと、その目つきにふざけている様子は微塵もなかった。
卓也は僅かに動揺した
―― こいつ今、もしかして本当に途方に暮れているのか。噂の図書館番長、三浦司ともあろう奴が?
そこで卓也も口調を一変させた。
「なァによ! まだ葵学園のツッパリギャルど『ブロンコ』でフィーバーフィーバーが?」
どのように話を続けたらいいのか分からず、わざと軽薄で横柄な口調に切り替え卓也は三浦を挑発する作戦に出た。
「馬鹿こけ。誰がそったな話してる」
三浦は冬眠から醒めたばかりの熊みたいなしかめ面をつくった。
「大体よォ、こったな僻地でディスコつうのが既にイモだえんちぇ」
周囲では木枯らしが無数の声で叫んでいる。卓也の憎まれ口はさらに悪辣さを増した。
「そもそも新町のブロンコつったらハァ、もどの店おっさん相手の安キャバレーでねえが。すったな所急場しのぎに改装した田舎ディスコでほっぺた赤いツッパリ馬鹿ど押しくらまんじゅうして踊ったっておめ、一体何が面白えのよ?」
「誰も新町行ぐなんて言ってねえべや」
三浦は再度笑ったが、やがて幾分困惑したように目を逸らした。
昨年度は自ら立候補して図書委員長までつとめた成績抜群の人気者、しかし一方で必要とあれば売られた喧嘩はきっちり買い、夜は樺山・坂越の盛り場をバイクで徘徊する三浦司。彼はいつだってその好青年風の見かけほど一筋縄では行かない。しかし―― と、卓也は思った。少なくとも自分に対し三浦はこのような、出方をおずおずと伺うような態度をとったことは今まで一度もなかった。
自分が三浦からある意味とことん軽く見られているのはよく分かっている。しかし卓也は、三浦司を取り巻く多種多様な友人たちの中でも自分は特別であり、彼が率直に腹を割って話をする数少ない親友である、と自ら信じていた。
―― そのおれの考えを、なぜこのようなもって回ったやり方で探る必要があるのだ?
風の叫喚と鉄骨の軋みの中で、三浦は柔和な目をしたままなおも答えようとしなかった。
こうして二人黙っていれば、やがて体が無人の廊下のようにがらんどうとなり、体の中に生まれた空虚は木枯らしの轟きに満たされて行くだろう。そして丸一日太陽を目にすることもなかった今日の終わりには、自分も三浦も深まり行く暗がりの中へ黙って消えてゆくのかもしれない。
長い時間が経った。
唇の唾液が乾き薄い皮膜となるころ、三浦はようやく口を開いた。
「残念だが卓よ。今夜のデートの相手ハァ―― そうだな、人間でねえのシ」
ややあって、今度は卓也がぎょっ、とした表情で三浦をふり向いた
「―― 何だと?」
立ち止まり振り返った卓也の背後を、三浦の長身がゆっくりと追い越した。
無言のまま、三浦は廊下を曲がり階段を下りて行く。
舌打ちして卓也は小走りに後を追った。吹き荒れる山颪の轟音に飲まれ、一瞬卓也は上下の感覚さえ喪いそうになった。
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教室等の一階東端にあるの音楽室ではブラスバンド部が『モルダウ』を演奏していた。メロディーが廊下や階段の吹き抜けに反響し、とんでもない方角からとぎれとぎれの谺を伴って聞こえて来る。
無数の落葉が吹き溜まった靴洗い場を過ぎ渡りて廊下に入り、卓也と三浦は壁面を埋めた巨大な下駄箱から外履きの靴を取り出した。
渡り廊下の先は一段と人気のない管理棟だった。
職員室や生徒会室、図書館のある二階から上はいつも賑やかだが、大半が特別教室と資料室に当てられた一階は放課後ともなると生徒も先生も殆ど通らない。窓のない廊下には、まだ明かりが灯されていなかった。
「浄善寺の奥のほう、藪沢ば過ぎで奧八幡の手前あだりの森さ沿った界隈で、最近えらぐ変たな事起こってらぞ」
その声は風の叫喚をすり抜け、卓也の耳に奇妙にはっきりと届いた。
卓也はゆっくりと首を回した。
「何だ?」
遠い渡り廊下の出口から射し入る傾いた陽に卓也の顔は斜半分めに切り取られ、残る半分は埃臭い闇に沈んでいた。
三浦は卓也の背後で大きな影法師と化していた。暗がりで両目だけが夜の獣のように光っている。
「卓よ。おめも何か話聞いでねェえが?」
「あの辺りの騒ぎづゥど、 下スッポンポンのふざけだ変態がうろつく、づゥあれがよ? 馬鹿が。こったなクソ寒い時期に」
「―― 最近はもう、単なる噂ば通り越してちょっとした騒ぎになりかげでる」
半ば茶化すような卓也の言葉を無視し、三浦は自分の話を続けた
「俺方の学校さもそろそろ、うすうす気ィついでるが、もしかすっと本当に何がさ出っくわした奴いるがもしれねェ」
「出くわした?」
「この頃、とんでもねえ時間に畑ん中や森の奥ばうろついでる奴がいるらしい。しかも目的が全然想像出来ねえ。とにがぐ意味不明だ」
卓也は口を噤んだ。
いつの間にか三浦の口調が異様な熱を帯びている。そこにはもはやいつもの冗談めいた響きは全くなかった。
「牧堀街道がらそれで林ん中さ入る小ちゃっけえ道どが、あと薮沢の畦道やら駐車場とにがぐ人気のねえ場所でよ。夕方がら、事によっと真夜中過ぎだ後でも、あちこちうろついだり小声で話しこんでだりする連中いるらしい。明け方近くに林ん中の、誰も通らねえ、つうより誰も覚えてねえようなけもの道で、懐中電灯の明かりが動いでんの見たって話もある」
「んでもお前、他人事みでェに話してっけど街道から『県道』越してダムの方、つったらそもそも自分が毎日バイクで行き来してらんでねえが。おめえは何か見だったのか」
三浦は何も聞こえなかったような顔をしてだまっていた。
校舎の横を通る牧堀街道は浄善寺ヶ原の幹線道路だが、A……県の内陸と沿岸、ひいては奥羽山脈を越えて太平洋岸と日本海側をも結ぶ平安以来の長大な古道の一部だった。通過する土地土地で違った名で呼ばれる、いわゆる『塩の道』である。この道路を坂越三高前から数キロ北上すると、総領谷と呼ばれる小昏い渓谷に出る。東から延びて来る『県道』が牧堀街道と“ 人 ”の字を成すようにぶつかった地点から急勾配の間道を下ると、生い茂った雑木林の先にあるのが治水・発電を目的として造られた総領ダムだった。
米代川の急流を堰き止め水没した総領谷に出来た人造湖は八瀬湖と呼ばれ、東側の対岸はもう樺山市である。
そしてこの東岸一帯に広がる雑木林に覆われた丘陵地帯を切り開いて作られた新興住宅地、松風台ニュータウンから毎朝三浦は250ccのFXを駆り、ダム橋の上を通る通称堰堤道路をとおって三高まで通学していた。
その名の通り松風台は年中絶え間なく強風が吹き荒れ、ことに豪雪の時期などバイクでの通学は毎日命がけらしい。
卓也はふと顔を上げ、視点を空にさまよわせた。
記憶の暗い軒下から突然ひどく子供じみた言葉が一つ、意識の明るみに転がり出して来た。
「『 名なしの森 』、つったっけか」
「なに?」
不意打ちにあったような大声を出し、突然三浦は目をむいた。
「おい、脅かすなづゥの。――ほれ。薮沢がら県道沿いに、俺ん家のあだりまで藪だの雑木林がずっと続いてらえんちぇ。長ェ事忘れてらったけど、餓鬼の時分にあの国有林ん所、俺達そう呼んでらったんだ。牧堀北小の餓鬼ども今でもそう呼んでらべな」
三浦は黙ったまま顎と唇に右の拳を押し当てていたが、ややあってうってかわった明晰な口調で話し始めた。
「まあ薮沢界隈だばお前が茶々入れる通り、少しぐれえ変たなのが出没したって何も不思議はねえわな。んだどもそれもお前の言う通り春先、それもゴールデンウイークあだりの話だべや。こったに冷え込みきつくなって来た時分の、しかも陽ィ暮れだ後にだぞ。連中一体何が悲しくて森ん中ばうろづいだり、田圃の真ん中でひそひそ話なんぞをしねばなんねェってよ。農家のかみさんの昼休みでもあんめえし。それも夜中も夜中、バスだって通らねえ零時過ぎだぞ。お前、信じられっか?」
「んでよ、ほれ、知ってっぺ? 樺工の駒宮。先週の日曜の晩、あの野郎ダム道路で妙なもんと出くわしたらしい」
「ああ、駒ちゃんが。『坂越神風連』の」
「駒な、こないだ坂越がら樺山さ戻っ時、総領谷通ったんだど。んで、橋の上で幽霊ば見たそうだ」
見開くと結構なぎょろ目になる双眸に気味のわるい笑いを浮かべ、三浦はからかうような口調で続けた。
「駒の野郎、未だに元気がねえ。もう二度と八瀬湖さは近寄らねえ、神風連で招集かかっても絶対ダムは通らねえ、つってる」
『坂越神風連』は樺山や坂越、それに周辺の村の少年たちからなる県下でも有数の暴走族で、三浦はある程度の距離こそ置いていたがここの荒くれたメンバーたちと非常に仲が良かった。メンバーには中学時代の同級生も何人かいるらしい。
駒宮は確か上から二番目か三番目のポジションで、ごつい長身にいつもつなぎの作業着を着た凄みのある奴だった。乱暴で訛りがひどく極めて下品な冗談が得意だが、ものにこだわらぬさっぱりした性格で、彼にはそこそこの好感を抱いていた。
「あの豪傑駒ちゃんが何故なしてそこまでビビっちまったんだ?」
「橋の上でセーラー服の女子高生ど行き会ったんだど。それも夜中の二時過ぎに、俺方の制服着た女どよ」
今度は卓也が黙り込む番だった。
「お前知ってっか? 総領の川下つったら両岸とも見渡す限り雑木林だべや。ゲート脇の河原にある駐車場の灯りが消えっともう、夜中っちゅう真っ暗なんだァ。駒が通りかかった時は丁度放水しててよ。真っ暗な中で米代川さ白いしぶき上げで水がごうごう流れ落ちてくのばその女子、ぴくと動かねえで観でらったそうだ。」
三浦は卓也の言葉をうながすように言葉を切ったが、無論卓也に言うことなど何一つあるはずがない。
「やたら髪の長え女だったそうだ。なんとそいづハァ欄干さ腰かけで、肩越しに放水ゲートば見下ろしてらったんだどよ! ―― 絵さすっとなかなかいい構図だど思わねェが? んでもそいづ、もし三高生だどすっとハァいぐら幽霊でもその髪型だば重大な校則違反、づゥ事さなっけどな」
そう言って三浦はおかしくもないのに薄く笑った。
否、もしかしたら本当に何事かを思い出して笑ったのかも知れないが。
- 続く -