1.推定される発端 - その1 -
僕は 感じる
何かが やってくるのを
今宵 この
夜の 大気の中に
- フィル ・コリンズ “ 夜の囁き ” -
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濡れた薄紙を何枚も重ねたように、雨雲は分厚く空を覆っていた。
時折、雲間から西に傾いた陽が浄善寺ヶ原に射し入ると、大小の丘陵を覆う木立が暗がりから一斉に身をもたげ、曇天の下に異様なほどくっきりその輪郭を現した。
丘陵地帯の遙か西には、奥羽山脈の前哨をなす樺山山地がなだらかな峰々を連ねている。連なる稜線と垂れ籠めた雲海の間にはわずかな間隙があり、そこだけはいつも不思議にほの明るかった。
あたかも世界そのものが山脈のこちら側で唐突に終わり、そこから先はもう鈍く輝く白い混沌ばかりが無限の彼方へと続いているかのように。
浄善寺ヶ原、と土地の人々に通称される丘陵地帯に抱かれ、県立坂越第三高等学校の校舎はけものの群れのように蹲まっていた。時雨の濡らす丈高い薄の原野と田畑のただ中に建つ校舎は、土地の褶曲に沿って建っているせいかひどく平たく見えた。
校舎は鉄筋三階建てで中庭を囲みコの字型を成している。完成当時はその、SF映画に登場する秘密の研究所を思わせるフォルムが周囲の田園風景と鮮烈なミスマッチをなし、牧堀街道を往来する村人やドライバーたちの目を楽しませたものだった。だが10年の風雪を経て鈍色にくすんだ校舎のすがたは、いまや廃墟の修道院か半ば忘れ去られた辺境守備の砦を思わせた。
「全ぐ、手間ばがりかげさせやがって。この馬鹿たれが!」
クラス委員の本田晶は卓也の机からアンケート用紙を乱暴にひったくった。
中央委員会の配布したアンケートは例によって大した重要なものでもなかったが、本田は卓也が用紙を紛失したことに逆上し、因縁をつけて書き直させたのだ。けちをつけられ何度書き直したか分からない。やっと書き上がったアンケートを皺が寄るのも構わずボストンバッグに押し込むと、本田は改めて卓也をにらみつけた。
極度に表情の乏しい火野卓也は相変わらず机に両肘をついたまま、目を細めて窓から射す遅い午後の薄陽を見ている。
眩しい ――
坊ちゃん育ちで人に手をあげる度胸のない本田は、常に言葉の暴力で卓也を圧倒しにかかる。辺りに人がいないのをさいわい、本田のヒステリックな罵倒は際限もなく続いた。しかし最前から眠そうに細められた卓也の目からは何の感情の動きも読み取れない。そもそも本田の長々とした悪罵が、一言でも聞こえているのかどうか。
「てめえ、まじめに聞いてんのが。人の話!」
やっと卓也は彼の怒声に反応し、僅かに首を回して本田の顔を覗き込んだ。
青白く光る眼鏡の下で、しょぼついた目の縁が激しく痙攣している。本田の息は微かにコーヒー牛乳の臭いがした。
「ほんと、お前めみでェなのろまのぐずが社会さ出っと、一番周りさ迷惑かけんだよ。気をつけろ。この!」
除草剤でも撒かれたように生え際の薄い額をひくつかせ最後の悪態を叩き付けると、本田は鞄を引っつかんで足音も荒く教室を出て行った。
廊下に響く本田の足音が聞こえなくなっても卓也はまだ考えていた。
あの神経質で陰険なクラス委員長の一体どこが、スヌーピーの漫画に出てくる天才少年ライナスを思わせるのか。
やっと、答が出た。
―― なんだ。どっちも考える事が妙に爺むさくてガキのくせに禿げてる、ってだけの話じゃねえか。
馬鹿馬鹿しい。
肩をすくめ、卓也は机から立ち上がろうとした。
その時上空を泥水のように流れて行く雲の密度が変わったのか、不意に濃い闇が落ちかかって来た。
同時に教室の灯りがともった。
振り返ると、木戸を開けて長身の少年がうっそり入って来る所だった。
「なんだ、やっぱお前がよ」
振り向くと同時に卓也は別人のような笑顔になっていた。ライオンのたてがみを思わせる蓬髪をぼりぼり掻きながら、三浦司は教卓を回ってやって来た。
「本田の野郎が血相変えで飛び出して来やがっから何事がど思えば、やっぱまだおめが。卓」
「ほんと病気もちもいいとこだじぇ。あの野郎ッコは」
笑うと卓也は馬鹿よりむしろ間抜け、という言葉が似合う面相になる。人の話が理解できない、と言うよりいつも誤解してしまうタイプの顔だ。
「普段は理屈だげで生きでるくせに、一発ヒステリー起ごすともう人間の話なんざ何たも通じねえがらな。あの馬鹿餓鬼にはよォ」
「しかしおめえら、一体何してらった? 明がりッコも点けねえでハァ、陰気臭え」
「止めるんだァ気色悪い。他人が聞いたら誤解するえんちぇ」
「何だど誤解されってよ? え? 言ってみろ。こら! まあ、それはそうとお前 、まだ現役で部活やってらのが?」
三浦はポケットから丸めたリーダーの教科書を取り出し、通学鞄に押し込みながら言った。
「悪がったな! んだァ。どうせ俺ァ未だにバリバリの現役一軍だァ―― なに、例によって例のごとく、男手が丸っきし足んねェのよ」
「チョーさんも百恵も引退だえんちぇ。男は引き際が肝心だべや」
分別くさい調子で言って三浦は鞄を締めようとしたが、ふと手を止めて顔を上げ斜めに卓也を見た。
「そう言えばおめ、七組の諸井や小田だのはなんちょした? その後何か進展あったのがよ?」
「このあいだ進さん何やったど思う? まだいらねェ男気ば出しやがってよ。あのな。進さんわざわざ体育館さ連れで来たんだぞお前! あの馬鹿ッたれの諸井ど、あど有象無象ば三人ばがり引っ張ってきて練習やってる俺達の前で、頭ッコ下げさせだんだ」
「あったァ……」
三浦は呆れて両目に掌をあてた。
「本当がよそれ! あの野郎、ほんっとに変わらねえつうが何つうが……前期生徒会長進藤裕、いまだに健在、極めて健康! つう奴だな」
つられて卓也も吹き出した。
「全ぐ、夕焼け番長だが浄善寺ヶ原の総理大臣だが知らねえどもよ。とにがぐハァ、やる事がいちいち臭えんだよあの大将は。 んだども連中謝ったがらつってお前ハァ、『凌雲祭』がもう一回来る訳でもねがえんちぇ」
「あのな火野よ。言っとくが相変わらず、つったらハァお前も一緒だべや」
三浦は年寄り臭い顔に戻り、説教を再開した。
「そったなものの言い方ハァほどほどにしとけって。お前の余計な一言つったらまるで毒針殺法だ。んだがらお前ハァ、いつまでたってもいらねえ敵やだらに多いんだぞ」
「弁舌は弱者の武器だァ。近頃ハァ『蜂の一刺し』どが言うらしいども」
「タゴこの」
そう言って三浦は壁に歩み寄り、フックから通学用の革ジャンバーを外した。卓也は紫の長いマフラーを首に巻きながら言った。
「大体おめ、詫び入れたがらつってどうにかなる話でもねがえんちぇ。交通事故で死んだ奴が保証金もらって生き返っかよ? 結局俺らがあの馬鹿どもさ罪滅ぼしをした、って気分ば味あわせでやっただげだげでねえが。何の事はねえ、こっちの迷惑が一つ増えだだげの話だべや冗談でねえ! あったな鬱陶しいのに雁首揃えで無理矢理頭下げさせだってハァ、演劇部の誰が喜ぶってよ?」
「おい。ちょっと見ろや」
三浦は卓也の背後に顎をしゃくった。悪態をつくのをやめ肩越しに後を見ると、教室の窓いっぱいに壮大な幻が現れていた。
昏い雲海を背にして古代の神殿を思わせる構造物が聳えている。灰色の壁面は山々を圧してそそり立ち、樺山山地の最も高い山頂を数倍する高さがあった。早くも高空に集い始めた夜の気配に溶け込み、その最上部は見極められない。
「また何とも凄え風景だな」
卓也は微かな畏怖を覚え、虚ろな声で言った。
視界がらわずかに外れたところに立つ三浦が、頬をゆがめて声もなく笑うのが分かった。
「その辺さ佐藤友美でもうろついてねえが? 『未来への遺産』みでぇによ」
「ああ?」
―― 何を訳の分からぬこと言ってやがる。人の神聖な気分をぶちこわしにしやがって。いや、言ってる意味は分かるが。
三浦は人を笑わせるのがうまいが、卓也に対しては頻繁にこう言う捻りすぎた冗談を飛ばしてくる。大概大真面目な顔で言うものだから、時にはどこまでふざけているのかよく分からない。要は卓也がつまらぬ知識だけやたらに豊富なのを面白がっているのだが、無論それは三浦も卓也の同類に他ならぬ証拠でもあった。
ともあれ一瞬卓也を襲った強烈な黄昏の幻惑は、三浦の戯言で跡形もなく消し飛んでしまった。
「『過去の幻影』、づう奴か?」
「あだり。さすがは火野先生。天は語らずして…… 」
「変たな声出すんでねえタゴが。帰るぞ」
見せかけの威厳を喪った幻影に背を向け、卓也は肌寒い廊下に歩み出た。
背後では教室の壁とその天井近くに設けられた通風用の窓が反対側の窓に映りこみ、垂れ込めた雲海との見事な二重写しになっていた。
(続く)