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《 長編・青春ホラー 》 “ 影、つどう ”  作者: 黒瀬 珪
プロローグ
2/10

夏のおわり (198X )  - その2 -


               ▲


 その日、昼のあいだは文句のつけようもない見事な快晴だった。だが夏の終わりを飾るにふさわしいひんやり乾いた空気と、それを貫き射す心地よい熱を伴った陽射しが、さながらあくどい見せかけでもあったように日暮れの頃から急に空模様が崩れ出した。夜とともに寒気が坂越盆地に流れ込み、日没から一時間ほどで気温は五度近く下がった。日付をまたぐと大気中の湿度が増し、気温の低下には加速がついた。もしかしたら明け方には米代川の川縁沿いに濃霧が発生するかもしれない――。


 十全の全身から酔いが一気に消し飛んだ。

 がば、と身を起こした十全は、寄りかかっていたホルモン屋の看板を地べたに落としそうになった。

  ―― 何故なしてこったな時間にこったな場所さ女子(おなご)いんのよ! まさが、街娼(パンスケが)

 ブラウン地にベージュのボックスプリーツが付いたツィードスカート、それにニーハイブーツ。そんなことを十全が知る筈もなかったが、くすんだブーツの色はエンシェント・ブラウン。

 県都であるとなりの樺山市ならばいざ知らず、ここ坂越のような田舎町でその種の女と出会う確率など、花見や祭礼の季節を除けば町中で狸やイタチと出くわすよりはるかに低い。それに、ちょうどよく体の輪郭を際立たせる淡い花柄のサマーセーターは、夜の女にあまりにそぐわなかった。

 ―― 何者だ? この女 いや……おい、ちょっと待て!

 十全はふたたび呆然とし、看板から身を離した。

 飾り煉瓦の壁に取り付けられたライトの真下に、女は下に何も敷かず、じかに階段に座っていた。

 その腰のあたりまで延びたレイヤードヘアが灯の光を独占し、豪華な輝きを放っている。

 だが、その見事なウェーヴは美容院で作ったものではない。

 普段きつく結われていた名残なのだ。

 つまり十全は、その女をよく知っていた。――

 だが理由が分からない。

 こんな時間のこんな場所に、こともあろうにどうして彼女がいるのか。それもあんな格好をして。

 彼の驚愕をよそに、そこにいるはずのない踊り場の女は座ったまま黒猫を愛撫し続けた。

 やがて女の口許に笑みが浮かんで来た。

 品良く落ち着いた身なりの女はルージュの色だけが異様だった。

 唇が、さながら煮込んだ血のような色をしている。

 いつのまにか女は、階段の踊り場から十全を見下ろしていた。

 笑っていた。

 血の色の唇で、十全に妖しく微笑みかけていた。

 十全の背筋が凍った。同時に横断歩道で信号が点滅し始めた。

 光を受けて、女の頬も(おぼろ)に明滅する。 

 信号の点滅が止んだ。同時に十全の体を巡る血もその流れを止めた。

 何も考えられぬ状態で十全は悟った。

 ああ。取り憑かれた、と。

 今、自分の中に得体の知れぬ何かがしっかりと根付いた。

 おそらくそれはもう、二度とは自分から離れまい

 冷え込んだ夜気のもたらす震えとは比べものにならぬ、激しい戦慄が十全を襲った。

 一刻も早くその場から立ち去らねば、と思うのだが、女の視線は十全を捕らえて放さない。

 手の感覚もなくなるほどきつくガードレールを握りしめているのに、十全は自分で気づかなかった。

 食いしばった前歯の隙間から軋むような呻き声が漏れ出た。その時不意に女の姿が視界から消えた。座り込んだ十全の目の前に、大きな車が立てずに滑り込んで来た。

 体を結束していた力が不意に消え、座り込んだ十全は縁石に手をついて啜り泣くような吐息を漏らした。かすんだ目が眼前に停まった白い車のボディに走る、一本の黒いラインを捉えた。

 十全は小さく叫んだ。

 ―― おい、嘘だべ? ソアラ(・・・)だってが?

 ソアラことトヨタX―8は、まだ雑誌やテレビでしか見たことがない。まして坂越市のような県庁所在地でさえない東北の田舎町ではマークⅡはおろか、クレスタさえ持ってる奴がいるかどうか。

 樺山か、それともどこか県外からわざわざやって来た金持ちのぼんぼんの持ち物かもしれない。

 車体の向こう側でドアの閉まる音がした。わずかにタイヤが撓み、車体が揺れる。あの女が後部座席に座ったのだ。抱きかかえた真っ黒な猫と一緒に。

 十全の顔のすぐ上にソアラのリア・ウィンドウがあった。

 いま目を上げたら、車窓の向こうにあの女の横顔があるだろう。

 もしも俺が馬鹿な了見を起こしたなら、あの恐ろしい笑顔と至近距離で向き合う羽目になる。ウィンクしてピースサインの一つも出してやれればいいのだが、俺にはとてもそんな勇気はない。

 ―― 畜生。しょせん俺はうぶ(・・)でドン臭い、農家生まれの馬鹿息子だ!

 十全は説明できぬ惨めさに打ちのめされた。そして彼を一切無視したように、現れた時と同様ソアラは驚くほど静かに走り去った。

 真夜中をとうに過ぎた町外れの淋しい静寂のなかに、十全はひとり取り残されて震えていた。

 遠い祥雲橋の向こう岸を横切る国道四号線から行き交う車の音が僅かに聞こえて来る。まるで放送の終了したラジオから聞こえる僅かなノイズのようだ。空には月も星も見えない。 

 八月末の闇夜は夜半を過ぎて尚も更けてゆく。

 背後に目を転ずると、遠ざかって行くソアラのテールライトが樹影の中を見え隠れしながら動いていた。後尾灯は住宅地を抜け畑地を抜けて、やがて東の山脈の前哨となる佐武(さたけ)山地の麓を緩やかに上って行き、斜面に密生した針葉樹の間を縫いやがて頂の方へと消えて行った。

 無論そのあたりの斜面を広くおおう赤松林は闇深く沈み、丈なす木立の輪郭さえ見えない。

 酔い醒めの痙攣じみた震えが十全を襲った。

 何かが自分の中から、決定的に喪われてしまった。

 男が男で、いや、人が人であるために必要な何か。無くしてしまうまでそんなものが自分に備わっている事さえ気づかなかった、あたりまえ過ぎる程に馴染み深い、しかし決して言葉に出来ぬもの。

 人を人間としてあらしめるため必要な、極めてささやかな要素の一つが。

 何か暖かい物が飲みたい。十全は痛切に願った。だが自販機に暖かい飲料が入るのは、まだずっと先のことだった。

 しかしその夜、確かに坂越の夏は終わった。


( 続 く )


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