[36] 異世界帰りのお兄ちゃん
林檎に駆け寄った杏は、その前に立ち、小さな肩を強く揺すった。
「林檎! しっかりしなさい!」
「…………」
ぼんやりとした瞳は、動かない。
ブランコに座ったまま、林檎はぶつぶつと、何かをつぶやき続けていた。
「わたしがわかんないの!? 林檎、林檎ってば!」
「……お兄ちゃん……」
「え?」
杏が耳を寄せると、林檎は壊れた音楽プレイヤーのように、同じ単語を繰り返していた。
「お兄ちゃん……どこ行っちゃったの……? お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
「林檎……」
杏は、隣のブランコに座る。
ブランコに座ったのなんて、久しぶりだ。この公園も、あの花火大会の時以来、一度も来ていない。
けど、林檎は時々、公園に行っていたのを杏は知っていた。
「……ね、林檎。覚えてる?」
隣に座る林檎へ、囁きかけるように告げる。
「昔、林檎と一緒に兄さんのバスケの試合見に行った時。まだわたしも小さかったけど、林檎と二人で応援して。あれは、楽しかったなー」
兄には内緒で、こっそり見に行った。
すぐに気づかれてしまったが、そこから試合で大活躍。今思えばとんでもない能力を発揮して、ダブルスコア以上の差をつけて勝ってしまった。
「林檎は本当に嬉しそうで。もちろん、私も楽しかったけど、試合に勝った時、林檎はぴょんぴょん飛び跳ねてたよね。ああ、林檎は本当に兄さんが好きなんだなー、って思ったよ」
林檎は昔からお兄ちゃんっ子だった。
いや、違う。お兄ちゃんっ子だったのは、二人ともだ。
「でも、兄さんがいなくなっちゃって。わたしがわんわん泣いてた時、林檎はずっと明るく慰めてくれたよね。大丈夫だよ、お兄ちゃんはすぐ帰って来るよ、だから一緒に待とう、って。あの言葉に、わたしがどれだけ救われたか。きっと、林檎は知らないだろうね」
兄が突然いなくなって。
ただ泣くだけだった杏と違い、林檎はしっかりしなければ、という想いが強かったのだろう。
姉だから。妹を守らないといけないから。
そんな想いが、林檎を追い詰めてしまったのかもしれない。
「でも、だからわたしは気づけなかった。本当は、林檎もショックを受けていたって。ううん、林檎の方が、わたしよりも兄さんと一緒にいた時間は長かった分、悲しみは大きかったんだってこと」
ブランコから降りて、林檎の小さな身体を抱きしめる。
この小さな身体に、どれほどの悲しみが詰まっていたのだろう。どうして、それに気づいてあげられなかったのだろう。
林檎の悲しみは、兄だけのせいじゃない。自分にも責任がある。
「苦しかったよね……! ごめんね、気づけなくて……! ごめん、ごめん林檎……!」
「…………」
ぼんやりとした林檎の瞳は変わらない。それでも、言わなきゃいけないことが、たくさんあった。
「でも、もう大丈夫だから……! 兄さんは帰って来てくれた……帰って来たんだよ……!」
「お兄ちゃん……」
その単語にだけ、林檎は反応を示す。
しかし、林檎にとってそれは、辛い想い出でしかなかった。
「お兄ちゃんは……私がいらない子だったんだ……だから、お家に帰ってこなくなっちゃったんだ……!」
「違う! そんなことない!」
そう、そんなことはない。
それは、杏が誰よりもよく知っている。
「兄さんは、林檎のこと大好きだった! それは、わたしが一番よく知ってるから! だから、林檎!」
ぎゅっと、その小さな身体を抱き締めた。
そこには確かに、ぬくもりがある。
小さな身体に溜まった、全ての悲しみをなくすように。
心の底から、幸せを感じられるように。
思いっきり、ありったけの想いを込めて、杏は叫んだ。
「帰ってきなさい! わたしと、お兄ちゃんのところに!」
ゆっくりと。本当にゆっくりとだが、林檎の瞳に、色が戻ってゆく。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんは……わたしのこと……嫌いじゃないの……?」
「そんなの――」
「――当たり前だ!」
――俺は、林檎と杏を抱き締めた。
「兄さん!」
「……お兄ちゃん……?」
強く強く、もう二度と放さないように。この子たちは、俺の宝物だ。誰にも渡さないし、誰にも傷つけさせやしない。
もしそんなヤツがいたとしたら、俺が全力で消し飛ばしてやる。
「く……っ、どこにこんな力が……!」
「バカめ。よく覚えておけ」
地面に膝を突いているナズナを見下ろしながら、俺は世界の真理を叫んでやる。
「妹のためなら、兄はどんな不可能も可能にするんだよ!」
「が……っ!?」
放たれた強烈な魔力弾を受け切れず、ナズナが吹き飛ぶ。
確かに、ナズナは魔力を補充し続けていた。しかし、その速度にも限界ってものはある。
だったら、それを上回る力で魔法を叩き込み続ければいいだけの話だ。
「こんな不合理……! 許されるはずがないのです……! こんなことで……!」
「ざけんな。テメェの許しなんてハナから求めてねぇんだよ」
連続して魔法を打ち続けながら、俺は鼻で笑う。
わかってねぇな。そんなの、理屈じゃない。いや、理屈はあるが、そんな難しいもんじゃない。
「妹が正義。妹に害する者が悪。それだけだ。簡単だろうが」
「世界は、そんな単純ではないのです……!」
「難しくしてんのはテメェらだろうが」
世界樹だとか、種族だとか、復讐だとか、異世界だとか。
そんなもの、俺にとってはどうでもいいものばかりだ。世界はもっとシンプルで、当たり前で、そして、美しいものだ。
「俺は妹のために異世界で魔王を倒し、戻って来た。お前は何度か過去に遡った際、そうなる前に、ただ俺を元の世界に送り返していればそれでよかったんだよ。妹のいる世界に戻ってりゃ、俺は満足だったんだからな」
「そんな……!?」
ナズナはショックを受けたように、身体を振わせる。動揺からか、集まった魔力が霧散しかけていた。
「ボクは……間違えたのです……? 何度も何度も、選択を間違えてしまったのです……?」
「そうだよ」
だから、どうしてみんな、そこを不思議がるんだ?
俺は何度も言っていたはずだ。妹以外に興味はないと。
逆に言えば、俺の妹に手を出すってことは、イコール、殺してくださいっていうアピールなんだよ。
「この世界に来て魔王になろうと思ったなら、むしろ、俺の妹から離れなきゃならなかったんだよ。そうすりゃ、お前が世界征服しようが何しようが、俺は放置して妹と遊んでただろうに」
「そんな……そんなこと……!」
ナズナは何度も繰り返してきた自分の間違いを知って、うなだれる。残念だったな。お前にも妹がいれば、このシンプルな理論を理解できただろうに。
「さ、林檎、杏」
「お兄ちゃん……」
「兄さん……」
顔を上げた二人の妹に、俺は笑いかけた。
「すまんな。七年もいなくなっちまって。でもな、これだけは言っておく」
七年間、俺のいない生活を続けた林檎たち。
どれくらい大変だったのかは、想像もつかない。
どれほど寂しかったのかは、理解することもできない。
ただ、それでも、俺は言わなきゃいけない。これだけは、ちゃんと知っておいてもらわないといけないんだ。
「俺は、林檎と杏のことが大好きだ。世界で一番だ。お前たちのためなら、魔王だろうが神様だろうが、ぶっ飛ばしてやる」
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
ぎゅっと、林檎が俺に抱きついてくる。
はらはらと涙を流しながらも、その瞳には、あの時の――俺が異世界に召喚される前の林檎の、綺麗な色が戻っていた。
「安心しろ。俺はもう、二度といなくならない。何故なら、俺は林檎と杏のお兄ちゃんだからだ!」
「うん……うん……!」
何度も頷く林檎。もう二度と、寂しい想いはさせない。神様だろうが、魔王だろうが、それを邪魔するならぶっ飛ばしてやる。
「じゃ、帰るぞ。お兄ちゃんと一緒に、あの家へ」
「……うん!」
「……はい!」
ゆっくりと、俺たちを光が包み込む。魔王の魔力が尽きたことを知り、リリミィが引き戻してくれているのだろう。
そう、この異世界から帰るのだ。妹たちと、俺と、一緒に。
――何たって俺は、異世界帰りのお兄ちゃんだからな!




