[30] 葛藤
結論から言えば、その後も林檎はぐずっていた。
そして、二時間ぐらいぐずぐずしていたが、バイトの疲れも手伝ってか、そのまま寝てしまった。
「林檎とナズナは、寝たか?」
「うん」
二人を部屋に連れて行った杏が戻ってくる。
俺は冷蔵庫から取り出しておいたペットボトルを杏に差し出した。
「ほれ」
「……ありがと」
ペットボトルのジュースを受け取り、杏はソファーの反対側に座る。
俺も自分のペットボトルを開けて、一口。微炭酸が、喉を刺激してきた。
異世界に行っていた時は、ずっと炭酸が恋しかった。こればっかりは、異世界ではどうしようもない。
口の中に広がる微炭酸を味わいながら、さっきの林檎のことを思い出していた。
「けど、少し驚いたな。七年前は、どっちかっていうと、杏の方が寂しがり屋だったのに」
「昔の話でしょ」
こちらに横を向く態勢を取って、杏はジュースを飲む。杏が昔から好きなイチゴミルク味だ。こういうところは、子供の頃と同じらしい。
「でも、そうかもね。林檎はどっちかっていうと、ずっと笑っている子だったから。あんまり寂しいとかって言わない子供だったけど」
天真爛漫で、いつも笑っている明るい子。
そんな林檎の心に傷をつけてしまったのは、他でもない、俺だったようだ。
「七年前……紅也兄さんがいなくなってから、林檎は一人になるのを極端に怖がるようになったわ」
「…………」
七年という時間は、決して短くない。
それこそ、街が様変わりしてしまうほどに。
担任の先生が教頭先生に出世してしまうほどに。
そして、小学生だった妹が、同い年になってしまうほどに。
「しばらくは、一人で寝るのも怖がって。よく一緒に寝て欲しいってお願いされたわ。最近はさすがになくなってたけど、兄さんと一緒に寝たがっていたのも、そのせいだと思う」
「そうか……」
昔から、寂しがりやではあった。しかし、べったりするような子ではなかった。
そんな林檎を変えてしまったのは、不可抗力とはいえ、俺のせいだ。兄として、これほどな避けない事はない。
「あの子に、悪気があるわけじゃないの。だから、嫌がらないであげて」
「嫌がるわけないだろう」
何を当たり前なことを、と俺は笑う。
「俺は、林檎のお兄ちゃんなんだぞ。妹のお願いは、全て叶えなければならないと法律で決まってるんだからな」
「どこの国の法律よ……」
呆れたように言いながらも、杏はくすりと笑みをこぼした。
戻ってきてから、杏の笑顔を初めて見たような気がする。こんな顔して笑うんだ、と、一瞬だけ見惚れてしまった自分がいた。
「でも、なるべき一緒にいてあげて。ここのところ、変な事件も多いみたいだし」
「変な事件?」
こくりと頷いた杏が、その内容を説明してくる。
「今朝の新聞にも載ってたけど、意識をなくして昏倒してしまう人が増えてるんだって。普通に学校や会社へ行っていたのに、病院に搬送されて調べてみたら、酷く衰弱していたらしくって」
「衰弱……」
そういえば、トラックが横転した事故って、この近くだったよな。
あの事故にも、魔力の残滓が見えた。何らかの関係があるのかもしれない。
「それって、いつ頃からだ?」
「ええと、本当にここ数日よ。ガスが原因じゃないかとも言われていたわ。うちの学園でも倒れた人がいたから、話題になっていたの」
「…………」
人を昏倒させる魔法になら、心当たりがある。
俺が倒した魔王の配下に、そういったことを得意にしている奴がいた。
ドレインタッチという生気を吸い取る魔法を扱う、厄介な相手だった。
そいつのせいで、いくつもの村が襲われ、村人たちが犠牲になったという。
もちろん、魔王討伐の過程でボコボコにした。アンデッドなので殺すことはできなかったが、リリミィに封印されたはずなので、奴が動けるはずがない。
もし、あの魔法を使う者が他にいるなら、それは――
「あ、そうそう」
杏はふと思い出したように、俺の前に袋に包まれた何かを差し出してきた。
「はい、これ」
「? 何だこれ?」
反射的に受け取ると、随分軽い。長方形の何かのようだが、はて。
「何だって、ナルトの三十巻」
「……!」
俺は思わず取り落としそうになった。
急いで袋の中身を出してみると、少し黄ばんだマンガ本だった。そして、間違いなく、三十巻の文字が表紙に躍っている。
「兄さんがいなくなった後に出た、最初の巻よ。もしかしたら、読みたいんじゃないかと思って」
「読みたい!」
気になる。
敵のアジトに乗り込んだ後でどうなるのか、物凄く気になっていたのだ。まさか、買っていてくれているとは思っていなかった。
「ちなみに、七十巻ちょっと出てるから。一応、全巻揃ってるし」
「七十!? そんなに出てんのか!?」
「ちなみに、最後はね。ナルトとサスケが」
「言うな! 言うんじゃない!」
危うくネタバレされるところだった。
残り四十巻が無駄になるところだったじゃないか。危ない危ない。
「全巻揃ってるって、杏が買ったのか?」
「い、いいでしょ? 読みたかったんだから」
もしかしたら、俺の代わりに買い続けてくれていたのかもしれない。
昔から、杏は優しい子だった。
逆に言えば、俺は林檎も杏に、大きな負担をかけてしまっていたんだろう。
三ヶ月。俺にとっては、たったの三ヶ月のはずだった。
それが、七年。浦島太郎ほどではないにせよ、決して短くない時間だ。
親父の書斎に詰め込んであるというから、そこに行ってみる。親父が持っていた小説やら参考書やらを押し退けて、俺が持っていたマンガがそこに収められていた。確かに、倍になったこの量は、もう俺の部屋に入らないだろう。
「本当だ、全巻揃ってる……お、ワンピもすげー出てるじゃんか。でも、ハンターはあんまり進んでないな?」
「ああ……うん。続き読みたいんだけどね……」
言葉を濁す。何だ、ハンターは打ち切りにでもなったのか? 超面白かったのに。
「時間を巻き戻す魔法があれば、いいんだけどな……」
「そんなの、あるの?」
何気なく、杏が聞き直してくる。
基本的に、それは不可能なはずだ。しかし、俺がまだ習得していないだけで、そういう魔法がどこかに眠っていたりするんじゃないか?
「……そうか、それができれば」
餅は餅屋だ。さっそく、詳しいヤツに聞いてみよう。
「ちょっと出てくる!」
「え? あ、ちょっと!?」
俺は杏が止める間もなく、夜闇が包む外へと駆け出した。目指す先は、ちょっと行った場所にある、小さな公園だ。




