6. 名の対価に望むもの
荘周は慣れた手付きで染めと洗いを繰り返す。ようやく色に満足した彼が生地を乾かし始めた頃には、日がすっかり暮れていた。
「そういえば。荘周、食事はどうするんじゃ? 分かっておると思うが、おんしのさっき言っておった肉魚は、採ってこなければ無いぞ」
霞を食べに外に出ようとして、緋迦は足を止めた。
さすがに疲れた感じの荘周だが、特に困っているようには見えない。こちらが見ていることに気付いた彼は、小さく笑って荷を漁りだした。
「お気遣いなく。正直、迦陵頻伽がすんなり見つかるとも思っていなかったので、保存食もある程度持っているので。この子の餌もありますし、木の実はちょっと頂きますけど」
狸が彼の手から木の実を食べる。
「ぐぬぬ。仲睦まじい様を見せつけるのは妾への宣戦布告か!? 婿殿の食事の世話くらい、妾にも出来るぞ!」
嫉妬に燃える緋迦が卓に近付くと、狸は一瞬尻尾を膨らませ、次の瞬間には荘周の懐へ飛び込んでしまった。
以前もそこに逃げ込んだことといい、彼の服の中は安全だと認識しているようだ。
力尽くで引っ張り出してもいい。
けれど、そんなことをしては、愛しの狸はさらに緋迦を怖がるだろう。
「しばし婿殿を預けるだけだからな!」
負け惜しみの言葉を捨て置き、緋迦は紺碧と食事に出かけた。
食事を終えた二人が庵に戻ると、荘周と狸はうつらうつらしていた。荘周は一応起きてはいるが、狸にいたってはどう見ても寝ている。
荘周だけなら放置していてもいいが、狸のためには寝床が必要だ。
仕方がないので、紺碧の手を借りて、手早く簡易寝台を設えにかかった。
積み重ねた藁の上に布を敷き、その上に飛び乗り出来を確かめる。程よい弾力と藁の香りに満足し、緋迦は上半身を起こした。
そうして、荘周が動いたことで目を覚ましたらしき狸に、おいでおいでする。
「どうじゃ婿殿。あなたのために寝床を設えました。今夜はここで妾と夜を明かしましょうぞ」
満面の笑みを浮かべ彼を誘惑したーーつもりだったのだが、緋迦を見た狸は、またもや荘周の服の中に隠れてしまう。
「なぜじゃ!? 何がお気に召さなかったと仰るのか!?」
「そんな取って食いそうな顔されれば、俺でも怖いわ!」
荘周に叩かれた緋迦の頭から、パコーンと軽い音がした。
それを見た紺碧が、当然のように鬼の形相になる。
「おのれ下僕! その首をさっさと晒せ、瞬殺してくれる!」
「そういうのいいから! お約束とかいらないから! 疲れてて眠いんだから、静かに寝かせてよ〜」
紺碧に追いかけられ逃げる荘周の服から、狸が寝床へと飛ぶ。上手いこと着地した獣は寝床の真ん中で丸くなり、完全に寝の姿勢になった。
その寝姿を見ながら、緋迦もほんわか過ごそうとしたのだが。
「騒がしいぞ、おんしら! 婿殿が起きてしまわれたらどう責任とるつもりじゃ!?」
我慢出来ず怒鳴ってしまったが、これもきっと愛のため。
自分も寝ようと思ったのに、いつまでも騒がしかった二人にイラついたから、とかでは断じてない。多分。
翌日。
朝餉をとり終えた荘周が、緋迦達に声をかけてくる。
「それじゃ、今日は足の寸法を測りましょうか。どちらから採寸したいです?」
「ハイッ! ハイッ。ここは妾からじゃろう!」
緋迦は勢いよく手を上げた。
それを見た彼が少し驚いた顔をし、小さく笑うと、近くの椅子を指す。
「じゃあ緋迦さんから。そちらの椅子に掛けて、足を見せてもらえますか?」
「椅子に座って脚を出せだな。なんやワクワクするのう紺碧」
「左様ですね、緋迦様」
緋迦は声を弾ませ椅子に腰掛け、鳥型の脚をプラプラさせた。
彼女の前でしゃがんだ荘周は困り顔で笑っているけれど、特に何もしない。
(人間とは、見ただけで採寸出来るのか?)
便利なものだな、と、思いながら脚をブラブラさせていると、おずおずと荘周が顔を上げる。
「緋迦さん、足、出してもらえます?」
「先程から出しているであろう? ほれほれ」
緋迦が脚を動かすと、荘周は深く溜息をつく。
少し腰を浮かした彼は、
「人型の時履く靴なのに、なんで鳥の脚出しとるんじゃ、われ!」
口汚く罵りながら、緋迦の頭をスパーンと叩いた。
自然な流れで横の紺碧が怒り出すのだが、緋迦は緋迦で慣れたもので、紺碧の翼をむんずと掴んで彼女を引き止める。
その上で、文句を言いだしそうだった紺碧より先に口を開いた。
「朝っぱらから出てきおったな、裏周!」
「は? 裏周って俺のこと?」
荘周も慣れたもので、紺碧の剣幕など無視して会話を続けてくる。
そんな彼に緋迦は頷いた。
「うむ。裏人格の荘周だから裏周だな。昨夜、寝る前に紺碧と考えて名付けてやったのだ。感謝するがよいぞ」
「分かりやすくて実に良い名だと思います。その名を緋迦様が口になさった時、さすがだと、私の心は震えました」
あっちの世界に行っている表情で紺碧が何か言っているけれど、華麗に流して、荘周は苦笑いを浮かべる。
「裏周ねぇ。俺が表だとは思わなかったんだ? まぁ、どうでもいいけど」
「して。おんしに名を与えてやったのだ。その対価に、今夜は妾に婿殿を」
緋迦は手を差し出した。そこに狸を乗せろと主張するように。
その手とこちらの顔を見て、荘周は盛大に息を吐く。
「殊勝なことしてると思ったら、そんな下心有りなのね。てか、狸がビビってんだから無理でしょ」
「なぜじゃ!? 妾のどこが怖いと申すのだ!」
勢いよく緋迦は立ち上がった。
そんな彼女の足元を荘周は指す。
「そりゃ、主にその爪でしょ。後は、昨夜の取って食われそうな雰囲気とか。ほら、こいつも怯えてるから、さっさと人型になりなって」
「ぬ。ぐぬぬ」
緋迦は再び着席すると人間に擬態した。そして、彼に引っ付いて離れない狸に熱い視線を向ける。
「婿殿。妾は絶対にあなたに相応しい雌になってみせます。それまでしばしお待ちください」
「緋迦ちゃん。こいつを勝手に婿殿って呼んでるけど、婿じゃないからね?」
「将来の婿なら、今から呼んでも差し支えあるまい」
「そう思いたいなら止めないけど」
「うむ。種族の壁など、我らの愛で乗り越えましょうぞ」
それから緋迦は、荘周が何か言うのも上の空で、狸への愛を語り始めた。
何かを諦めたのか、彼は緋迦の足を測り始める。その時は、また、雰囲気が変わっていた。どうやら人格が入れ替わったようだ。