17. 流され過ぎじゃないですかね
荘周がいなくなってからはひたすらに掃除に励む。
いつの間にやら戻ってきていた彼が絞った雑巾を渡してきたので、ハタキ掛けの終わった場所を拭いた。
その間に、荘周は床を箒で掃いてくれている。
「気がきくな裏周! おんしが掃き終われば終了だな」
「何言ってんの? 床も雑巾掛けするに決まってるでしょ。紺さんがいつもやってんじゃないの?」
「うぐ」
緋迦は言葉に詰まった。
忘れていたとは言えない。いや、実際すっかり忘れ去っていたのだが、普段家事を任せっきりなので仕方ない。
けれど、素直に認めるのも癪なので、とりあえず誤魔化すことにした。
「忘れてなどおらんぞ。おんしの仕事はそれまでだと言ったまでだ」
「あそう? じゃ、俺、そこで座って見てるね」
「え。手伝ってくれんのか?」
「俺の仕事は終わりなんでしょ?」
反論の余地すらなく論破された。
自分が言い出したことなので、緋迦は涙をこらえて一人床の雑巾掛けをする。
宣言通り荘周は手伝ってくれなかったが、終わった時に温かい茶を淹れて微笑んでくれたのは、彼の優しさだろう。
うっかり目が潤んだのは、けっして優しさにほだされたからではない。
ズズッ。
緋迦と荘周の二人が茶をすする音だけが響く。
「のう、裏周」
緋迦は湯呑みを手で包んだまま彼を呼ぶ。
「何?」
素っ気ない返事があった。
「紺碧達、遅過ぎんか?」
「そう?」
返ってきたのは、変わらず素っ気ない言葉。
「いや、遅すぎるじゃろ!」
緋迦は卓をバンと叩き、立ち上がって窓の外を指した。
帰ってきた頃は昼過ぎだったはずだが、窓から差し込む光はすっかり無くなっている。むしろ、暗くなりすぎて、さっき荘周が油に灯を入れたくらいだ。
「軽く行き来出来る距離の実家に行ったのに、未だ帰らぬとは、何かあったとしか思えぬぞ!」
「茶でも出されてくつろいでるんじゃない?」
「それはそれで羨まけしからんな! 迎えに行くぞ!」
緋迦はズンズンと出口へ向かう。そんな彼女の腕を荘周が掴んだ。
「いやいや。ほら、外もう暗いし、入れ違ったらいけないから大人しく待っとこうよ」
「何を言うておるのだ! 紺碧と婿殿に何かあったのかもしれぬのだぞ!? おんしがそんなに冷たい雄だとは知らなんだ」
彼が掴んでくる手を強引に振り払う。なおも緋迦が外に向かおうとすると、再び荘周に腕を掴まれた。
「さっきから何なのだ、おんしは!」
先程のように振り払おうとしたけれど、今度は振り解けない。
荘周を睨みつけると、彼は困り顔で、空いている方の手で自らの頬を掻いた。
「正直俺もちょっと困ってるんだけど、動かれると更に困るっていうか」
「なんやスッキリせん態度だのう。言いたいことがあるならさっさと申せ」
緋迦は顎をくいっとしゃくり、彼を促す。
けれど彼は皮肉気に顔を歪めるばかりで、明確な答えを寄越さない。
進展しない事態にイラつきながら緋迦は喚いた。
「はーなーせー。妾は行くんじゃ!」
「だから、行かれると困るんだって」
「知るかそんなこと!」
二人で行く行かせないと争っていると、玄関戸がガラリと開いた。
そして、駆け込んでくる紺色の影。
「緋迦様大変です! 狸が、狸殿が!」
取り乱した様子の紺碧が口をパクパクさせる。
そんな彼女の様子に荘周の気がそれたのか、緋迦を掴む手が離れた。
緋迦だって驚いているが、自分まで取り乱しては大変な事態になりそうな気がする。
ひとまず深呼吸して紺碧を観察した。
彼女は取り乱してはいるが、身だしなみに乱れは見られない。傷……も無さそうだ。
けれど、共にいなければならぬはずの狸がいない。
「紺碧。おんし、婿殿を迎えに行ったのだったよな? どこにおられるのだ?」
そう尋ねてみると、紺碧の肩がビクリと震えた。彼女は緋迦から顔を背け、視線を下に向ける。そして、小さな声で言ってくる。
「それが、途中で強奪されてしまって」
「なんだ? よく聞こえぬぞ。もう少し大きな声で頼む」
緋迦は耳をほじくりながら紺碧に近付く。こちらを向いた紺碧は、今度こそ覚悟を決めたように声を張った。
「ここに戻ってくる途中で、強引に連れ去られてしまったのです」
「……」
「……」
「……」
シン、と、静寂が空間を支配する。
緋迦は紺碧の言葉を頭の中で思い出し、発言の意味が理解出来てくるに従って手が震えてきた。紺碧に詰め寄り問い詰める。
「誰じゃ!? どこのたわけが妾の婿殿を!?」
「翡翠です。きっと、緋迦様が狸に夢中だと聞きつけて、嫉妬を」
「あんのーー」
わなわなと、緋迦は紺碧から手を離した。そして、キッと外を睨む。
「馬鹿たれがぁあああっ! 雄の風上にもおけぬ奴め!」
叫びながら庵を出た。翼を広げると力強く羽ばたき高く飛翔する。そのまま、翡翠の庵へ向けて飛んだ。
怒りと心配で胸が締め付けられる。
けれど、さらわれてまだ間もないのならば、危害が加えられていない可能性も高い。
(婿殿、今助けに参りますぞ。どうかご無事で)
それだけを願いながら、ひたすらに翼を動かした。
木陰に隠れるように建つ一軒の庵の前に降り立つと、勢いよく玄関戸を開けた。そして叫ぶ。
「翡翠! 婿殿をさらうとはどういう了見だ!?」
「ん?」
狸を腕に抱いた迦陵頻伽がこちらを向く。
緑の髪と瞳と翼を持つ彼の名は翡翠。愛しの君をさらったとされる人物だ。
先程までは、本当に彼がそんなことをしたのかという疑問もあったが、この光景を見て、疑惑は確信へと変わる。
彼が抱くのは間違うはずがない。愛しの狸だ。
「おんしの抱いている狸のことだ! 触れるでない! 婿殿が穢れる!」
緋迦は狸をビシッと指差す。
(フッ。決まった。婿殿、ご覧になられましたか? 妾の勇姿を)
自らに半分酔いながら、愛しの狸へと視線を向けた。
狸の目に浮かんでいたのは熱くるしいまでの愛情ーーな、わけなどもちろんなく、逆に、これまでにない程怯えている。そのせいか、よりにもよって翡翠にしがみ付いている格好ではないか。
「な、なぜだ、婿殿!?」
「なぜだって、お前。そんな威嚇したら怖がるだろうが、普通に」
「そ、そうなのか?」
狸の視線に、緋迦の逆立っていた髪が一部萎れる。
「ならば、妾はどうすれば怖がられなくなるのだ?」
「怒るのやめたらいいんじゃないか?」
「おー、そうか。試してみるかの」
髪と翼をなで付け、逆立っている部分を無くす。
「これでどうですじゃ? 婿殿」
猫なで声で話しかけてみたら、今度はあまり怯えないでくれた。先程までより柔らかい狸の態度に、自然と緋迦の顔が緩む。
「緋迦、顔が気持ち悪いぞ」
翡翠の失礼な言葉も聞き流せるほどに心が温かい。心のまま大らかに、緋迦は狸に手を伸ばした。
「婿殿のご機嫌も直ったし、その狸、返してもらおうか」
「返すのは別に構わないんだが、こいつをここに置いていったのはこーー」
「緋迦様、ご無事ですか!?」
今まで聞いたことのない大音量で紺碧の声が響いた。
緋迦が振り返ってみると、厳しい表情の紺碧が立っている。
少し遅れて荘周も息を切らせてやってきた。彼は呼吸を整えながら周囲を見回し、問いかけてくる。
「やっと追いついた。その緑の人が誘拐犯なわけ?」
「ええ、そうです」
紺碧が頷く。
「誘拐犯って、お前がここにこいつを置いーー」
「誘拐だなど、雄の風上にも置けぬ愚劣な行為です。このような雄が、次期族長候補の一人だなんて嘆かわしい!」
「いや、おまーー」
「さぁ、緋迦様、言っておやりなさい。自分が次期族長候補に戻るので、お前の席はもう無い! と」
紺碧が緋迦の肩を抱き、空いている方の手で翡翠を指す。
「そうなのか?」
次期族長候補に戻ることなんて緋迦は全く考えていなかったので、紺碧の言葉が意外で問い返した。
「そうですよ。緋迦様が宣言さえなされば、ですけど」
紺碧が優しく微笑む。
けれど、緋迦の肩を抱く腕に込められた力が、微妙に強まってきているのは気のせいだろうか。
「今関係無い気がするんだが、言わんといかんのか?」
「今だから効果があるのです。緋迦様が次期族長候補に返り咲けば位は翡翠より上。権力を振りかざして狸殿を取り戻すことも出来ましょう」
「おぉ、そういうことか!」
ようやく紺碧がこんなことを言い出した理由が理解出来、緋迦は拳を握った。そして、翡翠をビシッと指差す。
「妾は次期族長候補に戻るぞ! おんしの席が無くなるみたいだが、婿殿をさらった自らの悪行の報いと思い反省するがいい!」
「……」
当の翡翠は呆れた様子で肩を竦めている。
「頭緩いにしても、流されすぎじゃね?」
意外と冷静な荘周の声が四人と一匹の間に流れた。




