13. 胡蝶の夢
「こちらに来たら餌にする、と、警告はしておきましたよね」
「してたっけ? 最近歳なのか、物忘れが激しくて」
目の前にチラついている紺碧の脚爪に、荘周の頬を汗が流れた。彼が一歩退がると、もっと退がれとばかりに爪が追ってくる。
「そういえば、皿洗いがなんとかと言っていましたか?」
「そんなこと言ったっけ? 良い夢を〜。アハハ」
更に退がって布の外に出ると、それ以上彼女は追ってこなかった。
布で仕切っている空間にまで踏み込まなければ、とりあえず暴力沙汰にはならないのかもしれない。
(ここからもう一度呼んで手伝いを頼んでみる、か?)
と、チラッと考えてもみたけれど、止めておく。
紺碧の後ろに見えた緋迦は見事に寝ていた。さっきは警告だけで済んだが、今度大声を上げたりすれば、安眠妨害とか言って血が流れそうな気がしないでもない。
荘周は深く深くため息をつき、洗い場の大量の食器達と向き合った。
食器達と格闘することしばし。
ようやく終わりが見えてきてホッとした荘周の顔の前を、緋色の蝶が舞う。
(家の中に蝶がいるように見えるなんて、疲れてんのかね)
一考して、目の前に見えるものを幻覚と切り捨てる。
無視して作業を続けていると、眼前にチラつく蝶が二匹に増えた。一匹目の緋色の蝶に対して、二匹目は紺色をしている。
「何なの? あの二人みたいな色してさ」
ようやく片付けが済んだので、手を拭きながら顔をしかめた。
色からして、二人の迦陵頻伽が絡んでいる気がしまくるが、危険を冒してまで確認するほどの気力はない。
そんな彼の眼の前で、二匹の蝶は窓辺まで飛んでいき、窓を開けてくれとばかりに周辺で舞う。
「何。出たいの? お前達いつの間に入ってたのさ?」
特に考えもせず窓を開けてやる。
二匹の蝶はさっさと外に出ていき、……かと思いきや、緋色の一匹だけが戻ってきた。その蝶はヒラヒラと室内を横切り、少女達が休む空間へと入っていく。
「あ、ちょっと。そっち行っちゃうと、下手したら命が危ないよ」
その中で眠る少女達は、かなり本能に忠実な半鳥達だ。戯れでいたぶられる可能性も皆無ではない。
紺碧に釘を刺されていたが、とりあえず棚上げして寝床を覗き込む。すると、緋色の蝶が緋迦の上に留まるところだった。
幸いにも二人の少女達は熟睡しているようで、起きそうな気配はない。
(今のうちに逃がしてやるか)
物音を立てぬよう緋迦に近付く。
荘周が手を伸ばしたところで、もうすぐで捕らえられそうだった蝶が消えた。代わりに、眠っていたはずの緋迦の目がパッチリ開く。
「!?」
荘周は思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
そんな彼の眼の前で、緋迦はゆっくりと起き上がり伸びをする。そして、小憎たらしい笑みを浮かべた。
「なんだ。寝込みでも襲おうとしたのか?」
「んなわけないっしょ。ここに蝶が迷い込んでたから、逃がしてやろうとしただけだよ」
「冗談だ。おんしがそんな雄ではないことは分かっておる。ずっと見てたしな」
「見てた?」
彼女が言っていることが分からず、荘周は疑問を返した。
起き上がった緋迦は何故か擬態し、窓際に椅子を運び座る。
「緋色の美しい蝶がおっただろう? あれは妾だ」
「……。は?」
緋迦は荘周の疑問に答えてくれたのだろうが、やはり理解出来ず、荘周は口を半開きにした。
彼女の発言の意味は分からない。
けれど、擬態とか言って、普段の姿すら変えてしまう迦陵頻伽だ。蝶の姿も擬態の一つーーかもしれない。というか、擬態の一つだと無理矢理に思い込む。
「それじゃ、紺色の蝶は紺さん?」
「うんむ」
「なんで急に蝶になんてなったわけ?」
「紺碧も都を見てみたいと申してな。このままの姿で出掛けるのは先に止められたであろう? であるから、蝶の姿になってみたんじゃ」
「でも、身体は寝床にあったよね? 蝶の場合は、身体の一部だけ変えてたりすんの?」
「一部と言えば一部なんじゃが」
難しい顔をした緋迦がムムムとうなる。彼女は考え込むようにあっちこっちを見、荘周に顔を向けた。
「なんというかのー。起きても忘れない夢を見ておるような感覚だな。身体は眠ったままだし、意識だけが蝶になったと言えばよいのか?」
「意識体なのに、窓をすり抜けられなかったわけ?」
「そうなんじゃ。壁には壁として、きっちり邪魔をされるぞ! すり抜けが出来ればもっと便利なんだがのぅ」
緋迦が残念そうに項垂れる。
「その上にな、身体はあの通り無防備になるし、蝶の身体が本体に長時間戻れないと死ぬこともあるし、中々に使い勝手が悪いのがのぅ」
目の前の少女はシレッと危険なことを言う。
「じゃぁ、緋迦ちゃんだけ戻ってきたのって、ひょっとして」
「おんしに窓を閉めるなと言おうと思うてな。一日蝶でいたところで害は無いが、やはり、戻りたい時に戻れた方がいいからな」
「それは正解だったかも。俺、すぐに窓閉めるつもりだったからね」
そして寝るつもりだった。
けれど、戸締りを止められた状態では、不用心過ぎて眠れもしない。
少なくとも、紺碧が戻ってくるまでは眠れない。緋迦も再び出て行くというのなら、二人共帰ってくるまで眠れない。
少女達の身体は睡眠状態で休めているからいいが、留守番の荘周には休まる暇がない。
これではまさしく下僕である。
紺碧は分かっていてそう接してくる感があるが、緋迦は無意識に下僕扱いしてくれる分だけタチが悪い。
呆れている荘周を尻目に、緋迦は楽しそうに話を続けてくる。
「だがな、蝶でいる時間というのも中々楽しいぞ。見える世界の色も変わるし、花の蜜も吸いやすいしな。何より、飛ぶのは気持ちいい」
「迦陵頻伽の姿だと飛べないのに、蝶なら飛べるって不思議だね」
「まったくだ。何が違うというのかのう。気持ちも蝶になっておるから飛べるんだろうか」
「蝶になってんの? 迦陵頻伽じゃなくて?」
「迦陵頻伽ってことも頭の片隅にはあるんじゃが、蝶として楽しくやりたいって感じが強いの。蜜を吸っとる時なんぞ、完全に迦陵頻伽の意識は飛んどる」
(どこまで食べ物に弱くてガメツイんだよ)
心の中で一人突っ込みをし、荘周も緋迦の隣に椅子を置いて腰を下ろした。そして、窓から外を見ながら言う。
「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。
荘周であることは全く念頭になかった。
はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない」
「ん?」
荘周の言葉を聞きながら、緋迦が不思議そうにこちらを見つめてくる。
「おんしも蝶になれるのか? いや。まさか、迦陵頻伽だったり?」
そんな彼女に、荘周は優しく笑みを向けた。




