1. 出会ってしまった迦陵頻伽と人間
霞みがかった森の中を少女は歩いていた。特に目的も無くぶらついていたのだが、その視界を一つの影がよぎる。
影の主の姿が物珍しく、彼女は後を追った。
黒髪の男性が珍しかったのではない。まるで旅装のような、くたびれた格好が興味を引いたのだ。
「のう、おんし」
素早く近付き声をかける。
それが予想外だったのか、立ち止まった男がビクッとした。振り返った顔には緊張の色が浮かんでいる。
けれど、中肉中背で黒目の青年から害意は一切感じない。
なので、特に警戒もせず少女は話を続ける。
「おんし、名を何と言うたかの? ど忘れしてしもうたから教えてくれんか?」
しばらく頭を悩ませてみたものの、答えを得られず、彼女は小首を傾げた。
里の者の名と顔は全て覚えているつもりだが、疎遠であったりすると、うっかり忘れてしまうこともある。しかし、その時は再度覚え直せばいいだけの話なので、あまり気にはしていない。
滅多にないが、たまにはある事柄だ。
少女ーー緋迦としてはそれくらいの軽い気持ちで尋ねたのだが、男は名乗らない。それどころか、緋迦を上から下に眺めたかと思うと、こちらの下半身を指しながら口をパクパクさせている。
口を動かしているのに声に出さないものだから、男が何を言いたいのか分からない。
彼のそんな態度に、緋迦は少しだけイラっとした。
「なんじゃ、おんし。言いたいことがあるならさっさと言わんか」
「言いたいことっていうか、その翼」
「翼?」
男の指す先にある自らの翼に視線を落とし、緋迦はそれを撫でた。
腰から生えた鮮やかな緋色の翼。これと同じ色の髪と瞳を持つのは、里では現在彼女しかいない。
(ああ、ひょっとして)
思い至ったことがあって、緋迦はぽんっと手を打った。
「おんし、ひょっとして、妾に話しかけられて恐れ多いとでも思っておるのか? よいよい、気にする必要はないぞ。妾は確かに族長の娘ではあるが、特に偉ぶるつもりはないからな」
「は? え? 族長の娘? いや、やっぱりそんなことより翼がですね」
「さっきから翼、翼としつこいのう。おんしも隠しておるだけだろうに」
男の態度に緋迦はいい加減イライラして、深衣の裾をたくし上げた。そして、大股で彼の方へ歩く。
「それで、おんし名は何というんじゃ? いい加減答えんと、温厚な妾もさすがに怒るぞ」
「はっ、僕の名前ですか? いや、やっぱりその翼と脚がですねーー」
「だからさっきから何を言っておるんじゃ! 雄ならシャキッと答えんか!」
相変わらずなよなよしている男を緋迦は蹴り倒した。ついでに彼の足の上に脚を乗せ、軽く爪をたてる。
「まったく。おんしのような雄がいたとは知らなんだぞ。別に否定はせんが、それでは雌にモテぬのではないか? なんなら功夫の師でも紹介してやろうか?」
「モテないのは否定しませんけど、遠慮しときます」
「む。そうか。にしてもおんし、雄にしては弱っちいし、何やら変な物で足先を覆っておるし、変わり者だの」
「変な物? ひょっとして、これですか?」
男が緋迦に押さえられていない方の足を軽く上げ、クイクイと動かした。
それを見て、緋迦は小さく頷く。
「んむ。巻物で見た靴とやらに似ておるの」
「まぁ、靴ですしね」
「なんじゃ。そうなのか? 人間という連中が履くものらしいが、おんしも変わった趣味をしておるの」
なんかもう、怒るのも馬鹿馬鹿しくなってきて、緋迦は男の足から脚をどけた。
相手はどう見ても変人だ。
頭のネジも数本飛んでいるかもしれない。
そんな相手とまともに会話しようとするなぞ、労力の無駄だ。
脚をどけてやったからか、男はのそのそと起き上がり頭を掻いた。そして、微妙な顔で告げてくる。
「そりゃあ、僕、人間ですから」
「!?」
緋迦は目をひん剥くと、パッと後ろへさがった。
胸の前で組んだ指がガタガタと震えている。
気を紛らわせようと、とりあえず一点を凝視した。それでも震えは止まらない。
「人間なんて、こ、怖くないぞ! 妾の方がおんしより大きいのだからな! 卵は妾が守る!」
自らに言い聞かせるように叫ぶ。
声まで震えていたけれど、怯えていると男に悟られないように翼を開いた。
翼を完全に開けばふた回りほどは大きく見える。この状態で凄めば、御山のどんな獣達でも平伏すのだ。人間にも有効だと思えた。
だというのに、目の前の人物は平気な顔でこちらに近付いてくる。その上、まるで、子供をあやすかのような態度で接してくるではないか。
「えとー。とりあえず落ち着いて。それに、卵って何のことでしょう?」
「そうやって妾を油断させようとしても無駄だぞ! 知っておるぞ。人間はそうやって無害を装って近付き、我ら迦陵頻伽の卵を奪って食ってしまうとな!」
後ずさりながら緋迦は叫んだ。
威嚇が効いたのか、男が目を見開く。彼は片手で顔を覆うと、そのまま下を向いた。
そこまでは良かったのだが、男からは、何やら愉快そうな声が漏れ聞こえてくる。
彼はゆっくりと顔を上げると、手をどけ大笑いしだした。
「迦陵頻伽とは、とんでもなく愉快だね! なんだよ、いるじゃん! 年寄りの与太話もたまには役にたつね」
何やら雰囲気の変わった男がこちらへズンズン近付いてくる。
たまらずに緋迦は全速力で後ろへ逃げ、近場の松に登った。