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夏への祝  作者: 佳耶
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 ――ヴィーラー・ラキは、なにが言いたかったのだろう。

 ラールは頭を悩ませたが、答えは見つからなかった。

 やるべきことも見当たらず、どうすればいいのか困惑する。彼女の言う『縁』とは何なのか。そんなものがあるなら、ラールはのどから手が出るほどほしい。外の世界への希望――これからの生活への自信。それは、〈夏の乙女ラール・ラキ〉ではない自分への自信でもある。

 ひとつため息をつき、ラールは神殿内を散策することにした。中央に春夏秋冬それぞれの〈女神〉の祭壇があり、そのほかは神官の居住部と貴賓室がいくつかあるだけで、王宮の大神殿に比べると小さな建物である。一般人が参拝に来る祭壇は、神殿から離れた敷地のはずれにあり、ラールはそこまでは行けない。

 掃除の行きとどいた部屋をいくつかのぞいていると、雨粒が地面をたたく音がした。続いてバタバタ、と木々の葉を騒がしく打つ。

 御簾の内側から庭を見ると、すでに雨脚は強く、視界がけぶるようだった。基本的に、神殿や〈乙女〉の邸の庭は緑深い。それぞれの季節にあわせた植物が繁茂し、〈女神〉や仕える者の目を楽しませてくれるが、今は驟雨にうなだれている。

 遠く、雷鳴が轟く。ラールはあまり雷が得意ではなかったので、そっと空の様子をうかがい身を震わせた。なるべく中側にいようときびすを返したときだった。木陰に人影を見つけ、それが思わぬ人物のものであることにラールは声をあげた。

「――デナム!?」

 人影は驚いて周囲を見回した。

「……ラール・ラキですか?」

 デナムからは、御簾の内側にいるラールの姿が見えないのだろう。きょろきょろとそれらしき人影を探している。

「ええ、そう。すぐ正面の部屋よ」

 思わず御簾から出ようとしたが、面紗をしていないことに気づき、足をとめる。その動きでデナムにはわかったようで、こちらへ慇懃に頭を下げた。

「申し訳ありません。勝手にここまで入りこんでしまって……」

「そんなこと。とにかく、そこではあぶないからこっちに来て。雷が鳴ってるの」

「ですが」

「雨やどりのために屋根を貸さないほど、ヤーナは無慈悲じゃないわ」

 デナムは迷っていたが、自分でも危険なのを承知していたのだろう。ラールがうながすと、申し訳なさそうに庇の下へと駆けこんできた。

「ありがとうございます。助かりました」

「そこだと濡れてしまうわ。上がって」

「まさか、そこまでお世話になるわけには……」

「ヤーナは慈悲深い方だもの。デナムが風邪をひいたら悲しまれるわ。でも、今は面紗をしていないから、中には入ってもらえないの。だから廊下にいてもらうことになってしまうけど……」

「とんでもない。充分です」

 ありがとうございます、と礼を言ってから、デナムは縁側へと上がった。気をつかったのか、ラールの正面ではなく、柱の影になる場所に座る。おかげでラールは腕をおろすことができた。

「どうしてここにいるの……?」

 服装は大祭のときほど整ってはおらず、新しい作業着というところである。ちらりと見たところ、肩が少し濡れただけで、全身びしょぬれというわけではなさそうだった。

 デナムは、ラールとは視線をあわせないよう、庭の方を向いて答えた。

「露水桃を奉納しにきたのですが、道に迷ってしまったようで。言われたとおりに出口に向かっていたつもりだったんですが……」

「露水桃? このあいだの大祭でいただいたばかりだけれど?」

「あぁ、いえ。加工したものではなくて、生のものです。ラール・ラキが我が家にお泊まりになった時、ご興味を持たれたでしょう? それを父に話したら、ぜひとも献上したいと言い出しまして。あいにく昨年は失敗したのですが、今年はうまくいきました」

 そういえば、とラールは忘れていた記憶を掘りおこした。

 デナムの家に世話になった時、花の残る露水桃の畑を見せてもらった。彼と妹のシンは、露水桃のことをつぶさに説明してくれ、またラールが生のものを食べたことがないとこぼしたのを覚えていてくれたのだ。加工した露水桃はとろけるような甘さだが、生食では瑞々しくさわやかな酸味があるという。農作業中に食べるとおいしいの、と笑顔で話してくれた少女の顔を思い出した。

「それで……わざわざ……?」

「もしかして、ご迷惑でしたか?」

「ま、まさかそんなこと! すごくうれしい……」

 のどがきゅっと引きつり、ラールは口元を押さえた。これほど赤の他人を気にかけてくれる人が、ほかにいるだろうか。デナムの家族が親切なのは間違いないが、それでもここまでしてくれるのは、ひとえに〈女神ヤーナ〉への信仰心なのか、それともラールのことを少しでも気に入ってくれたからなのか。

「ラール・ラキ?」

 ラールが黙りこんでしまったのを、デナムが訝しんだ。なにか言わなければ、と思いつつ、言葉が出てこない。

(……ここを出ても、デナムと会うことができたら)

 それは、願ってはいけないことだと思った。まったく関係のない彼に、ラールの悩みを共有してくれというのは、ひどいわがままだ。

 だが、ここで会えたのも奇跡のようなものだ。それなら、このまま別れてしまうぐらいなら、不安をうちあけてもいいのではないか。もう二度と会えないなら、もう少しだけ彼と言葉を交わしたい――。

 一瞬、視界が白く点滅する。耳をつんざくような雷鳴に、ラールは小さく悲鳴をあげた。儀式の太鼓にはどれほどの大音量でも動じないのに、雷だけは苦手だ。たとえ通り雨が〈夏の女神〉の恵みであっても、これだけは避けたい。

「ラキ、大丈夫ですか?」

 低く落ちついた声が、不思議とラールのざわついた気持ちをなだめる。なるべく外が見えないように、しかしデナムの声は届くように、彼の座る柱の裏へにじりよった。ほんのわずかな物陰でも、なんとなく守られているような気がする。

「ええ……大丈夫。ありがとう」

「俺にかまわずに、もっと中へ入っていてください」

「大丈夫。……デナムはやさしいのね」

 ぽつりとつぶやいた言葉は、はたして彼に聞こえたのかどうか。激しい雨音に、ふたたび雷鳴が混じる。まだ当分雨はやみそうにない。

「……やさしくしてもらえて、すごくうれしかったの」

 柱に語りかけるように、ラールは言った。聞こえていないと思ったが、わずかにデナムが身じろぐ。ひたすら続く雨音に惑わされた気がした。そういえば彼の家に世話になったときも、いきなりの雷雨に足止めされたのだった。

「知らない人に、こんなによくしてもらえたのなんて、初めてだったの。ここの人はみんな親切でやさしくしてくれたけど、外の知りあい――家族はわたしに冷たかったわ。十年も会ってなかったのだから気まずいのは当然だろうけど、あまりにもちがう世界にいるみたいで、すごく悲しかった……」

「――あの、ラール・ラキ」

「ごめんなさい、急に。雨やどり中の世間話だと思って、聞き流して。ただ、誰かに聞いてほしいだけなの」

 デナムは静かにうなずいてくれた。それだけで、ラールの中にあった堰が崩れ、せき止めていた感情の波が次々と口からこぼれでた。

 〈夏の乙女〉としての生活、ほかの〈乙女〉との思い出、つらいことや悲しいこと、それに勝る喜びをここで得たこと。家族との関係や想い。今まで誰にも話したことのなかった胸を翳らす不安のすべてを、なるべく感情的にならないように語る。それでも心細さは表に出てきて、ラールの声を震わせた。雨がそれを消してくれることを願う。

「……ラール・ラキは、ご立派だと思います」

 柱のむこうから、答えが返ってきた。そんなことはない、と否定しようとすると、デナムは雨に溶けるような声で続けた。

「乙女としての生活は、俺にはとても想像できない世界です。これから住み慣れた神殿を離れて、ご家族のもとに戻る不安も、とうてい理解できないのだと思います」

「……ごめんなさい。変なことを言ってしまって」

 ラールは顔をうつむけた。やはり迷惑だったにちがいない。

「いえ、そういう意味ではないんです。想像している以上に不安なんだろうと言いたいんです。それでも気丈にしていらっしゃるラール・ラキは、ご立派です」

「そんなことないわ……! 今だって、まったく関係ないデナムに話して迷惑をかけているもの」

「迷惑だなんて思っていません」

 デナムは驚いたように言った。

「困っていたら、相談したくなるのは当然では? 迷惑だからと遠慮されるのは、聞く側としてとても悲しいことです」

 ラールは息をのんだ。目からうろこが落ちたようだった。

 思い返せば、ラールはヴィーラー・ラキに具体的にどうすればいいのか、相談を持ちかけたことがなかった。彼女が自分の不安を察し、助言をくれることは多々あったが、ラールがみずから助言を求めたことはないのだ。それは、ヴィーラー・ラキに迷惑をかけてはいけないから――忙しい彼女を煩わせてはいけないからと、思っていたから。

(わたしは、差し出してくれたヴィーラー・ラキの手を振り払っていたのかもしれない……)

 彼女は心配してくれていた。なのに殻に閉じこもって、失礼なことをしていたのではないだろうか。

「ラール・ラキのお力になれるとは思いませんが……ご相談に乗るくらいは、俺にもできます」

「……え?」

 思わぬ言葉に、ラールは問いかえした。いまだに弱まらない雨のせいで、聞きまちがえたのだろうか。

「どういうこと?」

「相談相手がほしいと……神殿の外にはお知りあいがいらっしゃらないから、誰か話し相手がほしいという意味だと捉えたのですが」

 今度はデナムがたずね返す。たしかにそのとおりだが、デナムの言葉の意味がいまいちわからない。

「そうだけど……。でも、話し相手なんて」

「俺では不相応でしたか?」

 ようやく彼が言いたいことを理解し、ラールはかっと顔を赤く染めた。みるみるほおが熱くなり袖で押さえる。

「そ、そんなことないわ。でも、まさか」

「……もしかして、早合点だったでしょうか」

「え……ええと……」

 どうやら、デナムも自分の間違いに気づいたようだった。気まずい沈黙が、ふたりのあいだに降りる。あいかわらずほてっているほおを包みながら、ラールは言葉を探した。

「その……デナムが不相応だなんて、まったく思っていないわ。むしろ、すごくうれしい……けれど、その」

「いえ、大変失礼を……」

「わたしこそ、その、まぎらわしい言い方で……ごめんなさい」

 遠く、うなるような雷鳴が聞こえた。いつのまにかだいぶ遠ざかったらしい。

 彼にうちあけてよかったと、ラールは思った。神殿の外の世界にも、自分を気にかけてくれる人がいる。それだけで、積み重なった不安が軽くなった気がする。デナムの言うとおり、本当に彼が相談相手になってくれるなら何よりも心強いが、それはあまりにも勝手な願いだろう。

(……あ)

 ふと、ラールの目の前が開けた。はらはらと、自分の周囲を覆っていたものが粉々に散っていく。くだけた欠片はラールの足もとに散らばり、うつむく彼女の瞳に小さな光を宿した。

(……わたしは、デナムの手も振り払おうとしている?)

 いい迷惑だろうと思った。そもそも、〈乙女〉の立場として許されるのかどうかわからなかった。

 ――それでも、彼の差し出してくれた手を取りたい。

「……デナム」

「はい」

「その……さっき言ったことは、本当?」

 ごくり、とのどを鳴らす。

「相談に乗ってくれるって……本当に?」

 それはほんのわずかな時間だったのだろう。だが、ラールには永遠に続くような長い静寂だった。馬鹿なことを言った、と眩暈に襲われる。後悔に屈しそうになったころ、御簾のむこうから返答があった。

「力になれるかどうかわかりませんが、喜んで」

 どっと、全身の緊張がほどける。鼻の奥が、つんとした。眼が熱い。

「でも……わたし、外のことはなにもわからないの。デナムの家がどこで、どうやったら会いにいけるかも知らない」

「それなら、こちらから会いにいきます。ご実家のある街には、よく行きますから」

 堪えきれずに、ラールの瞳から涙がこぼれた。嗚咽がもれないよう、口元を覆う。こんなに自分は心細かったのだ――まるで子どものように泣きじゃくるほど。

「ご実家のお名前をうかがっても?」

 袖で涙をぬぐうが、次から次へとこぼれてきて手に負えない。洟をすすりながら少女は名乗った。

「……ユンイって言うの。ソル家のユンイ」

「はい。わかりました」

 その言葉を抱きしめるように、身体を丸める。どうしようもなかった不安が、涙に溶けて消えていく。ラールの胸中を翳らせていた黒雲は薄くなり、しとしとと雨を降らせながら青空を呼び戻そうとしていた。

「――うれしいのはわかるが、泣いていてはデナムも困るぞ」

 いきなりの声に、ラールはがばりと顔をあげた。絹の面紗、自分より小柄な体格。少女はたっぷりとした袖で、ラールの背をたたいた。

「これで第一歩だな、ラール。そなたにしてはよくやった」

「――ヴィーラー・ラキ!?」

 驚愕するラールに、少女は満足そうに笑った。

「も、もしかして、聞いていらっしゃったのですか……?」

「うん。まだるっこしくて、何度口を挟もうとしたか。おのれでもよく我慢したと思うわ」

 あっけらかんと答える様子に、ラールは開いた口がふさがらなかった。そんな彼女を気にも留めず、ヴィーラー・ラキは御簾ににじりより、柱の影に座るデナムへ身を乗りだす。

「頼んだぞ、デナム。ラールはこの性格だから焦れったくなるかもしれんが、気長につきあってやってくれ」

「ヴィーラー・ラキ!」

 〈四季の乙女〉の存在を知らないデナムからしたら、彼女の言動は理解に苦しむだろう。あわてて袖をひっぱったが、外からは意外な言葉が返ってきた。

「……ヴィーラー・ラキですか?」

「うん。私がそれだ」

 デナムは面食らったように、その場に手をついて叩頭した。

「祖母からお話はうかがっております。ふたたびお目にかかることができて、とても喜んでおりました」

「私もうれしかったぞ。まさかこんな立派な孫がついてくるとは思わなかったがな」

「え……? どういうことですか……?」

 どうしてここで、デナムの祖母が出てくるのか。事情のつかめないラールに、ヴィーラー・ラキが説明した。

「デナムの祖母は、五代前の春の乙女ニーラル・ラキだ。そなたの先輩だな」

 青天の霹靂とはこのことを言うのだろう。あのちょこんと穏やかに座っている小さな老婆が、自分と同じ〈乙女ラキ〉だったとは、とても想像できない。

「で、でも、ラキは結婚できないのでは?」

「誰がそんなことを言った? たしかに元乙女との婚姻を畏れる男は多いが、別に禁止してはいないぞ。相対的に事例が少ないから、できないという噂が広まっているだけだろう」

 たしかに、ラールは神官や侍女の噂話で聞いただけで、ヴィーラー・ラキから直接言われたわけではない。そう考えると、デナムがただの農夫にしてはやけに作法に詳しいのにも納得できた。おそらく、祖母から厳しく躾けられてきたのだろう。

 固まるラールににやりと笑い、彼女はもう一度肩をたたいた。

「気張れよ、ラール。つかんだ獲物は逃すな」

「な……!」

 顔を朱に染めるラールに対し、ヴィーラー・ラキは笑声をあげた。その様子に、そっとデナムが問いかける。

「……もしかして、ラール・ラキは祖母がラキであったことをご存じなかったのですか?」

「うん?」

「ご存じだからこそ、俺や祖母との縁を惜しまれていると思っていたのですが……?」

 今度はヴィーラー・ラキが呆れる番だった。口元に袖をあて、デナムの表情をうかがう。

「そなた……もしや天然か?」

「はい?」

 はぁ、と面紗の下から嘆声がもれた。細い肩が悲しげに落ちる。

「ラール、相手はなかなか手強そうだな」

 木々の梢から、蝉の鳴き声が聞こえる。いつの間にか、嵐は過ぎ去っていた。


  ◇◇◇



 軽やかな秋風が、少女の黒髪を遊ばせる。庭には萩の花がこぼれるように咲き乱れていた。ゆらゆらと揺れる枝が愛らしい。いつも耳元でささやいていた玉の音は聞こえなかったが、装身具をまとわない身体はどこかすっきりとしていた。

「無事のお役目終了、お喜び申しあげる」

「ありがとうございます」

 礼を取るヴィーラー・ラキに、ラールはうやうやしく頭を下げた。

「そなたのおかげで、大きな厄災もなく季節はめぐった。そなたの祈りなしでは成し得なかったことだ」

 面紗の下の表情はうかがえない。ただ、声はいつにもまして穏やかだった。

「神殿の外では苦労するだろう。だが、私はそなたのことを忘れずに思っている。それだけは覚えていてくれ」

「はい」

「そなたと私は、これからも友人だ」

 はい、とラールはあごを引いた。なんて心強い言葉だろう。デナムの祖母も、彼女の言葉に勇気づけられたにちがいない。

「ヴィーラー・ラキ」

「何だ?」

「ラキのお名前を聞いてもいいですか?」

 彼女は驚いたようだったが、すぐにおかしそうに首を傾げた。身にまとった玉がしゃらりと鳴る。

「さあな。私は今も昔も四季の乙女ヴィーラー・ラキだ。それ以外は知らないし、もし知っていたとしてもそれは女神だけだろう」

 それだけで、彼女が途方もない時間を〈女神〉に捧げてきたのだと感じた。ラールが想像するよりずっと以前から、彼女はここで祝歌を歌いつづけてきたのだろう。

「それがなにか?」

「いえ、友だちの名前を知りたいと思っただけです」

「名がわからなければ、友人ではいられないか?」

「そんなことはありません」

 そうか、とどこかうれしそうにヴィーラー・ラキはうなずいた。

「ユンイ、泣くな」

「……はい」

「この見事な秋晴れに涙は似合わん。すべての女神がそなたの門出を祝福しているぞ」

 それでも、溢れる涙を堪えることはできなかった。ゆがむ視界に、姿の変わることのない少女を焼きつけようと必死になる。もう二度と会うことはない、母のような少女。

「ほら、皆からの餞別だ。持っていけ」

 渡された巾着には、ほかの〈乙女〉からの手紙や菓子や花が入っていた。見送りに出られない彼女たちから、ヴィーラー・ラキが預かってきたのだろう。貴重な菓子や露水桃まである。

「ありがとうございます。大切にします」

「伝えておくよ」

「本当に……お世話になりました」

 ラールは巾着をにぎりしめながら、深々と頭を下げた。ぱたぱた、と床にしずくがこぼれる。そよ風が慰めるように、ラールのほおをなでていく。

「そなたの未来は明るい。きっと楽しいことがたくさん待ちかまえている」

「はい」

「デナムも手放すなよ? あれほどの物件はそうは転がっておらんぞ」

「ヴィーラー・ラキ」

「こんなことは、私も初めてだ。ヤーナの加護だ、大切にしろ」

 はい、と首肯すると、満足げな返事があった。

 従者にうながされ、用意された馬車へと乗りこむ。荷物は少なく、すでに積みこみは済んでいる。内装は今まで使っていたものより質素だったが、慣れない旅に疲れないよう気配りが見られた。

 なごり惜しげに振りかえる。叩頭した大勢の侍女や神官にかこまれた中、ヴィーラー・ラキが頭上になにかを掲げた。太陽を反射した光が、少女の目を射す。しゃん、と鈴の音とともに、歌声が聞こえた。

 のびやかで空気に溶ける声。聞いたこともなく、なにを歌っているのかもわからなかったが、旅立ちを祝ってくれているのは伝わってくる。

 ヴィーラー・ラキの声に耳を澄ませながら、ユンイは空を仰いだ。〈女神〉のような、甘くやさしい青だった。

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