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世界が赤から紫、そして群青色に染めあげられるこの時間が、ラールは好きだった。夏の宵にしか味わえない、ゆるゆると訪れる夜の気配。揚揚と茂る草木の匂いと、ほてったほおを撫でる水の匂い。いつのまにか鳴き始めた夜の虫が、暑気に倦んだ心を和やかにしてくれる。
すでに来賓との引見をはじめていたラールには、黄昏時の涼しさを楽しむ余裕はなかったが、残照とともに入れられたかがり火に役目の終わりが近いことを知った。貴人は早々に王宮へ帰り、夜を徹して宴が開かれるという。庶民は庶民で朝まで飲み明かし、その喧騒は王都の東端に位置する神殿にまで聞こえてくるほどだ。季節に一度の大祭、しかも〈夏の乙女〉最後の祭とあって、捧物はいつにも増して多かった。
あと少し、と念じた直後、御簾の向こうに現れた男女の人影に、ラールはぴんと背筋を伸ばした。じっとりとてのひらが汗をかく。
庶民の中から選ばれた、ほんのひとにぎりの参詣者の一だった。とはいっても衣服は王都の民衆よりいい物で、清潔感があり、国の巫女が住まう神殿でも疎外感を感じさせない程度の気品があった。
彼らは礼に則って、ラールへ叩頭した。声をかけると、ふたりそろって顔をあげる。片方は四十代ほどの働き盛りの男、もうひとりは三十ほどの整った容姿の女だった。
御簾越しでラールの顔など見えるはずがないのに――しかも今は面紗もしているのに、彼女は彼らを直視できずに視線をそらした。
「……わざわざいらしてくださって、ありがとうございます」
いえ、と男が軽く返事した。何か言わなければ、と思うのだが、言葉が出てこない。昼間は知らなかった汗が、今はラールの服をぐっしょりと濡らしている。
「ラール・ラキの祝歌はいかがだったろうか?」
重苦しい沈黙の中、ヴィーラー・ラキの朗らかな声が助勢してくれた。脇にひかえた彼女をちらりと見て、男が答える。
「あいかわらず、お美しい声でした」
「うむ。ヤーナも喜んでおられた」
それは讃辞のようだったが、毎年くりかえされる常套句でしかない。それきり会話が発展しないのが、よい証拠だろう。ヴィーラー・ラキが何度か話題を提供したが、男からの返事はそっけなく、ラールもあいづちを打つ程度しかできなかった。
「――それでは、これで失礼させていただきます」
おろおろしているあいだに時間が経ち、彼らはラールに礼を取ると、早々に退出していった。どっと、疲労と失望がラールを襲う。
「……ラール、まだ肩を落とすには早いよ」
はい、と応じ、次の訪問者にそなえる。その人影を認めたとたん、ラールは笑みをほころばせた。
客はさきほどと同じ男女だが、ひとりは若い男で、年老いて足の弱い老婆の支えとなっている。彼らはゆっくりとラールの前に座し、ていねいに礼を取った。
「ごぶさたしておりました。ラール・ラキ」
青年の言葉に、ラールは笑顔で答えた。
「今年もわざわざ来てくださって、ありがとう」
「いいえ。祖母も楽しみにしていたので、喜んでまいりました」
「おばあさん、足は大丈夫ですか? つらいようでしたら椅子を用意させますけど」
もごもごとした老婆の言葉はラールには届かなかったが、青年が大丈夫です、と応じた。
彼らも庶民から選ばれた参詣者である。しかし、さきほどの夫婦より質素な服装で、それも精一杯可能なかぎり、身なりを整えてきたという風情である。どこにでもいる農民の家族だった。
「みなさん、元気にしているかしら?」
「はい、おかげさまで。シンはついてきたがったんですが、今はただでさえ人手がたりない時期なので」
「ごめんなさい、忙しい時に……。デナムが一番の働き手なのに」
「とんでもない。ラール・ラキのお招きですし、祖母孝行もできますから」
デナムと呼ばれた青年の明るい声に、ラールは胸をなでおろした。
彼らはラール個人の客だった。昨夏、外出先からの帰路で大雨に遭い、困っていたラール一行に宿を提供してくれたのが、デナムの一家だった。その礼として、去年の大祭に招待してからのつきあいである。彼らの作る露水桃という果物を干したものがとても美味で、以来〈乙女〉たちの嗜好品として買い入れていた。
ラールは家族の様子や、今年の露水桃の出来について聞きたがり、デナムは嫌がる顔ひとつせずにていねいに語った。特に彼の弟妹は不思議とラールに懐いたので、兄ひとりが王都に行くことをずいぶんとうらやましがるらしい。それでも、これから露水桃が熟す大事な時期なので、一家の主である父親はデナムと老いた母ふたりの外出しか許さなかった。
「――ラキ、ご準備が整いました」
侍女の声に、ずいぶんと時間が経っていたことに気づく。すっかり会話に夢中になっていたようだ。
「ごめんなさい、長々と。部屋が用意できたようだから、ゆっくり休んで」
すでに夜の闇は濃い。今から帰路に着くには遅く、駅馬車などの移動手段もない。
「いつも申し訳ありません」
「遅くなってしまうのはこちらの都合だもの。気にしないで」
当然ながら、ラールと引見するのは王侯貴族が先であり、彼女個人の客として招いているデナムたちは、自然と最後になってしまう。彼らに宿をとってもらうのもしのびなく、ヴィーラー・ラキの勧めもあって客室のひとつを提供していた。
ふたりは来たときと同じように慇懃に挨拶をし、侍女に案内されて退出していった。そのうしろ姿をなごり惜しげに見送っていると、くすりと笑声が聞こえる。
「さて、ラール。我々も戻ろうか」
「あ……、はい」
ヴィーラー・ラキにうながされ、ラールは立ちあがった。
樹影のかなた、都の空が明るい。虫の音にまじり、かすかに喧騒が聞こえた。
食事と沐浴をすませたころ、ラールの私室をヴィーラー・ラキが訪れた。すでに役目は終わり、就寝するだけなので、ふたりとも簡素な室内着である。ヴィーラー・ラキはラールの向かいにどかりと座ると、持参した菓子を盆の上に広げた。
「ご苦労だったな、ラール。よく務めた」
「ありがとうございます」
うん、とうなずき、彼女は干した露水桃をつまんだ。今日、デナムが奉納したものだ。
「いつのまに」
「さっきな、くすねてきた。これが私の楽しみだ」
ほら、と勧められ、ラールも露水桃を手に取った。とろけるような甘みが疲れた身体にうれしい。これほど甘い物はめずらしく、デナムの父親が試行錯誤の末に完成させたという。ほかの〈乙女〉たちにも好評で、それぞれ均等に行きわたるように管理されるほどだ。
「これがまた、渋い茶とよく合う」
ヴィーラー・ラキの言うとおり、濃く淹れたお茶とよく合った。こんな夜ふけにつまむのも考え物だが、ついつい手がのびてしまう。
「それにしても、よい露水桃を作る。父親はよほど手間暇をかけているのだろうな」
「ええ。若い頃からすごく研究したそうで。実の子どもよりかわいがっているって、デナムのお母さんが言っていました」
「なるほど、さもありなん」
室内に、ふたりの少女の笑い声がささめく。
「しかし、あれはあいかわらずの好青年だな。器量よしの働き者で、賢く孝行者だ。ラールが気に入ったのもうなずける」
「えっ……!?」
急な話題の転換に、ラールは手から茶碗を落としそうになった。その様子に、ヴィーラー・ラキはおかしげに笑った。
「気づいていないとでも思ったのか? そなたもなかなか鈍いな」
「い、いえ、そんな……気に入ったとかそんなんじゃ……っ!」
「耳が赤いぞ?」
のぞきこまれ、あわてて手で耳朶を隠す。それがあまりにもおかしかったのか、ヴィーラー・ラキはころころと笑声をあげた。
「……からかわないでください……」
「いや、すまん。そなたの反応が新鮮でな。ほら、詫びだ」
差し出された急須からお茶をもらい、ラールは動揺をなだめるために茶碗に口をつけた。それでも、一度高ぶった感情は、簡単にはおさまってくれなさそうだ。ほおが赤いのは暑気のせいか、それとも羞恥のせいか。
「かわゆいなぁ、ラールは。デナムにも見せてやりたいな」
うふふ、と楽しそうに言われ、思わず顔をうつむける。両手にくるんだ茶碗に、燭台の灯りがうつりこんで金色にゆらいだ。
草のかげで、虫が鳴いている。大祭が終わればあとは秋へ転がっていくばかりだ。ようやく盛りにたどりついたのに、過ぎると終わりはあっという間に近づいてくる。
「……気に入ったとか、そんなのじゃないんです。本当に」
ヴィーラー・ラキがこくりと首を傾げた。
「なにゆえ否定する? そなたの表情を見れば、デナムに気があることは手に取るようにわかるぞ」
「それは……」
「ただの礼なら、何度も大祭に招く必要もないだろう?」
ラールは言葉につまった。たしかに、宿を借りた礼なら、一度招くだけで充分である。
「デナムだって、わざわざ貴族に混じって肩身の狭い思いをしにきているんだ。少なからず思うところがあるんだろう」
「……デナムはやさしいですから。おばあさんのために、付添で来ているだけです」
「それなら、母親にでも頼めばいい。働き手のデナムがわざわざおもむく理由があるはずだ」
積み重ねられる言葉に、ラールはますます身体を竦ませた。彼女の言うとおり、デナムが孝行以外の理由で大祭に足を運んでくれているのなら――ラールに会うために来てくれているのなら、とてもうれしい。だが、ヴィーラー・ラキの言うとおりだとは、とても思えなかった。思いたくなかった、の方が正しいかもしれない。
「そんなことないです。絶対に。デナムはやさしいから、わたしの招待を断れないだけです……」
――きっと、そうだ。そうでなければならない。
よけいな期待を抱いてはいけない。デナムにもいい迷惑だ。
「……ラールは、幼いときから真面目な子だったな」
ふと視線をあげる。ヴィーラー・ラキは赤い露水桃をいじりながら、言葉を続けた。
「ここへ来たのは、四つのときだったか」
「はい」
「十二年か……早いなぁ」
ラールにとっては人生のほとんどだが、この少女にとってはまたたく間だったのかもしれない、と思った。
ラールが〈乙女〉に選ばれ、神殿で初めて出会ったのが、顔を面紗で隠した〈四季の乙女〉だった。家族と引き離されて心細い彼女を、やさしく出迎えてくれたのを覚えている。それ以来、ラールの世話や修練、神事の手はずにいたるまで、すべてヴィーラー・ラキが取りまとめているのだ。彼女なくては、〈乙女〉は祭祀どころか日常生活さえ送れない。
〈四季の乙女〉の存在は、神殿に関わる者にしか知られていない。だが、朝一番に起きて〈女神〉に祈りを捧げるのはヴィーラー・ラキであり、未熟な〈乙女〉に祝歌を教えるのも彼女である。
つねに〈乙女〉のかたわらに控えているので、人によっては侍女頭だと思っているようだが、実際には彼女こそが真の〈乙女〉なのだろうと――だからこそけっして面紗をはずさず、そして何年経っても姿かたちが変わらないのだろうと、春夏秋冬の〈乙女〉は理解していた。
彼女が何なのか、どういう存在なのか、たずねたことはない。たずねてはいけない雰囲気が、どこかあった。はじめは気になったが、次第にどうでもいいことに思えてくるのだ。ヴィーラー・ラキが何であれ、自分の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれているのは事実なのだから。
「父母とはどうだ……とたずねるのは、野暮だろうな」
「……」
のどが急にしめつけられたように苦しくなる。ラールはまだほの温かい茶碗を、きつく握った。
「そなたは真面目だから、自分のせいだと思いこんでいやしないかと心配なんだが。あまりしょぼくれてはならんぞ」
「はい……」
さきほど引見した両親の様子を、いやでも思い出した。ふたりとも娘に会っても特に何の感慨もなく、事務的に時間を過ごしたという態だった。
ラールは、地方の裕福な商家の長女として生まれた。生母はすぐ下の弟を産んだ際に亡くなり、今日父親のとなりにいたのは後妻である。当然、ラールは両親の顔をあまり覚えておらず、後妻や彼女の産んだ兄弟にいたっては赤の他人でしかない。
〈乙女〉と生家の関係は十人十色で、頻繁に詣でてくる家庭もあれば、いっさい交流を持たない家庭もある。ヴィーラー・ラキは役目に影響をおよぼさないかぎり、家族との交流を認めている。〈乙女〉もいつかは家に帰らなければならないからだ、と彼女は言う。
そしてラールの生家は、娘に無関心だった。心配したヴィーラー・ラキの采配で、ラールは一度、実家に帰ることを許された。しかしそれも家を出てから十年近く経ってからのことであり、すでに居場所は見当たらなかった。
そんな家へ、この夏が終われば帰らなければならない。それが鉛のように、重くのしかかっている。
「……今宵はもう休むか」
静かな声で、ヴィーラー・ラキがささやいた。はい、とラールが首肯する。
「なぁ、ラール。家族がそなたに冷たいのはそなたのせいではないぞ。そなたがどう接したらいいのかわからないように、あちらもラールにどう接したらいいのかわからないだけだ。そなたを嫌っているんじゃない。我々がそなたを取りあげてしまったために、そなたと家族に溝ができてしまった――だから、誰かのせいだとしたら、それは我々だろう」
「――そんな」
「だが、そなたの祈りが女神には必要だったのだ。どうかわかってくれ」
「……そんな。わたしはここに来て、後悔したことはありません」
「うん。ラールはいい子だ」
ヴィーラー・ラキが、面紗の下でうれしそうに笑った気がした。
「いい子だからもうひとつ。だから、自分を責めてはいけないよ。そなたになにか過失があるわけではないのだからね?」
「……はい」
うん、とうなずき、彼女はすらりと立ちあがった。
「では、ゆっくりとおやすみ」
「あ……、露水桃は……」
「それは、そなたへの褒美だ。ほかの子には内緒だぞ」
そういたずら気に言い残して、ヴィーラー・ラキは立ち去った。きっと気をつかってくれたのだろう――そう思うとますます気分が沈んでいく。
譲ってもらった露水桃をもうひとつだけつまんで、ラールは寝床へうつった。砂糖より上品でさわやかさの残る甘みが、ほんのすこしだけ胸のわだかまりをとかしてくれた気がした。
翌朝、ラールは朝の奉仕ののち、デナムと老婆を見送った。涼しい朝のうちに帰路に着いた彼らとの別れは、ラールにしてもあっけないものだった。
「……いいのか、ラール?」
「なにがですか?」
はぐらかす彼女に、ヴィーラー・ラキは盛大に嘆息した。吐息でふわりと面紗が揺れるほどだ。
「そなたはデナムに気があるんだろう? だというのに、こうもあっさりと帰してしまうなんてな……」
「だ、だから、ちがいます!」
「ごまかす必要などないのに……」
「本当にちがいますから!」
はぁ、とヴィーラー・ラキがふたたびため息をつく。なぜ彼女が落胆するのか、ラールには理解できない。まるで恋愛を推奨するような口ぶりだが、〈乙女〉は〈女神〉に仕えるのが唯一の役目であり、〈女神〉以外に心を占めるものを作ってはならない。引退したあとも結婚できないと聞いているが、それをまさかヴィーラー・ラキが知らないはずがない。
「私はもっと、ラールがねばると思っていたんだがな……。もう二度と会えないかもしれないというのに」
とたん、胸にするどい痛みが走った。立秋を過ぎたらラールは〈夏の乙女〉の名を返上し、不安の象徴である実家へ送りとどけられるのだ。おそらく、デナムと会うことは一生ないだろう。
だが、これでいいのだ、とラールは思った。これ以上を望むことは許されていないし、彼にとっても迷惑になる。短いあいだだったが、外に知りあいができたこと――家族以外のあたたかい存在を知れたことが、何よりもうれしかったのだから。
「いいんです。どうせ、わたしは家へ帰らなければならないんですから……どうしたって会えるわけがないでしょう」
しばらくの沈黙のあと、そうだな、とヴィーラー・ラキはうなずいた。
「それもラールの人生だ。私がとやかく口を挟むことではないな」
少しさみしい物言いだったが、文句が言えるはずもない。彼女とも、この秋で別れなければいけないのだ。ラールの人生のほとんどをともに過ごしてきた人であり、両親よりよっぽど近しい存在であっても、だ。
ヴィーラー・ラキは諦めたように首をふり、それきりデナムが話題にあがることはなかった。
◇◇◇
蝉の死骸を、庭園のあちこちで見かけるようになった。
大祭の時にはあれほどかしましく鳴いていたというのに、ぽとり、ぽとり、と次々に息絶えていく。夏が過ぎ去っていくのと同時に、鳴き声は少しずつ弱くなり、いつしか音色が変わった。晩夏に鳴く種類になったのだ。
蟻の群がる死骸を見るたび、ラールは虚しい気持ちになった。いやでも秋の気配を感じ、ここを去ったらどうやって生きていけばいいのだろう、と考えこんでしまう。
ラールが神殿で受けた教育は、〈乙女〉としての教養である。四歳のときから隔絶された社会で生きてきた彼女にとって、外界での常識も未知の領域なのだ。当然だといわれることが、ラールにはできない。そんな環境で、家での居場所さえない。ヴィーラー・ラキの言うとおり、接し方がわからないだけで、時間が経てばうちとけられるだろうか。
〈乙女〉になって初めて家へ帰った日、弟妹はラールのことを他人と呼んだ。ラールも、こんなに大きな弟妹がいるのか、と驚いた。父親とは二言三言、言葉をかわしただけで、継母は対処に困り、批難めいた視線をよこした。唯一の助け船である兄はラールに親しげだったが、彼は跡取りとして家の手伝いに忙しく、またなにも知らない妹に始終とまどっていた。
(商家の娘として、わたしは生きていけるのだろうか……)
商家のことなど、なにも知らない。ラールは自分で物を買ったことさえないのだ。そんな自分が商売を把握し、家の手伝いをして、家族の一員に入ることができるのか。
〈乙女〉は一生結婚できないと言われているため、ラールは実家の世話になるしかない。神殿から慰労金が支払われるが、だからと言って今までのような生活が許されるわけではないし、現実的に不可能である。祝歌を歌うことしか知らない自分が、十二年の空白を埋めることが、はたして可能なのだろうか――。
ひとつ奉仕を終えるごとに、一日を終えるたびに、ぽとり、ぽとり、とてのひらからなにかが落ちていく気がした。それはラールが今まで大切にしてきたものだったが、もう手放さなければならないものであり、そして外界では必要のないものだった。きらきらと輝いていた宝物をひとつずつ失っていって、ラールには暗い影しか残らない。
「――ラール、どうした?」
祭壇に向かいながら物思いにふけっていたラールは、その声に振りかえった。ヴィーラー・ラキがすぐ横にせまっていたのに、まったく気づかなかった。
「いえ……」
「部屋に戻らないのか? まだ次の奉仕まで時間はあるだろう」
はい、とうなずいたが、立ちあがることはしなかった。〈女神〉の前を離れがたかったのだ。
日々の奉仕を、ラールは文字どおり骨身を惜しまずにこなした。ひとつでも無駄にしたくなかった。歌うことはラールの自信であり、なにもできない自分にとって唯一の誇りだからだ。このまま一生ヤーナに身を捧げたいとも思ったが、それは時を止めるのと同意だった。
「……ヴィーラー・ラキ」
「なに?」
彼女が首をかしげると、絹の面布もゆらりと揺れた。自分よりも小柄な少女は、いったいどんな面立ちなのだろう。
「なぜ、乙女は十六でここを出ていかなければならないんでしょうか……」
成長のとまった少女は、ついと〈女神〉の祭壇に首をのばした。横顔だけ見ると、十四ぐらいと言ったところだろうか。けれど、彼女のまとう空気はそれよりもずっと老熟している。
「――ここは、そなたたちの時間を、ほんの少し与えてもらっているにすぎない」
ヴィーラー・ラキはラールを見て、ほほえんだようだった。
「だから、そなたたちの時間のすべてを奪ってはならないんだよ。そなたの人生は、そなたのものだ」
「でも……」
それはあまりにも残酷だ、と言いかえしそうになり、ラールは口をつぐんだ。
誰かを責めたいわけではない。ただ、いままで築いてきた自信や誇りを失い、未知の世界へ出ていくのが怖いだけだ。助けがほしい――せめて外への希望がほしい。これさえあれば大丈夫だと、すがる縁がほしい。
「そなたはいい子だ。いままでわがままも言わず、不満も言わず……まぁ、少し内気だがな。立派に乙女の義務を果たしてきた。なにも寄る辺のないここへ、たった四つでそなたは来たのだ。そうして十二年、うまくやってきたじゃないか。それだけそなたは強い子だよ」
「それは、ヴィーラー・ラキやほかのラキがやさしかったからです」
「やさしくしてもらうだけでは、乙女は務まらん。そなたの努力があったからこそだ」
彼女は立ちあがってラールの腕を取ると、御簾の外へ出た。つんと、雨の匂いがする。いつの間にか、空には黒い雲が蹂躙しはじめていた。蝉の鳴き声もやみ、どこか不気味な静けさがただよっている。陽射しは雲のむこうに隠れてしまったのに、ヴィーラー・ラキの簪の水晶がちらちらと輝いて、きれいだと思った。
「そなたは運がいい。……おそらく、これもヤーナのご意志なのだろうと、私は思う。だが、それをおのれの手にするか否かは、そなた次第だ」
意味がわからずとまどうラールの背中を押し出す。振りむくと、彼女ははっきりとした声で続けた。
「行け、ラール。本当に望むのなら、貪欲にそなたの縁をつかんでこい」
問いかえしたかったが、そのままひらひらと袖を振られてはなにも言えない。ラールは状況を理解できないまま、その場をあとにした。




