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ほおをなでる生ぬるいそよ風に、少女は閉じていた瞼をゆっくりとあげた。
がらんとした広い室内には、強い陽射しから逃れるように、ほぼ中央に人が集まっていた。よく磨かれた板張りの床に敷布を広げ、その上に座わって、少女は鏡に向かっている。黒く豊かな髪の一部を頭頂部で結いあげ、色彩鮮やかな上衣と長い裳をまとい、首からは玉を連ねた首飾りをさげていた。
髷にそえられた白い花が、少女の清楚さを表しているようですがすがしい。じっとりとした湿気を払拭していく。
「夏の乙女、ご準備が整いましたよ」
世話をしていた侍女に礼を言い、〈夏の乙女〉と呼ばれた少女は静かに立ちあがった。しゃらり、と身につけた玉が響く。庭へ視線をやると、盛夏の陽射しに視界が白く灼けた。
濡れ縁へと一歩、少女は足を踏みだした。自然とのどが鳴る。普段あまり気にとめない蝉の鳴き声も、今はひどく耳につく。
白光に熱せられた真夏の暑気が肌にまとわりついたが、長年の経験のおかげで、少女はまったくと汗をうかべていなかった。
「やぁ、ラール。支度はできたか」
廊下の先の小部屋で出迎えたのは、少女と同じような格好をした小柄な娘だった。だが、ラールと呼ばれた少女とちがい、彼女は顔を面紗で隠している。ラールは一度として、彼女の素顔を見たことがなかった。
「緊張している?」
たずねられ、ラールは苦笑した。
「はい……少し」
「そう硬くなる必要はないよ。いつもどおり、務めればいい」
「はい」
初めて、〈乙女〉として祭事に携わったときのことを思い出す。彼女はまだ四つで、右も左もわからない子どもだった。祝歌もすべて覚えてはおらず、最低限つめこまれた章でさえ、おぼつかなかった。あまりの緊張に泣き出しそうなラールを励ましたのが、〈四季の乙女〉と呼ばれる彼女だった。
あれから十二年、この夏でラールは十六歳になる。〈夏の乙女〉としての役目は、今夏で終わりだ。
「さぁ、行こうか。夏の女神がそなたの声を待ち望んでおられる」
もう一度うなずき、ラールはヴィーラー・ラキとともに部屋を後にした。
今日は夏でもっとも人々が熱狂する日――大祭の日である。
ラールが〈夏の乙女〉に選ばれたのは、彼女が四つのときだった。
〈乙女〉とは、神事をとりしきる巫女のことをいう。季節ごとに国中から七歳以下の少女が選ばれ、季節の〈女神〉に仕えるのが役目である。〈乙女〉に選ばれた少女は、家族と離れて王都の神殿で暮らし、修練を積みながら〈女神〉に国の安寧を祈るのだ。そして成人する十六歳で巫女としての役目を終え、家族のもとに帰るのがならわしだった。
『ラール』というのも彼女自身の名前ではない。習慣として、『ラール・ラキ』または単に『ラキ』と呼ばれる。
ラールは〈夏の女神〉の娘として、立夏から立秋の前日まで祭事に携わった。主に王都での祭に参加するのが仕事だが、たまに地方の伝統ある祭へ遠出することもある。そして立秋になると、〈秋の乙女〉に役目を引き継ぐ。ラールが神殿の敷地外に出られるのは、一年のうちで夏のあいだだけで、それ以外は神殿の奥部にある邸で日々を過ごした。
ラールに用意された輿は、この日のためにあつらえた特別なものだった。錦の織物で飾られ、遠目で見ても華やかだ。王宮までの沿道に集まった人々が、ひとめでも〈乙女〉の輿を見ようとつめよってくる。祭に乗じてもうけられた露店や食べ物屋に夢中な人も、その時だけは輿へと視線をうつし、祭の光景を目に焼きつけようとした。
大衆の歓声や熱気で、街はふだんにも増して暑い。大祭に向けて、火柱をあげるのを今か今かと待っているかのようだ。
王宮の門をくぐると、とたんに喧騒は遠くなった。広い敷地のおよそ中央に位置する大神殿へ、輿は運ばれる。巨大な建物の前庭には敷物が敷かれ、千人ほどが叩頭してラールの到着を待っていた。輿は神殿の階に寄せられ、そこから床上へあがると、ごくわずかな貴人が同じようにラールを迎える。
もっとも上座に――つまり祭壇に近い席に着くのは、この国の王。それから王族と重臣がつづき、前庭に貴族が階級順に席を与えられている。かぎられた数だが、特別に許可された庶民も末席に加わることができた。
ラールはしずしずと祭壇へと進んだ。そのあとをヴィーラー・ラキと神官がつづく。
祭壇の前に着席すると、背後で御簾が下げられた。御簾より内側は、ラールたちしか踏みこめない神域である。そこから五段ほどあがった場所にはさらに御簾が垂れさがっており、その奥の空間が〈女神〉が降臨したる御座とされていた。
生花や捧物で壇上は溢れかえっていたが、特になにか対象物を崇めるわけではない。〈女神〉はなにかに宿るわけではなく、つねに人々の身近に存在しているのだ。ラールも実際に姿を見たことはない。それでも祭壇に向かえば、〈女神〉がそこにいるのだと実感する。
太鼓が鳴らされ、背後で叩頭していた人々がいっせいに頭をあげた。つづいて二回、雷鳴のように鳴り響くと、ラールをはじめ、その場に集まった全員が〈女神〉へぬかずく。身体を起こして居住まいを正すと、高らかな鈴の音が耳を打った。
それは水の音だ、といつもラールは思う。なぜか脳裏に水が思いうかぶのだ。山奥の泉から湧く、冷たい清水。しゃん、しゃん、と規則正しくくりかえされる清澄な音が、透明なしずくとなって滴る。現実の禊では触れられない、ラールのもっと内部へと染みこみ、ひやりとした感触で熱を――彼女の迷いや雑念を洗い流していく。
騒がしい蝉の音は、すでに聞こえない。透明な水底へ、または雲ひとつない天空へ、ラールは身を投じる。
精神の昂揚と同時に、斜めうしろに座したヴィーラー・ラキが単純な旋律を奏でた。それに誘われるように、ラールは紅をさしたくちびるを開いた。
「――慈愛溢るる恵みの母、夏の女神よ。其が娘、夏の乙女が申します。いざ、吾が祈りに耳を傾け、吾が元に坐しませ」
大神殿は水を打ったように静まりかえっていた。そこに、ラールのやわらかな歌声が響きわたる。激しい感情がこもるわけでもなく、力強い歌声ではないが、しっとりとした響きは聞く者の心を粛然とさせた。
祝歌では、世界創世の神話から始まり、神々から人に与えられたこの国の成り立ち、豊かな自然への感謝や神々への賞賛、明日への祈りなどを歌いあげる。特に〈夏の女神〉に捧げる歌は、夏を言祝ぐ内容がふんだんに織りこまれている。
背後では進捗にあわせてさまざまな祭事が行われるが、ラールには関係ない。彼女はひたすら、半日をかけて祝歌を〈女神〉に捧げつづけるのだ。
祝歌を歌うあいだ、ラールはなにか別の存在になっているような錯覚を覚えた。すべての内容を暗誦できるようになるまでは、ただひたすら正しく歌うのに精一杯だったが、ある段階をすぎたあたりで、ふと自分の肉体が自分のものではなくなったように感じたのだ。祝歌は自然とのどから溢れ、時間の経過や周囲の様子に気が散ることもなく、意識はどこか遠くにあるような気がする。
鈴の音とともに沈んだ――または舞いあがったラールは、母なる〈女神〉のことだけに想いをはせた。姿を見たこともない母は、いつもラールをやさしく迎えてくれる。想いをこめて仕えれば仕えるほど、母は喜び、大地に恵みをもたらしてくれる。
自分の歌で〈女神〉が喜んでくれることが、ラールにとっては唯一の誇りだった。祈りがとどいたことで夏が来て、作物が育ち、そうして国が潤う。うだるような暑さもまた〈女神〉の恩恵で、その暑さがなければ育たない作物もある。太陽が照り、または雨が降り、大風が吹くこともあるがそれも恵みのひとつであり、どれが欠けても土地はやせてしまう。
――これが、わたしの最後の大祭。
もう二度と、こうして祝歌を歌うことはない。この不思議な感覚に溺れ、〈女神〉に祈りを捧げることはない。
だからこそ、ラールは切々と歌った。〈女神〉が自分の想いを聞きとどけてくれるよう、力のかぎり歌いあげた。
やがて、意識が静かな水底へと戻ってくる。どこからか湧いてくる清水、清流の流れる音、ひやりと冷たい――冷たいという、人の感覚。
しゃん、とふたたびの鈴の音とともに、彼女の意識は『ラール』へと戻ってきた。とたん、のどの渇きと疲れがラールを襲う。しかしそのまま倒れ伏すわけにはいかず、姿勢を正して祭壇へ拝礼する。太鼓の音とともに立ちあがり、用意された輿で神殿へと戻ると、ようやく肩の力を抜くことができた。
すでに立ちあがることもできず、従者に抱えられて自室へと引きさがる。集まってきた侍女からまずは水をもらい、ラールはほうっと息をついた。
「ご苦労、ラール。よくがんばった」
ヴィーラー・ラキが、面紗の下でほほえんだ。
「女神も喜んでおられたぞ」
「そう……ですか……」
邸を出た時には東の空にあった太陽は、中天を過ぎて西へ傾きはじめている。暑気の山も越え、室内に吹く風は涼やかだった。
「さて、少し休め。まだもうひとふんばり、せねばならんからな」
「はい」
笑みを浮かべて答えると、彼女は満足そうにうなずいてから、奥へと姿を消した。
自分の足で歩くうしろ姿に、さすがだとラールは感嘆した。約半日、ラールの補佐としてともに祝歌を歌いあげたというのに、ヴィーラー・ラキが疲れた様子を見せたことはない。ラールは自室まで抱えられなければ歩けないほど体力を消耗しているというのに、彼女はそれぞれの〈乙女〉の補佐として、一年中大祭を担っているのだ。
幼い頃は、成長すれば自分もそうなれると信じていた。しかし、単なる体力の問題ではないのだと、今のラールは知っている。それでも、あの小さな背中を見送るのがもう最後だと思うと、夕立の前触れのような雲がひとつ、ぽつりと胸に影を落とした。
「ラキ、まずはお着替えください。お食事の支度が整っておりますから」
「ええ、ありがとう」
ぼうっとしている時間はない。夕暮からは、神殿へ出向いてくる参詣者との接見があるのだ。国王や貴族も訪れてくるので、なかなかに神経を使う行事である。それまでに禊と食事をすませ、ゆったりとすごしたい。
ラールは侍女の手を借り、震える足を叱咤して立ちあがった。




