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螺旋のキューブ

作者: KATSUKI

 螺旋のキューブ 


 四角い箱が回転している。

 ゆっくりと。

 回転しながら、沈んでいく。

 深い海の底に向かって。

 沈む軌跡は、静かな螺旋を描いている。

 ぐるぐると。

 底に行くほど、箱は小さくなっていく。

 小さくなりながら、明るくなっていく。

 深海は底に行くほど闇のように暗いけど。

 箱は逆に光を帯びていく。底の方に、別の世界への扉があるかのように。


 かたん、と扉が閉まるような音がした。

 眼を開けると、見知らぬ天井が見えた。

 照明が白い。UFOのような形だが、見覚えが無い。

 え、と思う。背中と後頭部が痛い。なんで? 思考が繋がらない。

 視野に男の貌が入った。髪が短い。硬い髪らしく、立っている。ヤマアラシを連想する。

 全身が硬直した。悲鳴も出せない。

 男が指を一本だけ立てて、口許に持っていく。

 静かに、という意味だ。

 なに。なに。この状況。もしかして、さらわれた?――ということはなかった。

 男の貌に見覚えがあったからだ。

「コウヅキ君?」

 その瞬間、記憶が繋がった。


「8月にオープンキャンパスがあるわけですが――」

 委員長が言う。

 S大オーキャン実行委員会。一年、二年のメンバー62名で構成される。

 委員会の出席率は毎回(まだ二回目だが)、七割程度。これがいいのか悪いのかわからない。まあ、委員のほとんどが、クラスでじゃんけんに負けたか、くじで選出されているので、モチベーションは高くない。それを思えばいい方なのかもしれない。

「重ねてお願いします。みんな帰省しないでくださいね」

 えー、とお約束のように声が上がる。

「快諾ありがとうございます。(笑い声が生じる)さて、準備としまして、看板作成とパンフ作成があります。看板は二年、パンフは一年の仕事です」

 えー、とまた声が上がり、今度は軽く笑い声も伴った。

「今手元にあるのは、昨年のパンフです。こちらで適当に分担を決めましたので、クラス名を呼ばれたら、手を挙げてください。表紙――国文と……」

 わ。いきなり。手を挙げる。

「工学S」

 前の方の席で、男子がひとり手を挙げる。Sって何の略だっけ。

「受験必勝法――英文と工学M。……英文来ていない? じゃあ、社学は? ああ、いるね。社学と工学Mで。サークル紹介は――経済と工学E」

 文系と理系をペアリングしているようだ。来ていない人は飛ばしているので、担当無しの可能性が高い。さぼればよかった。みんな同じことを考えたらしく、不穏な空気が漂い始める。

「いない人は、当日、食堂の手伝いにまわします」

 さらり、と委員長が付け足す。

 無料昼食券が配られ、例年すごい混雑なのだ、と補足説明がつく。

 それさえもさぼればそれまでなのだが、なんとなく、ならいいか、的な感じになる。

「最後に構内案内図だけど――あ、と足りなくなっちゃったか。悪いんだけど、表紙担当の国文と工学Sで構内案内図も受けてくれるかな」

 え。構内案内図? パンフレットの後ろの方をめくる。

 建物の平面図が載っている。幾つかの教室に数字が付され、時間とイベントの内容が記載されている。

 どうやって作るの。これ。全部印字されてますけど……

「建物のデータと当日のプログラムを電子データでいただけますか」

 前の方で、男子が口を開いた。

「昨年のデータがあるので、それを渡します」

「昨年から今年までで、建物に変更箇所はありますか」

「無いと思うけど――それはちょっと大学側に訊いてもらわないと……」

 委員長の歯切れが悪くなる。それはそうだろう。委員長だって学生だ。

「これ、元データはホームページにあるやつですか」

「いや。あれは俯瞰図だから。これは何年か前の学生が作ったそうだよ」

 へえ、という声があちこちであがる。

 誰かがキャドかな……と呟いている。キャドってなに?

「じゃあ、そういうことで。当日のプログラムも確定次第わたしますので――」 

 あ。つまり。担当決定ということですね。

 前の男子はもう何も言わない。でも、この流れからすれば、構内案内図は彼が担当するだろう。じゃあ、こっちは表紙か。どうしようかな。去年のは、海賊少年だけど。

 パンフレットの背表紙が白紙だったので、シャーペンを動かしてみる。

「それでは担当ごとに分かれてもらって――この講堂は7時まで借りていますので、その後は場所を移してもらうか、別の日にするとか、担当者で打ち合わせてください。2年はこっちに集まってもらって……」

 今は6時だから、今日はもう分担決めて、連絡先の交換で終わりかな。

 そんなことを考えながら席を立つ。彼はたぶんこっちを知らないだろう。

 後ろを見ていなかったと思う。

 席を移動する者同士で通路を譲り合いながら、彼の席に近づく。

「国文のタナキリですけど。表紙担当の――」

 声をかけた。

 彼の眼がこちらを向いた。眼鏡をかけている。眼は大きくて少し垂れ気味だった。ちょっと意外。剃刀みたいな目つきを想像していたからだ。

 髪は短く、硬い髪質なのか、立っている。ヤマアラシのような髪の毛だ。

 体つきは細身だった。鎖骨が浮き出て見える。

「コーエスのコウヅキです」

 コーエス? 一瞬考えて、工学Sの略だとわかった。

「Sってなんだっけ」

「システムです」

 コウヅキ君が答える。言われてみれば、である。正直、他の学部に何があるかよくは知らない。

「え、と。今日はどうする?」

「表紙を作りますか」

「え? 表紙?」

「案内図はデータをもらわないと何もできないので。――去年にならって少年探偵にしますか?」

 海賊少年より好きだけど。今の旬はバスケ少年でしょう。いや待て。学生募集のパンフで影を薄くしてどうする。そんなことを考えていると、

「それは?」

 コウヅキ君の視線があたしのパンフレットに動いた。机の上に伏せて置いたから、背表紙側が見えている。

「あ、これは――」

「対数螺旋ですね」

「タイスーなに?」

「一定の比率で拡大していく、または縮小していく曲線のことです。有名なのはオウムガイの殻ですね」

「オウムガイは知ってるけど」

 そんな、なんとかなんとかなんて知らない。すでに言葉として認識していない。

 コウヅキ君の眼はじっとパンフレットを見ている。

 なんかはずかしくなってきた。

「あの。落書きだから」

「表紙のイメージですか?」

「イメージといえば、イメージだけど」

「説明してください」

「説明って――」

 まだ大雑把なラインしか引いていない。中央に向かって小さくなる渦巻きと、そのラインにそって描いた幾つかの四角。ラフにもなっていない。

「この四角がね――」

「立方体に見えますけど」

 どっちも同じじゃん。

「えっと、四角い箱がくるくる回転しながら、渦を巻いて、どんどん小さくなりながら、沈んでいく――みたいな? で、箱の色が、だんだん明るくなっていく――みたいな?」

「明るく? 暗くじゃなくて、ですか?」

「え、だって、入学して欲しいわけだから、未来は明るい――かもしれない、って感じで、入るといいことある――かもしれない、ってアピールしようかなって」

「かもしれない?」

「だって断言はできないし」

「ふうん」

 コウヅキ君はそのまま落書きを見ながら考え込んでしまった。

「あ、あとね。箱には女の子が立っているようにしようかな――」

 ――って、聞いてないでしょ。

 ややあって、コウヅキ君が口を開いた。

「面白いかもしれない」

「え? ほんと?」

「プログラムが組めそうです」

「は?」

「立方体を一定の比率に従って、縮小していく。それを傾斜角をつけてずらしながら、対数螺旋に乗せる。グラデーションまで組み込むかどうかは、走らせてからかな」

「……」

 何を言っているのかわからない。

「じゃあ、今日はこれで」

 黒いバックを手に立ち上がる。え。ちょっと。待って。

「これで、ってどうするの」

「下宿に帰ります」

「え? 表紙は?」

「来週の委員会までに形にしてきます」

「ひとりで描くの?」

「そのつもりですが」

「待って。あたしも手伝う。箱はたくさん描かなきゃだから、ひとりじゃ大変だよ?」

「ソースはひとりで書いた方が楽ですが」

「ソースって?」

「――」

 コウヅキ君が黙った。こちらも黙る。なんとなく、いや、絶対にかみあってない。

 ……じゃあ、先輩のインタビューを……連絡先は……や、それ、……おお、近く……

 周囲の声が耳に入った。仕事の話と雑談が混ざり合っている。笑い声も響く。えー、と言っていながら、始めてみれば、それなりに愉しんでしまえるのだから不思議だ。

「……ですか?」

「え?」

 コウヅキ君が何か言っていた。

「ごめん。聴こえなかった」

「今日は何時まで大丈夫ですか?」

「特に予定は無いけど」

「たぶん、2時間もあれば書けると思うので、それから全体の印象を見てもらって、ピッチや座標を調整しようと思うのですが――」

「あ、うん。いいよ」

 よくわからなかったが、頷いた。

 コウヅキ君が席から離れ、通路を下りていく。黒いTシャツ。袖から覗く腕は細い。

 背はそんなに高い方ではない。160半ばくらいだと思う。細いせいで、少年のような後ろ姿だ。後を追おうとして気がついた。これって。

 アタシハアナタノゲシュクニイキマス――ってこと?


 自転車で15分ほどの距離だった。途中でコンビニに寄った。

 おにぎりとお茶を買った。コウヅキ君はカロリーメイト。それだけ?――と思ったが、口にはしなかった。

 表通りから外れて、細い道を三度ほど折れる。古い二階建てのアパートだった。階段はコンクリート打ちされている。コウヅキ君の部屋は二階で、階段を上がってすぐの部屋だった。

 ドアを開け、スイッチを入れる。入ってすぐ左手側に流し台とコンロ。右手側にドア。ユニットバスだろう。小さな冷蔵庫があって、突き当りに部屋。部屋は正方形に近かった。条件がいい。家賃はどのくらいかな、と考えるのは、下宿民の性だ。

 照明は白くて丸い。UFOのような形だった。

 入口の対角にパイプベッド。床はフローリング。カーペットが敷かれ、その上にテーブルが置かれている。コードが見えた。冬はこたつになる。平均的な学生の部屋。

 ペットボトルが幾つか転がっていた。スーパの袋も。生協書籍の紙袋とその上に置かれた本。でも概ね片づいている方だと思う。カーペットの上に脱ぎ捨てられていた服を、コウヅキ君がベッドの上に移した。

 服があったスペースに、ベッドの前に置かれていた座布団を置いてくれた。

 手振りで、どうぞ、と示される。どうも、と言って、坐った。

 コウヅキ君はバックからPCを取り出し、カバーを外して、電源を入れた。

 横向きに置かれたラックから本を取り出し、ページをめくっていたが、手を止めると、開いたページをこちらに向けてきた。

「こんな感じ?」

 発光ダイオード色の長方形が、中心に向かって渦を巻いた図形だった。箱ではなく平面だが、イメージとしては近い。

「あ。そう。こんな感じ」

 頷くと、コウヅキ君はそれをテーブルに置いて、ベッドの前に坐った。そこが定位置なのだろう。座布団が置かれていたくらいだ。キーボードを叩き始める。図形の下から次のページにかけて、数字とアルファベットの羅列があった。それを打ち込んでいるようだ。視線がそこに向けられている。

 ラックに眼をやると、「ソースコードの基本」「C言語」「解読! ソースコード」――といった本が並んでいる。

 さすがに手で描くのではないということを悟った。

 ぶーんと響く冷蔵庫のモータ音とキーボードの音。

 どうしよう。静かすぎる。

「……なにか、本ないかな」

「好きに見ていいです」

「こういう専門書じゃなくて。小説とか……マンガとか」

「小説はあまり読みませんので」

 あ、そう……

「マンガなら――」

 コウヅキ君が立ち上がって、入口横の押入れを開けた。引き戸である。

 奥の方からスーパの袋を引きずりだしてくる。

 白い袋を透かして、5、6冊ほどの影が見えた。

「これでよければ」

 両手で受け取った。一番上の表紙が眼に入る。少年の貌。ふたり。シェイクスピアを引用したマンガだった。

「これ、好きだよ。『マヒロ』君、かっこいいよね」

「『マヒロ』君?」

 PCの前に戻りながら、コウヅキ君が言う。

「あ。『ヨシノ』君派?」

「……クンハ? ――ああ。派閥の派ですか。ええと、『マヒロ』君というのは?」

 表紙のひとりを指で示した。

「ああ。白い髪ですね」

 そりゃそうだけど。そういう認識なの?

「じゃあ、こっちは?」

「白い髪じゃない方」

「……」

「すみません。名前を憶えるの苦手なんです」

 いや。謝ることじゃないけど。他のキャラクタはどうやって識別しているんだろ。

「もしかして、あたしの名前も?」

「すみません」

「あ。いいけど」 

 あわてて首を振る。せめたつもりは全然ない。

「タナキリです」

 もう一度名乗った。

「タナキリコトリ――木琴、鉄琴のコトに里山のサトと書いて、コトリ」

 漢字まで説明してしまった。

「アドレスはタンスノトリ」

「タンスノトリ?」

「小学校の時のあだ名がトリで、中学の時のあだ名がタンス。で、アドレス考える時に、二つを組み合わせて作ったの。――昔話も連想したかな」

「昔話――ですか?」

「ほら。タンスの抽斗で稲とか育ててる話。開けてはだめだと言われたのに、男が抽斗を開けちゃって、最後に鳥が鳴いて、気がつくと、男は山の中にひとりでいる、という話だけど――」

「知りません」

 そうだね。だと思ったんだ。途中で。

「タンスニナニスンタとどっちにしようかなって考えたんだけどね」

「回文」

「うん。でもちょっとひねりすぎな気がしたし――」

 あれ。笑ってる?

 左手で拳を作って、口許にあてていた。口の端に笑みが浮いていた。


 かしゃん、と音がした。

 樽の中で骨が触れ合った音ではない。

 視線を上げると、コウヅキ君の手の中に、面ごとに色の違う箱があった。面に刻まれた縦横の線。子供の時に見たことがある。というか、やったことがある。一面すらそろえられなかったが。――ルービック・キューブだった。

 人差し指だけで、一番上の面を回転させている。

 眼線は画面にあって、キューブの方は見ていない。

 無意識に動かしているようだ。

 ころん、と床に転がし、両手でキィを叩き始めた。

 テーブルの下に転がっていたので、さっきまで気づかなかった。手を伸ばして拾うと、六面が揃っていた。

「動かしてもいい?」

「ん――」

 って聞いてないし。戻せばいいか。前に1回。水平に1回。逆に1回。戻して1回……

 うん。大丈夫。前に2回。一番上を右に1回。左手を手前に1回……え、と左手を向こうに1回。一番上を……あれ? どっちだっけ。右に1回。手前に2回。あれ。ずれてる? え、と、真ん中を向こうに……

 前に回して、横に回して……

 動かせば動かすほど、崩れていった。どの面にも、違う色が混在している。たまに一面にだけ、三つ、四つ色が揃うが、他が合わない。

 どうしよう。戻せない。

「コウヅキ君」

 キューブを差し出した。

「ごめん。崩しちゃった」

 コウヅキ君の眼がキューブに動いた。無言で取り上げ、手首をひねりながら、全部の面を見た。ベッドに背中を預け、かしゃ、かしゃ、と動かし始める。速い。

 ころん、と転がされたキューブは、色が揃っていた。

 手に取ると、完全に揃っているのがわかった。

 すごい。

 ロータが回る音がした。音の方に眼を向けると、ラックの横で黒いプリンタが音をたてていた。紙を吐き出してくる。

 コウヅキ君が立ち上がって、紙を手にした。こちらに手渡してくれる。

 わあ、と思った。色とりどりの箱が、回転しながら中央に向かって沈んでいく。箱は沈むほど小さく、明るくなっていく。

「サイズや色調はそれでいいですか」

「うん。――あ、できれば、一番上の箱を紙からはみ出すようにできるかな。こう、紙の外から降りてくる、みたいな感じに」

「ああ。なるほど」

 コウヅキ君がPCに向かう。少しして、またプリンタが動いた。

 コウヅキ君が動く前に、手を伸ばして、紙をとった。言った通りに、一番上の箱がはみ出していた。

「すごい」

「印字範囲を変えただけです」

「そうじゃなくて。全部すごいよ。イメージした通りの図だよ」

「この場合、イメージを発想できる方がすごいと思いますよ」

「そうなの?」

「プログラムは既存のソースを幾つか組み合わせただけですから」

 それでもすごいと思うけど。それ以上言っても、否定されるような気がした。

「動くのを見ますか?」

「動く?」

 コウヅキ君がノートの画面を向けてきた。

 深い海のような画面に、四角い箱が現れて沈んでいく。渦を巻きながら。永遠に途切れない。

「すごい。綺麗」

 それしか言えなかった。

「いいイメージだと思います」

 コウヅキ君が言った。

 ソレハチョットハンソクデワ。


「そうだ。これ」

 片手に紙と、まだキューブを持っていた。

「すごいね。これ、ぐちゃぐちゃにしても戻せる?」

「ええ、まあ」

「じゃあ」

 紙を置いて、両手でキューブを回した。どの面にも三色以上の色が混在してきた。どうだ――と思いながら、コウヅキ君に渡す。コウヅキ君はさっきと同じように、全面を見てから、キューブを回し始めた。ほどなく、たぶん、2分とかからずに六面が揃った。

「魔法みたい」

「魔法じゃないです」

 真顔で否定されてしまった。

「これって、頭の中で全部の面を組み立ててるの? ほら。駒をずらして、並べ替えるやつがあるじゃない。あんなのが頭の中に六枚浮かんでいるの?」

「スライディングブロックパズルですか? あれを多面的に同時処理できたら、天才だと思いますが。――ルービック・キューブはパターンを幾つか覚えれば、ルーチンで攻略できますよ」

「そうなの?」

「たとえば」

 コウヅキ君の手が動いた。キューブを回す。

「ここと、ここの色が違う場合――」

 何回か水平方向と垂直方向に回転させる。

「このように戻るわけです」

「え? え?」

 コウヅキ君の手が再び動く。

「この配色を覚えてください。――それで、このように回転させていくと……」

 かしゃ、かしゃ、と動かす。

「こうなります。それを――」

 コウヅキ君の説明が止まった。

 理解していないことがわかったらしい。や。待って。理解しようとはしてるよ。

 ただちょっとどこをどのように覚えればいいのかわからなくて……

「ネットに攻略図があるので――」

 コウヅキ君の手がマウスを動かした。幾つかを見てから、ひとつを選んで画面を向けてくる。キューブの図が並んでいた。矢印で回転方向を示している。

「これを見ながら、その通りに動かしてみて下さい」

「あ。うん……」

 でも。そもそも最初の図と違うんだけど。

 そのページには五つほどのパターンが並んでいる。

 動かしていれば、このうちのどれかになるのだろうか。

 なんか、数学の図形問題みたい。物理の問題とか……なんだっけ。重力とか、加速度とか……

「――え。ちょっと……タンスさん?」

 タナキリダッテバ……


「もしかして、寝た?」

 訊くまでもないけど、訊いてしまった。後頭部と背中が痛いのは、床に寝ていたからだ。

「すみません。寝ている女の子をベッドに持ち上げる力が無いので」

「ごめん。ごめんなさい。帰ります」

 声が大きくなったかもしれない。

 コウヅキ君が口の前で人差し指を立てた。

「すみません。まだ早いので」

 何時? ああ。でも、窓の外はほのかに明るい。空が白っぽくなっている。

「ごめんなさい。――あの。……お手洗い借りてもいい?」

「そっちです」

 なんか。もう。消えてしまいたい。

 ドアを閉めると、かたん、と音がした。扉を閉めるような音はこれだったのだろう。

 部屋に戻って、バックを手にした。

「……おじゃましました」

「これを」

 クリアケースを渡された。表紙の絵が見えた。受け取って、部屋を後にする。

 階段は駆け降りた。自転車に乗った。

 ああ。もう。どうしよう。頭の中がぐるぐるする。

 寝ちゃうなんて。

 物理の問題みたいだなんて思ったのがいけなかったのかもしれない。

 テストで寝たことあったし――

 条件反射なんだよ。きっと。

「あー」

 声を出しかけて、口を閉ざす。街はまだ静かだった。何台かの車とすれ違う。犬を散歩している人。ジョギングしている人。無人ではないけど、生活はまだ始まっていない。

 東の空が白い。薄い雲が光を帯びている。

「あきれただろうなー」

 息を吐いて呟いた。

 信号で自転車を止めた。バックに差し込んだクリアケースが眼に入った。

 抜き出してみると、箱の絵に文字が入っていた。

 下の方に大学名とオープンキャンパスの日付。真ん中あたりにふせんが貼られ、人形のような絵が描かれている。女の子のつもりかな? 聞いてたんだ。でも。

「これじゃ『ピクトさん』だよ」

 ぷ、と吹きだした。

 笑いながら、両手を伸ばした。表紙の絵を掲げる。

 空が明るい。

 紙の向こう側がどんどん明るくなっていく。回転しながら螺旋を描く幾つもの箱が、一緒に光を孕んでいくようだった。

 文字が書き込まれていた。


 未来はいい。――かもしれない。


 そうだね。かもしれないよね。

 来週の委員会。どんな貌して会えばいいのかわからない。

 でも声はかけよう。そう思った。

 きっと彼はこちらの名前を憶えていないだろうから。

 紙の向こう側で、太陽が最初の光を放った。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みましたー! 恋愛に発展できるかできないかの瀬戸際も、また恋愛のひとつ、というのもありますが、とりあえずこれからどうなっていくのかが気になりますね! リアルにありそうで、実際僕も似たよ…
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