彼女の灯台
2010年頃に書いたものです。
『雪の果、春の光』に登場する春日子がまだ春暁だった頃の話。物語性皆無の会話文。
航海に出ましょう。
広く、溟い海を渡る旅路です。
その海はとても冷たくて、寂しくて、船はいつ沈んでもおかしくありません。
一人ではきっと死んでしまうでしょう。
「――じゃあ、苗も一緒に来ればいいじゃないか」
そうですねえ。
わたくしがついていけたらいいのでしょうけれど……それはできません。
「……結局お前も、みんなと同じだ。わたしよりも――家のほうが大事なんだ」
あらあら。
春姫様に嫌われちゃいましたね。
「その呼ばれ方は嫌だ。ハルでいい」
ですが、今のわたくしは春姫様に仕えるただのメードの一人。ご主人様に失礼があってはなりません。
それに、ほかの子達はちゃんと名前で呼んでくれるでしょう?
「呼んでくれないよ」
あら。
どうしてですか?
「先生がわたしのことを春姫様って呼ぶから。最初は何回かハルちゃんと呼ばれたような気もしたけれど、気づいたら誰もそう呼ばなくなっていた。――みんな、心の中では落ち零れのわたしを笑っているんだ」
春姫様、ご自分のことをそう悪く言うものではなりません。
貴女は曙姫様が遺された光。
落ち零れなどでは――
「やめろ。母様の話はするなっ」
春姫様――
「苗――お前だって、本当はわたしのことが嫌いなんだろ? お前は昔、母様と姉様の侍女で――その二人がいなくなったのは、わたしのせいなんだから。何の力もないわがままな子供の世話を任されて、お前も可哀想だな」
春姫様。
わたくしは、貴女に仕えていることを誇りに思っています。
曙姫様でもなく、天姫様でもなく、彼岸西風春暁様――貴女に仕えている今を、誇りに思っています。
「……嘘だ」
嘘なんて吐きませんよ。
確かに、曙姫様が静彦様との間に二人目の子供を授かったと聞いた時は、腹も立ちました。頭の中であの男のすかした面を百回、いや千回はぶん殴ってやりましたもの。
「お、お前メードだろ……。いいのかそんなこと言って」
ふっ。
立てば芍薬!
座れば牡丹!
歩く姿は百合の花!
わたくしたちメードは彼岸西風のお嬢様方、彼岸に咲き誇る美しき花々の永遠の味方!
涅槃西風の野郎共なんて知ったこっちゃないです。
「そ、そうか」
メードの間ではこんな会話、日常茶飯事ですよ。
曙姫様にはファンが多かったですし。
だからこそ、どうして曙姫様に無理をさせたのかと、静彦様を――いえ、彼岸西風を恨みもしました。
――でも、違ったんです。
それは曙姫様が強く望んだこと。
わたくしの憧れたあの方が――命を賭してまで出した答えなんです。
春姫様を一目見た時、わたくしはそう確信しました。
「そんなこと――もうわからないだろう。母様は死んでしまった。わたしを産むことをどう思っていたかなんて、もうわからない」
いえ、わかります。
メードの直感です。
だって貴女のお名前は――春暁様ですもの。
「苗、わたしにはやっぱりわからないよ。わたしはお前みたいに、彼岸西風を誇りに思うことなんてできない。こんな血なんていらないよ、わたしは……」
――メードは、ご主人様に仕えるもの。
わたくしたちは彼岸西風に生かされていますが、今のわたくしのご主人様は、彼岸西風でもゼフュルスでもなく、春姫様――貴女です。
彼岸西風の春姫様ではなく。
曙光様が遺された春暁様――
貴女のメードです。
血なんて関係ありません。
わたくしは貴女に――貴女が産まれてきてくれたことに、貴女と出逢えたことに感謝しています。
いつか貴女も、多くのものを背負って航海に出るでしょう。
深く、溟い海を渡る旅路です。
その海はとても冷たくて、寂しくて、船はいつ沈んでもおかしくありません。
でも、大丈夫です。
貴女は独りではありません。
闇が光に惹かれるように、光も闇に恋する時が、きっと訪れます。
春姫様。
たとえ、万が一、天地がひっくり返って貴女が闇であったとしても――その闇を愛してくれる光が、いつかきっと。
その時まで、わたくしが貴女の海に光を灯し続けます。
小さくて頼りない光かもしれませんが、これからもよろしくお願いしますね。
ご主人様。
――彼岸に吹く豊穣の西風が、彼女の船を導いてくれますように。
〈了〉
書いたことすら忘れていましたが怖れずに投稿。