魔術師たちの昏き憧憬 #3
――トキヤがその日常を揺るがす「それ」に気付くことが出来たのは、ひとえに間が良かったからだ。
三冊目の本を読み終えて、猫のように体を伸ばす。椅子の上で体をのけぞらせて大きく「伸び」の仕草をすると、バキバキと関節が不穏な悲鳴を上げる。
いかんいかん、最近は運動不足が過ぎる。新たな不安要素に、トキヤは顔をゆがませかけていたあくびをかみ殺す。……どれ、少し体操のまねでもしてみようか。年寄りくさく腰を浮かしかけたその時だった。
――ガツガツ、と。
ドアノックハンドルが立てる音が耳に届く。
トキヤは眉根を顰めた。なぜわざわざノックをする者があるのか甚だ疑問であったからだ。
自分の悪癖で本に集中してしまっても気づくことが出来るようにと、トキヤは事務所と外を直接つなぐエントランスの扉にベルを備え付けていた。本来ノックに使うドアノックハンドルには、活動中か否かの掛札のほかに、「ご用のお方はご自由にお入りください」という旨の札をも括りつけてある。この形式は同業者から見れば型破りであるが、そもそも商売事であるし、客にわざわざノックをさせるのもおかしいのではないか、というトキヤの一風変わった考え方も反映されている。
ご自由に、の掛札を無視してノックを繰り返す相手は、苛立っているのかすでにマナーを忘れているようだ。連続する打撃音はもはやノックですらなく、乱打の領域に差し掛かっていた。
「はい、ただいま」
長らく声を出してなかったために、自分のものとは思えないしゃがれた声が絞り出される。
咳払いを繰り返しながら、トキヤはゆるんだシャツの胸元を正し、ボタンをかけ直す。いつもはきちんとしすぎなくらいであるのに、本を読みだすと体が勝手に窮屈を嫌いだすのか、意識の埒外で服装が乱れていることが多々あった。
その間にも乱打は激しさを増すが、トキヤは努めて冷静に、ゆっくりと歩いてエントランスへと向かう。
「今お開けしますよ」
ようやく自然な声が出た。
今度は相手にも声が届いたのだろう。不躾な乱打が止む。やれやれと苦笑しながら、トキヤはだいぶん痛めつけられた扉をいたわる様に丁重に取っ手をつかむと、開く。
「お待たせいたしました」
無暗に騒がせられたとはいえ、来客である。恭しく礼をし、トキヤはかろやかなベルの音と共に扉のむこうに現れた、ふたつの人影を見つめた。
煤よけのフード付き外套で身体をすっぽりと覆ったシルエットは正体の知れないものだったが、かろうじて見てとれる体型からしてどちらも女性であろう。あまりじろじろと見ては失礼だなと思い、トキヤは自分を重りにして扉を支えるように体を退けると、
「まずは中へどうぞ。外にはあまり長くいるものではありません」
そう促す。フードの二人は黙ってそれに従い、室内に体を滑り込ませる。トキヤは二人が浅い吐息をつきながら、もさもさとした動きでフードに手をつける様を見届けると、ひらりと身を翻して扉を閉めた。
「……随分待たせてくれたわね」
先にフードを取り払い、セミロングの頭髪をさも鬱陶しそうにかきあげた女性―― 否、少女が床に吐き捨てるようにしてぼやく。初対面の男に対する警戒はあれど恐れは微塵もないといった風である。
「三分待ったわ」
三分、か。気づいてから扉に向かうまでは一分とかかっていないのだし、どうやら自分が本に集中している間に少し待たせてしまったらしい。もう少し気づくのが遅れたらそのまま帰ってしまったかも。改めてみずからの悪癖を苦く思いつつ、トキヤは頭を下げた。
「申し訳ございません。お待たせしてしまったようで」
開口一番厭味を投げつけてきた少女は、柳眉をひそめ、切れ味鋭い視線をまっすぐにトキヤに差し向けてくる。目は口ほどにものを言うというが、言動も相まって彼女の気の強さを物語っている。
「あと三十秒対応が遅かったら、勝手に入り込んでるところだわ。別にそれでも構わなかったのでしょう?」
ハンドルに掛けてあった札の存在に気づいてはいたようである。それもそうか、ハンドルを手に取るためには必ずあの掛札を目にすることになるのだから。
それでもあえてノックを選び、主の対応を待った心算やいかに。訝しげな表情を見せまいと作りものの微笑を浮かべ、トキヤはその厭味を黙殺した。
「本日は我が『カンザキ探偵社』に何かご用件でしょうか」
「そうじゃなかったらこんなところ、頼まれてでも来てやらない」
「これは手厳しい。……とにもかくにも、数ある中から弊社を選んでくださったことには恐悦――」
「紹介を受けたのよ。この件にはあなたが適任だってね」
はて、紹介。
自分に自信はあれど、トキヤは自分が業界ではヒヨッ子中のヒヨッ子であることを自覚している。すでに何度か仕事をこなしているものの、それのどれもが「些事」であり、実力の証明に繋がるものはなかったと言っていい。その自分が紹介を受けたとなれば――。
「失礼を申し上げますが、もしかして紹介者というのは」
「あなたの叔父」
「……なるほど」
お膳立て、ということか。仕事が入るのは嬉しかったが、少々複雑でもある。
しかし自分が適任とはいったい。……いかん、今はそれを考えている場合ではなかった。思考に没入しかける自分を叱咤し、トキヤは目の前の少女と、未だフードをかぶったまま間誤付いているもうひとりの少女を見、
「奥で詳しい話をお聞かせ願えますか。――外套かけはこちらです。煤払いのブラシはこちらにございます。ご利用は任意です」
気の強そうな少女は黙ってトキヤの顔を見つめ、煩わしそうに口を開く。
「口に出すつもりはなかったけれど、なんでも相手の自由にさせるのが「もてなし」だと思っているのなら大概よ?」
「そうですね。それくらいはボクも心得ていますよ。これはおもてなしではありません。ただ単にボクの都合がいいように言っているだけですから。――ご自由に、と言ってしまうのは単なる性分です。あまり人に頼みごとをするのが得意ではないので」
「そう。あなたが『気は利くけど要領の悪い人』じゃなくて安心したわ」
「さっそくご期待に添えたようでなによりです」
「――ふぅ。私たちは煤を落として奥に行けばいいのね?」
「奥でお待ちしています」
トキヤは迷うことなく客二人に背を向けると、そのまま奥の部屋へと姿を消した。
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