虐げられし者の折り畳む恐怖#10
「来たばかりで帰るときのことを考えるのも変な話か。さて、御対面といきましょうかね。……気が進まないけど」
レイカが研究室と思しき扉をノックすると、女性にしては低く落ち着きのある声音で「どうぞ、開けて入ってきて」と簡潔な返事が返ってくる。それに「失礼します」と嫌そうな顔で返し、扉を押しあけた。
室内から漂ってきたにおいは、病院施設で嗅いだ事のあるものに似ていた。ただ、胸が悪くなるほど重苦しい空気はなく、淡々と「薬品」を思わせるような化学的なにおいである。
レイカが何も言わずにずかずかと中へ入っていくので、トキヤとフウカもそれに続く。シノは珍しく室内まで付いてきたと思えば、全員が中に入るや扉を閉め、そのままそこへ陣取ってしまう。
研究室の広さはさほどではない。ちょうどオオトミが生活しているワン・ルームより少々狭い程度だろうか。窓は小さいものが一つだけで、現時刻でも薄暗い。
部屋を見回せば、所狭しと並べられた棚にはガラス器具やら、瓶に入った液体・粉末状の物質等々。いかにもな調度品が収められている。
シキミ・サエジマはこの研究室で寝泊りをしているというが、研究色に染まりきっている室内からかろうじて生活臭がするのは、部屋の隅に設けられたソファ周辺に限られる。
くしゃくしゃのまま丸めて放られている白衣だとか、毛布―― おどろくべきことに、そのソファはベッド代わりに使用されているようであった。とても体が休まるとは思えないが、人間慣れれば持つものである。住めば都とはよく言ったものだが、そもそも汚染だらけのシュト市に住んでいる時点で、この場に居る誰もが、シキミの生活習慣をどうこう言える立場ではない。
「処女の部屋をそんなに不躾に眺めるものじゃないよ。恥ずかしいだろう?」
室内で挙動不審に視線を走らせる客をそうたしなめたのは、部屋の主であるシキミ・サエジマその人である。彼女は窓際に設置されているデスクに肘をつき、近代的な回転椅子の上で、身長の割に長めの足を組んだ気だるげな姿勢をとっていた。少なくとも客を迎える態度ではない。
その表情は言葉とは裏腹に胡乱な笑みを湛えており、声音には試すような響きがあった。
「これが乙女の部屋とは到底思えないのだけれどね」
ため息交じりに応えたレイカの視線は、ソファの上に乱雑に脱ぎ散らかした白衣に向けられている。案外と潔癖な彼女には耐えがたいのだろう。
「ふむ。ぼくの言った「おとめ」と君の言う「おとめ」はきっとニュアンスが違うね。軽い自虐を挟んだ冗談だったんだけど、わかってもらえなくて残念だなあ」
シキミがわざとらしく肩を竦めると、すぼまった肩を頭髪が黒い水のように流れ落ちていく。
おそらく長く整えていないのだろう。東極人特有のつややかな黒髪は、常識の範疇を越えて長く伸ばされている。シキミ自身が小柄だということを加味しても、立ち上がれば優に腿裏まで毛先が届くものと思われた。
女性としての意識が欠けていそうな分だけ野暮ったいが、素材自体はアカギリ姉妹にも匹敵する。切れ長の怜悧な瞳には、ブリッジ式の片眼鏡が良く似合っていて、巷にはなかなか見ないような魅力を醸していた。
「マァ、ともあれ、だ。いらっしゃい。アカギリの御令嬢のお二人と、そっちはトキヤ・カンザキ君だったかな?」
トキヤが挨拶の言葉を述べる前に、シキミが先手を打った。おかげでタイミングを逸してしまったトキヤは、バツ悪く苦笑する。
「ボクのことはすでに御存じでしたか」
「ぼくが言うと嫌味に聞こえるかもしれないけど、キミはなかなか有名だよ。あの偏屈クラウス教授の受け持ちから、飛び級・首席卒業だもの。今の四回生なら、知らない人間はいないんじゃないかな?」
クラウスというのは、トキヤが先行した人類学の教授である。大いなる批判的思考の体現者であり、他者とは常に一定の距離を保ち、その性質を見極めようとする。そのため彼の講義を受ける学生は常に主体性を求められ、安易な迎合や追従によって、幾人もの生徒が落第を言い渡されている。
変人が多い教授陣の中でも、もっとも理性的でもっとも偏屈である、というのが学生間での評価だ。そのクラウスが担当する過程を他の生徒よりも一年早く修得したトキヤは、一部生徒から多大な尊敬の念を差し向けられているわけだ。本人はそのことにまったく意識を置いていなかったため、シキミの言葉に少し驚かされた。彼はてっきり、自分のことはレイカに聞いたものだと思い込んでいたのである。
「……そんなに大層なことではないと思うのですが」
「ハッハ、謙虚だなあ。でもそれでいいと思うよ。思いあがるとロクなことがない。実際散々もてはやされたぼくはといえば、学生生活もそこそこにこんな無体な場所に囲われているわけだしねえ?」
口ではそんなことを言うが、実際のところシキミは現状に不満を持っているようには見えなかった。口調は終始おどけた明るいものであったし、表情や視線の動きにも鬱屈したものは見られない。
「さて、そこの御令嬢の話だと、何か訊きたいことがあるんだって? ――ああ、すまないな。腰掛けるものがない。そこのソファなら使ってもらっても構わないんだけど、どうだい?」
笑いをかみしめるような表情で、散らかったソファを指さす。
レイカの表情が見るからに曇りゆく様を目撃したトキヤは、小さく首を振って遠慮する意思を表した。
「それほど時間はいただきませんので、そちらが良ければこのままでも?」
「ぼくは気にしないよ。たいしてお構い出来なくて申し訳ないね。御覧の通り、人を招くようにはなってないんだ、この部屋は。……かといって外に出るのは億劫だったから、こうしてわざわざ足を運んでもらったわけだけれど」
事前に話を聞いていた通り、シキミは意外にも良く喋る。
こういった研究者にありがちなのは、自分の研究分野に関してだけやたらと饒舌になる、というタイプだが、シキミは喋り慣れているのか、口調にも迷いがなく滑らかでやや早口である。
ただよく喋るだけなら問題はないが、先ほどから不躾なほどにまで差し向けられている試すような視線が、トキヤにはどうしても気にかかって仕方がない。終始からかうような口調は内面を誘い出そうとしているかのようで、迂闊なことは言えないな、と思わせた。
「まだるっこい挨拶事は、悪いけど抜きにさせてもらうよ。ぼくはキミたちに関してすでに"必要最低限のこと"は知っているからね。さっそく本題に入ろうじゃないか。ぼくに訊きたいことっていうのはなんだい?」
自分たちの何を知っているのか、という質問が喉から出かかるが、トキヤはそれをかろうじて押しとどめる。彼女は暗に、時間は有限であると言っているのだ。無駄に時間を取ると旗色が悪くなるかもしれなかったし、それを聞いても「さぁ、なんだろうね」とおどけてはぐらかされる未来しか見えてこない。
募る不信感を敢えて呑みこみ、トキヤは「本題」を告げた。
「サエジマさんは――」
「シキミでいいよ。そう呼ばれるのはあまり好きではないんでね」
「……失礼。シキミさんは、学生の頃にカレッジのオカルト・サークルに所属していたと聞いたのですが、ほんとうのことなのでしょうか」
まずは確認からだ。現役のまとめ役から聞いた話であるし、事実を疑っているわけではない。これはただの話しの切掛に過ぎない。予定通り、シキミは淡々とうなずいた。
「ああ、本当のことだよ。フフ、ちょっと意外に思われるかもしれないけど、昔からそういうのが好きでね。マァ、本当にそういうものが世の中に存在しているかどうかって話をするなら、どちらかと言えばそれを否定する派閥に属するんだろうけど。いかな現実主義の人間だろうと、夢は見るだろう? そういうことさ」
面白がってはいるけれど、信じてはいないということだ。
これは出会ったころのレイカにも通じるところがあるが、それを言えば彼女は憤慨するだろうことが予想されるので、トキヤはその思惑を外へと追いやった。なるほど、と一度頷いておいてから、新たに質問を投げかける。
「単刀直入にお訊ねしますが、『死神からの手紙』について何か御存じですか?」
「……それは最近騒がれてるほう? それとも昔に流行ったほうのことかな?」
手ごたえ有りだった。
今までトキヤが自分で、あるいはナナオを使って話を聞いた相手の中で、「以前に流行った噂」のほうを自分から話題に出してきたのはシキミが初めてであった。内心ようやくたどり着くべき所にたどりついたと喜ぶトキヤだったが、未だ獲らぬ狸のなんとやらである。それに加え、目の前の女性は一筋縄ではいかない人物のようだ。ボーカー・フェイスには自負があったトキヤのわずかな表情の変化をとらえたのか、トキヤの内心を見透かすかのように胡乱に微笑む。その表情を見ていると、何もかもわかったうえで「以前に流行った噂」のことを口にしたのではないか、とさえ思えてくる。
「それにしても、わざわざこんなところまで訪ねてきて訊くことがそれなのかい? ぼくの研究に関することかと思って、無駄にはらはらしちゃったよ」
トキヤが云々と回答を述べる前に、シキミがおちゃらけてそんなことを言う。
レイカがあからさまなため息をつき、シキミを睥睨する。シキミもシキミで、その視線を真っ向から受けて立つ。――美女同士のにらみ合いには鬼気迫るような雰囲気があったが、やがてシキミが堪え切れないといった様子で吹き出したことで、色々と台無しになった。
何がそんなにおかしいのか、シキミは白衣のポケットに手を突っ込んだまま天井仰ぎ、カラカラと小気味の良い笑い声をあげる。その様子を、レイカはあからさまに妖しいものを見るような目つきで見守った。
「いやあ、ごめんごめん。でもちょっと気になるじゃないか。わざわざアカギリの御令嬢を遣ってまでコンタクトを図ってくるんだからね。それについて話すのはやぶさかじゃないよ。差し支えがないのなら、なんのためにそんなことを訊くのか教えてほしいところだけど」
シキミの態度は奇妙だが、よく考えてみれば当然の疑問である。
手続きを取って入ることすら難しい研究施設にわざわざ訪ねてきてまで話す内容が「噂話」では、贅沢が過ぎるというものだ。ちなみにレイカはとにかくシキミに話を通すことを優先していたため、「仕事の過程でどうしても話を窺う必要が出てきた」というようなことしか伝えていなかった。それだけ聞かされて「面白い」と会うことを承諾してしまうシキミには、研究者として機密を扱うことにかけて問題があるが、トキヤ一行は現状シキミの研究に一切興味を持っていないので、結果オーライの様相を呈しているのだった。




