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魔術師たちの昏き憧憬  作者: 美凪
魔術師たちの昏き憧憬
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魔術師たちの昏き憧憬 #2

「……やはり、時計を買うべきだろうか」


 図らずも薄く、新大陸風味になった珈琲をすすりながら、誰に語りかけるわけでもなくひとりごちる。


 自宅兼事務所の一軒家は、「シュト市二十四地区八番街」という、中の下程度の収入の者たちがひしめく住宅街の最中に存在している。縦長の狭苦しい家で、三階建て。一階が事務所。二階が主な生活スペース。三階が寝室と倉庫。調度は最低限しか置いておらず、「中の下の中でも下」を思わせるような質素な暮らしぶりがうかがえる風だ。

 逆になんとか生きていけるだけの環境は整っているとも言えるが、この街で暮らしていくにつけて必要不可欠な道具がひとつだけ、この家には欠けている。


 それが時計だ。

 時計はシュト市において富のバロメータでもある。

 太陽の位置で時間を計ることが出来ないこの街では、必然的に時計の需要が高い。そのおかげもあって時計産業は著しく躍進を遂げ、用途のみを追求したシンプルなものから、意匠を凝らした一級品まで実にさまざまなものが出回っている。現在ではシュト製の時計は市内での需要の枠をはみ出し、諸外国にも親しまれるようになった。


 時を忘れた都市を象徴する産業が時計、というのもまた皮肉な話であるが、とかくこの街では時計が重要な役割を果たしている。時計を持たぬ者は「時を気にしない輩」として扱われ、瞬く間に信用を失うほどだ。

 もちろんトキヤもしばらく前までは時計を持っていた。叔父からもらった懐中時計と、古びた小さな置時計―― 中古品を扱う店からやっとのことで格安で買い取ったものである―― だ。

 時計があるうちは頻繁に時間を確認し、綿密に予定を意識して行動することが出来たが、それらが相次いで破損するという「事故」に見舞われてからは、厳しく律してきた時間の感覚が徐々に錆びつきつつあるようだ。現に睡眠時間にも多少のラグが生じているような気配がする。早急に手を打たなければならない。


「さて、どうしたものか」


 味も香りも何もない珈琲が入ったカップを干し、トキヤは盛大なため息をつく。


 懐中時計のほうはもはや買い直したほうが安上がりなほど破損していたし、置時計のほうはといえば原形をとどめないほど散々な有様であったので、もうとっくに捨ててしまった。

 そうなると新しく購入するほかに手立てはない。蓄えはある。だが、職が職だけにいつ仕事が舞い込んでくるかもわからないので、獲らぬ狸の皮算用で容易に手をつけられるものではない。シュトの時計は需要が高く誰しも必要を迫られるものであるというのに、水準の高い技術が用いられている所為か、ある一定以下の値段にはならない。粗悪品の時計は安価で手に入れることが出来るが、そんなものを使っていたのでは品位を問われる。トキヤには積極的に体面を整えようという意思はないが、職がある意味客商売で、それも信用を売りにしているともなればそうも言っていられない。壊れてしまった「高級品」である叔父の時計の威光を借りるのにも限界がある。第一、叔父に申し訳が立たないではないか。


 無理をすれば買える。しかしそれで蓄えが尽きたのでは元も子もない。そして仕事が入る予定もない。仕事が入ってきたとして、万が一壊れた時計しかもっていないことがばれたら――。


 悩みは重なり尽きない。自業自得とはいえ、まさかこのような憂き目に遭おうとは。

 際限なく出てくる嘆息は飯の種にはならない。


 仕方がない―― とばかりに席を立ち、朝食の後片付けをする。それからいつものように身なりを整えると、一階の事務所まで下りていく。


 事務所は十二メートル四方ほどの広さだが、そこに事務用のデスク、応接用のロー・テーブルと皮張りのソファがふたつ。それから壁を覆い尽くす勢いの書架が置かれているため窮屈に感じられた。これらの調度と書架に収まっている蔵書は叔父からの贈り物であった。客がなければひがな読書をしていることが多いトキヤだが、譲り受けてから一年と半年ほど過ぎているというのに、蔵書の五分の四ほどは未だ手つかずの状態である。そしてその蔵書量であるにもかかわらず、書架にはまだ空きがある。叔父はそのスペースを埋めることが出来れば一人前だと皮肉を言っていた。

 いつもの癖で適当な本を手にとって椅子に腰を据えかけるが、そこで思い出したかのようにデスクに本を投げ出し、エントランスへ向かう。鍵を開けて外に出ると、五年のうちに慣れ親しんだ独特のにおいがする大気が咥内に滑り込んできた。朝イチには吸いたくない味だ。

 顔をしかめながら、ドアにチェーンで掛けられている札をひっくり返し、「close」から「open」へ。ついでにはす向かいのカフェテラスの、ガラス張りの店内を覗き込む。


 ――午前十一時二十分過ぎ。流行にのっとった瀟洒な内装に不似合いの、古さびた柱時計の時間を確認してそそくさと室内へと舞い戻る。衣服から汚れを軽く払い落し、水場で咥内を念入りに漱ぐ。そうしてからようやく定位置に戻り。本を開くことが出来た。


(……もはや本を読むことが生業となってはいまいか)


 一ページ目を開いた直後、業務より本を優先しかけた自分を恥じる。いくら自分がヒヨッ子で仕事が少ないからといって、こうもたるんでいたのではいざという時に立派に勤めを果たせないだろう。


 はれて「同業者」となった甥に向かって第一声、叔父が放った言葉は「最初は忍耐。あとはどうとでもなる」だった。その言葉の意味が今になって身に染みいるようだが、果たして叔父の言う「最初」とはどの程度の期間なのか。もしかしたら自分には忍耐が必要なくなる時期など訪れないのではないか、という悪い意味での疑念が首をもたげもしている。

 黙って頁を繰りながら、トキヤはしばらくとりとめもないことを考えながら過ごしていたが、気付けばすっかり活字を追うことだけに集中している。時折我に返ったようにおもてを上げては、凝った肩や首を捻って動かし、また集中する。それの繰り返しだ。悪い時は食事を摂ることも忘れることもある。それではいけないと思ってはいるのだが、皮肉にも生まれ持った才のひとつであるたぐいまれなる集中力が、ただ本の内容を頭の中に叩きこむという単純作業に彼の精神を没入させてしまうのである。


 この日も結局、トキヤは頁をめくり、眼球を上下左右に動かすだけのからくりとなり果てた。ランプの炎が揺らめく気配と、紙が擦れる音以外には何の動きもない部屋。ひたすら暇を飽かしたどうしようもない日がまた一日過ぎ去ろうとしている。



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