魔術師たちの昏き憧憬#25
「まず現状ですが、不透明なことが多すぎます。差し迫った状況かもしれませんし、まだ猶予があるかもしれません。ひとまず確たる情報のないマミヤ氏の死亡に関して、事故か他殺かの議論は棚上げにしておきましょう。――マミヤ氏の死から少なからず時間が流れていますが、これだけでは状況の善し悪しの判断の基準にはなりません。ですが少なくとも、悪意の対象となりうるあなたをこうして確保できていることには意味があります。この件に悪意を持った第三者が絡んでいるとして、その動向を探る猶予が出来たと言えなくもありませんからね」
危惧するべきことがあるとすれば、第三者があえてまったく行動を起こしていない可能性があるという点だ。思惑があって静観をしていた場合、人形を連れ出してきたことが却って裏目となるかもしれない。実際に人形を所有している人間に危害が及ぶことも考え、トキヤは人形を預かることを買って出たのだ。無論、それを決めた段階では人形がこれほどまで危険な存在であることは知りもしなかったのだが。
『……それはつまり、おまえから何か行動を起こす段階にないということではないか』
「結論から言えばそうなります。楽観は出来ませんが、今はひとまず決着を付けて、様子を見るべきタイミングと判断します。何もなければそれで良し。何か起これば――」
『対処法を考える、か?』
「ええ。後手ですが仕方がありません。現段階ではほとんどが可能性や推測の域を出ませんから。……しかしボクやレイカさんたちがいきなり襲われるようなことがあれば、成す術はないですね」
トキヤの言葉に人形はギクリと背筋を固まらせた。
万が一トキヤやレイカ、フウカが第三者に襲撃された場合、ほぼ自分のせいで間違いはないだろうと自覚したからである。
「もちろん、相手がどんな存在かも今のところ不明ですし、ボクたちの今日の動向が監視されていた場合を除けば、マミヤ氏の肉親であるレイカさんたちはともかくとして、ボクの存在に漕ぎつけるのには少し時間がかかるでしょう。さしあたって心配することはありません。……あなたは」
『ぐうっ……』
人形が喉にものが痞えた様な声を漏らす。
トキヤは狼狽する人形を視界の端で捉え、嘆息した。――別に皮肉が言いたかったわけではない。あくまでも冷静に状況を分析しているつもりだったのだが、彼にしては珍しくちょっとした悪意が漏れ出てしまったようである。
「……まぁ、こうなってしまった以上は仕様がありません。今更見て見ぬふりはしませんから安心してください。そうするにはあなたは少々やんちゃがすぎるようですから」
『好きでやんちゃな仕様になったわけではないわ! そ、それはその、わらわが傍迷惑な存在であることは自覚しているが、かといって自分ではどうにもならぬ。無論、何もしないでふんぞり返っているつもりはない。わらわも出来うる範囲でおまえに便宜を図るつもりではいる!』
人形必死の弁に、トキヤはしばし逡巡してから口を開く。
「それはつまり、あなたはボクと契約を結ぶつもりでいると。そう解釈してもよろしいのですね?」
慌てふためいていた人形はその言葉で落ち着きを取り戻し、厳かに頷いた。
『そのつもりであった。そうでなかったら、ここまでのことは話すまいよ。おまえを見込んだからこそ、最初からわらわの正体までも明かしたのだ』
「あなたは自分という存在を強く恐れている。そうですね?」
『そうだ。わらわはわらわが集めた知識を悪用されることを恐れておる。現にわらわを悪用しようとしている輩は存在する。今まではなんとか往なしてこれたが、これからもそうであるとは限らぬ。打てる手は打っておきたい。それが姑息なものであっても、だ』
「……確かにさしあたってその場しのぎになりえるのはボクの存在でしょう。……ですが、ボクがあなたを悪用しないという保証はどこにもありません。違いますか?」
あえてそのようなことを言うメリットはトキヤにはない。トキヤが人形を悪用するつもりであるなら、そう口にすること自体分の悪い賭けであると言える。それを知ってか知らずか、人形は不敵な笑みを湛え、小さな指を折りたたんで「三」の数字を作る。
『おまえを選んだのには理由がみっつある。――まずひとつ目。これは選ぶ理由というよりも、選ばざるを得ない理由だ。さっきも言うたが、わらわは自分では主を選べないのだ。運が絡めば逃げ出すことも出来はするが、基本的にはわらわに権利というものは存在しない。今回なら前所有者であるショウダイが死に、所有者のいなくなったわらわを見つけ、持ち帰ったおまえに決定権がある。すでにわらわの意思とは関係なく、わらわはおまえの物だ。おまえは「見て見ぬふりは出来ない」と言ったが、そうしてもらっても咎めることが出来る者はいまい。拾うも捨てるもおまえ次第だ。無論わらわはそうしてほしくはないが、所詮は道具であるゆえな』
親指が折りたたまれ、指が表す数字は「二」となった。
『ふたつ目。おまえは魔術に関して造詣はあるが、魔術師ではない。わらわの知る禁呪を実行するには相応の練度が必要となる。わらわを手にしている以上、時間をかければおまえほどの潜在呪力を以てすれば魔術師として大成することは容易い。いずれか禁呪を扱えるようになることは可能だが、今すぐにわらわの知識を悪用できるほどの実力は発揮出来まい。それこそ姑息ではあるがな』
中指が折りたたまれる。人形は「一」を表す人差し指をトキヤに向けて、言った。
『最後。――わらわは道具だ。しかしこの意識は確かに人間のものである。元魔術師などというロクデナシであろうと、人情はあるのだ。……あの姉妹にわらわを背負わせたくはない。おまえにとっては理不尽な話だろうがな。ショウダイがわらわのために命を落としたのかもしれぬと思うと、どうしてもあの娘らに身を任せる気にはならぬのだ』
それまでの笑みを鞘に納めるようにひっこめ、沈痛な面持ちで語る。
『打算的な要素のほうが大きいことは確かだ。娘らにはおまえほどの知識はない。比べればどちらが適任化など瞭然であるが、そういった感情の問題とも無関係ではないのだ。わらわと関わった以上絶対安泰とは言えまいが、少なくともわが身がおまえのもとにあれば直接的な被害が及ぶ可能性は低いだろう?』
「……確かに。矢面に立つならば男、というわけですか」
『済まぬ……』
「いえ、ボクが同じ立場なら同じような判断をしていたところでしょう」
関わってしまったのが運の尽きか。
冷めた安珈琲を啜る。そのあまりのまずさに顔をしかめつつ、トキヤは「やれやれ」とややあてつけがましく口にした。
「……わかりました。あなたと契約をしましょう。ボクに求めることはなんですか?」
トキヤが嘆息混じりに決断を声にすると、人形の表情がぱっと明るくなる。
『おお、本当か!? ありがたい……!』
……これは幻術でそう見えているだけに過ぎない。どういったプロセスを経てそう見えているのかは定かではないが、見る者の感覚よりも人形の思惑に依るところが大きい映像操作なのだとしたら、相当あざといのでは。現に表情はだいぶ豊かであるし――。
次からはほだされないように気をつけようと心に誓うトキヤをよそに、少し気分が浮いたようになっている人形は早口で説明を続けた。
『おまえに求めることはそう多くはない。わらわの存在を必要以上に他人に悟られぬこと。吹聴せぬこと。それから知識という糧を与えてくれることだ。具体的には書物を与えてくれれば良い。――この場所ならしばらくは困らぬであろう。すでに読み下した本も見受けられるが』
人形は事務所の壁を飾る書架を見回しながら言う。
何かの役に立つかもしれないからいくらか持って行け、という叔父の言葉を思い出し、トキヤは失笑する。まさか本当に読んで頭の肥やしにする以外に役に立つ日がこようとは思いもしなかった。
『逆にわらわがおまえに与えられることも多くはない。たったひとつだけだ。――知りたいことを知っていれば教える。たったそれだけであるが、秘める可能性は悪魔的だ。きちんと使いこなすように』
道具とみなすにはいささか口やかましい人形に忠言され、新たな所有者と認められた―― それを決めるのはトキヤのはずだが、そういったほうがしっくりとくる―― かたちになったトキヤは、慎重に頷き返す。
『それと、身の回りの警戒は怠ることのないようにな。わらわを手にしたことにより、おまえは多くの野心を抱えし魔術師たちの昏き憧憬の的となる。精々わらわを奪われたりしないようにすることだ』
「心得ています」
魔術師の憧憬の的、か。
ふとトキヤは頭を抱えたくなった。もう二度と魔術は関わりあいになりたくはないと思っていたのに因果なものだ、と。
『さて、と。主様よ』
上の空になっていたトキヤに、人形がからかうような口調で話しかけてくる。
『まずはその名を識り、新たな主様から賜る最初の糧としたいのだが』
「……ああ、そういえばまだ名乗ってもいませんでしたね、お互いに」
色々と立て込んでいたせいもあってか、すっかり人と人とのリレイション・シップにおける建前を失念していたようである。
『わらわはこの姿になるときに人間の頃のしがらみはすべて捨て去ってしまったゆえ、名は存在しないのだ。しかし、呼び名がないのは確かに不便であるなあ』
「マミヤ氏はあなたのことをなんとお呼びに?」
『ん、ショウダイか。奴はわらわを冗談交じりに「大いなる智慧」と呼ばっていたよ』
「ソフィア―― 悪くはないですね。音は違いますが、ボクの故郷にも智慧を意味する名としてありますし」
『好きに呼ぶが良いよ。名にこだわりを持っていないのでな。さ、わらわのことは良い。さっさと主様の名を教えておくれ』
ニヤニヤと含みのある笑みを浮かべ、人形―― ソフィアはしきりに催促をする。
訝りつつ、トキヤは「トキヤ・カンザキ」の名を口にした。しかしソフィアは不満げにかぶりを振る。
『違う。"それ"ではない。それはおまえが自身につけた名であろう? 生まれたときに賜った、真名を教えてくれ』
「……参ったな。そんなことまでわかってしまうんですか。この名もあながち本名ではない、というわけではないのですが」
トキヤがバツが悪そうにそう言えば、ソフィアは「なんとなくだがな」と言う。
『響きでわかるのだ。それが真実であるかどうか。おそらくは長年知識の正誤取捨選択を繰り返してきたおかげで、少しは感覚が研ぎ澄まされたのだろうが』
「反則気味ですね、それは。もっと巧くやらないとあなたには嘘もつけないようだ」
『時間稼ぎは良い。早く教えてくれ。それとも教えられぬ理由でもあるのか?』
なぜそんなに食いついてくるのだろうか。
もう少し問いただしてみたい気持ちを抑えつつ、カップの底に残った珈琲で唇を湿らせてから、
「……一度しか教えませんよ。それと、決して人前ではこの名で呼ばないでくださいね。大仰であまり好きではないので」
『わかったわかった』
ソフィアは興味津津、といった様子だ。
最後にひとつ長々と息をついてから、トキヤはその名を口にする。――自身の真名を。
「――アルブレヒト・ウルリヒ・フォン・グラムベルク。親しい人間からはアルと呼ばれていました。これで満足ですか?」
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