少女と竜。
不幸な運命を背負う、美しい少女、祥
祥を密かに慕う少年、煌貴
そして、海の向こうからやってきた竜
運命が、今動き出した
水の上に浮かぶ油のように
どろどろとして掴み所のない
まだ世界が霧の中のようにはっきりしていなかったころ…
もやもやとした世界から生まれたのは
光り輝く鱗と瞳をもった
…竜でした。
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綺羅ノ国…そこはその国の名の通り、上等な絹織物を生産し生計をたてている国だった。
暁桜ノ国の皇が統べるこの島の、西の方に綺羅ノ国は位置している。
そこは山に閉ざされた辺境で、ただでさえ上等な綺羅ノ国の絹織物は、運送の難しさからかなりの高級品とされていた。
しかし、聳える高い山岳や、そそり立つ断崖を乗り越えてでも、商人達は絹織物を求めるのであった。
商人達は暁桜ノ国の都の風を運んでくる。めったに訪れない客人に綺羅ノ国の住人もお祭り騒ぎでうかれるのであった。
さて、そんなお祭り騒ぎの中を縫うように進む、小さな影が一つ。
立地のせいか隣国に襲撃されないので、比較的穏やかな国民性の綺羅ノ国の民だが、祭となれば恐ろしく威勢がいい。なので小さな影はぶつかり合う人混みに隠れたり、現れたりした。
影はとても急いでいるらしい。人にぶつかっても迷わず突き進んだ。
「このやろう!!」
「謝りやがれ!!」
影はそんな罵声にも反応せず、ただ通りを突き進む。そして、近くの大きな屋敷の門に滑るように入った。
小柄な肩がせわしなく上下する。地味ではあるが、整っている着物から伸びる長く細い首は、白く透き通った色をしている。
高く結った黒檀のような黒髪を揺らして、影は井戸へと走った。
ほんのり赤く染まった頬を水で冷やし、微かに紅色をしている唇に地下水を流し込む。
瓶覗きの青を宿す、桶の水に映るのは、濡れた長い睫毛の下にある漆黒の瞳。どこか青みがかっているのは水の色のせいだろうか。
影…いや、少女は手拭いで顔を叩くように拭くと、また風のように屋敷の中へと入っていった。
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『祥はまたいじめられているのか…』
襖越しに聞こえる、ねちねちとした小言を少年は聞いていた。
趣味の良い、小綺麗な着物が清々しい。背丈は普通の高さで、すっと背中が伸びている。
頭の上で茶の入った黒髪をしっかり纏めて、なかなか凛々しい横顔だ。
明るい茶色の瞳は真っ直ぐに前を見つめて、彼の筋の通った人柄を表していた。まだ数えで15なので、顔に幼さは残るが、この地域の領主である父によく似ていた。
襖の向こうの小言に耐えかねて、彼がそっとそれに手をかけたとき、中から大きな声が聞こえた。
「所詮あなたはあの女狐の娘なのよ!大人しいふりをしたって無駄よ!!」
「母上!!お止めください!!」
それと同時に少年は襖を開けた。中には疲れた顔の女性と小間使いの格好の少女が、距離をとって立っていた。
女性は少年を見ると、一瞬驚いたが、少女にむけていた冷たい表情を変えた。
「あら、煌貴…稽古の時間中ではなかったかしら?」
少年…煌貴の母は、小間使いをいじめていた現場を見られたからといって戸惑うことはなかった。そこが彼女の潔いところである。
煌貴は明らかに不快そうな顔をして小間使いの腕を掴んだ。
「稽古はご心配なく。では、失礼いたします。これから薬学の授業なので」
そう言った後、去り際に一礼をし、煌貴は立ち去った。小間使いはそれに引っ張られるように部屋から出る。退室のときには、しっかり一礼した。
「…睨みもしていかないのね…祥は…」
煌貴の母、紗奈は溜め息をこぼした。
裏口にたどり着いた2人は、同時に座り込んだ。
「助けてくれてありがとう。武芸の稽古中だったんでしょう?大丈夫だったの?」
煌貴に頭を下げながら祥は申し訳なさそうに言った。
「俺は大丈夫。それより…」
「私も大丈夫。元はといえば私のせいだから。昼までに持って行かなくてはいけなかったものがあったのに遅れてしまったから」
祥はにっこり笑った。
「だってそれは…通りの祭で人が多かったからだろ?」
綺羅ノ国の東側、都と綺羅ノ国を結ぶ、煌貴の父が治める山路ノ領は、商人が滞在するところであり、商売をするところでもある。
だからこのように、お祭り騒ぎになるのだ。
「うん。すごい人混みだった。でも賑やかなの嫌いじゃないな」
「ここは普段静かすぎるからな」
屋敷の中にまで外の喧騒が聞こえてくる。屋敷は、そこまで広いわけではない。しかし、庶民の家屋と比べたら、大きさも造りも断然違う。家具は質素だが品がいいし、しっかりしている。まるで家の主の性格を表しているようだ。
煌貴の父で領主でもある如月煌雅は、名前とは裏腹に、堅実で質素な見た目をしていた。
元々、煌雅の先祖は都の有力貴族で、煌の文字を皇から賜って受け継いできた。しかし政敵の陰謀によってこんな田舎に飛ばされてしまった…という過去がある。
煌雅は、古い人脈を頼りに、元服するまで都に住んでいたので、生来の気品やセンスはかなりのものなのだ。
綺羅ノ国の絹織物の型が流行遅れにならないのも、商人と対等な商売ができるのも彼のお陰だ。
流行に関しては、商売をするために煌雅自身が都に赴き、調査してくるので、確実だった。
綺羅ノ国の玄関口、山路ノ領を治める者としてだけではなく、国を支える大事な1人として、綺羅ノ国の主、その臣下、民衆まで彼を信頼していた。
そんな父を煌貴は尊敬していた。
「さあ、もう時間だ。薬学の授業が始まってしまうよ」
祥と煌貴は煌雅の部屋へと向かった。
煌雅は都で多くのことを学んだ。煌雅はその知識を男も女も、身分の高い者も低い者も関係なく身につけてもらいたいと考え、自室で授業をしていた。
反対意見も多く、煌貴が丁度生まれた頃、やっと実現した願いだった。
「父上!」
祥と煌貴が元気に部屋に入ってくる。2人のほかには生徒は誰もいない。
「祭だからしかたないか」
煌雅が静かに呟く。別に怒っている訳ではないがよく響く声は威厳を醸し出している。
普段はここも相当な賑わいをみせている。煌貴以外、毎日は出席できないが、いつも皆笑顔でここにやってくる。
「しかし、ここまで人がいないと授業は進めるべきではないと私は思うが…なにか個人的に知りたいことはあるか?」
煌雅がそう訊くと、間髪いれずに祥が手を挙げた。
「異国の話を聴かせてください!!」
そんな祥を見て、煌雅は微笑んだ。
「私は海を渡ったことも、異国の民を見たこともない。しかし都の友人は見たことがあると言っていた。船に乗っていたら嵐に遭い、漂流した先は暁桜ノ国ではない異国だったとか」
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そこは、規模の小さい港と思われる所だったそうだ。人通りは少なく、活気がなかった。
しかし港には見慣れぬからくりのような物があり、文明が進んだ国と見えた。
建物は、四角い赤い石を積んだ高いもので、道にも石が敷き詰められていた。
見知らぬ土地なので、万が一のために船を隠し、陰から街を見ていたのだが、急に騒がしくなって、大きな足跡が近づいてきた。
奇妙な青い衣服を着た集団が列をなして歩いているのだ。手には黒光りする筒のような物を持ち、鋭い眼差しで周囲を睨んでいた。
目を凝らすと、その異国の民は不思議な容貌をしていた。髪は亜麻色や金色、瞳は薄い色をしていて、灰色や水色だった。丈高く手足も長い。
殺気立った様子と容貌に恐れをなし、友人は急いで出航の準備をしたそうだ。
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「よく帰ってこれましたね」
煌貴は驚きを隠せない様子だ。
「幸運にも、暁桜ノ国にたどり着けたらしい。強運の持ち主だな」
「私、会ってみたいです。金の髪だなんて珍しい」
祥は目を輝かせて言った。こういうとき、祥の大人びた賢そうな瞳は本来の幼さが垣間見られる。
目に見えるほどわくわくしている祥に反して、煌貴や煌雅は目を丸くした。
「全く得体が知れない者になんか会いたくないだろう!?」
煌貴は戦々恐々とした面持ちだ。
しかし煌雅は目を丸くした後、どこか憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「…2人とも、今日は生徒もいない。せっかく祭をしているのだから見に行ったらいい」
煌雅の反応に子供たちは首を傾げたが、お互い顔を見合わせて部屋を出ていった。
「…彼女と同じ反応をするのだな…祥…」
煌雅は独りで昔を思い出していた。
この話で瞳を輝かせた人。その顔は何かを決意した顔だった。
美しい横顔に強い眼差し、潔い口調。
「禮…」
そう呟いた煌雅は、大きなため息をついた。
「…どうしよっか…」
煌貴は通りのお祭り騒ぎを見て、呟いた。
「…すごいね…」
祥も…祭でうかれていると言うよりは、人出の多さに呆れている表情を浮かべた。
「…静かなところに行こう」
煌貴は祥の手を牽いて裏口へと向かった。
「お婆様の家まで行こう。前の薬学の授業で知った薬草を探してみようよ」
祥が楽しそうに言う。
せっかく授業がなくなった分、煌雅邸の小間使いである祥の空き時間ができたのに、常に授業のことを考えるのが祥らしいと煌貴は思った。
「よし!そうと決まれば、走らなきゃ!!」
祥の言うお婆様の家とは、今は亡き祥の祖母が住んでいた森の中の古い家である。
数えで15になる祥の家族は今はもういない。祖母は祥の母親が17のときに亡くなっている。
祥が3歳の頃に煌雅邸の小間使いだった母親が亡くなってから祥は独りだ。
そして、流れ者だった祖母や、その娘の母のことは皆良く思っていない。
煌雅は、祥が知りたいと言えば母親…禮のことを教えてくれた。
大層な美人で、父親のことを明かさないということで、狐の子だと言われていたこと。
文武に優れた人であったこと。
威勢のいい人で、嫌われることを恐れなかったということ。
『そのせいで私は妬まれるのにな…』
煌輝の母親や年寄りの小間使い達にいじめられる祥には、迷惑な話であった。
煌雅はそこまで悪く言わないので、祥も気が楽だった。
祥が思うに、煌雅と母は仲が良かったのだろう。煌雅が語る母の話は活き活きとしている。
「彼女は本当に強い人だった。他人に狐の子だと言われても、
『我が父を侮辱するとは許さん!』
と殴り合いの喧嘩になったことがあった。その時も禮が勝った。とにかく強い人だったからな。
その後私が『あなたの父上はどんな方なのですか』と訊いたら、
『少なくともあの男どものような愚か者ではない』
『私は自分が人ならぬ者だと言われても気にしない。自らが誇り高き血を受け継いでいると思えば、何も怖くない』
と言っていた…強い人だった」
祥は全く母を想像出来なかった。なんとなく、自分の不幸の原因のような気がしたからだ。
そして祥は父親が誰かを知らない。一旦国を出た禮が祥を抱いて帰って来て、何も話さないので誰も知らないのだ。煌雅だけが、
『少なくともこの子は人間の子です』
と禮が言っていたのを聞いている。
何故国を出て、何故帰ってきたかは誰も知らない。長旅のせいで禮は病み、死んでしまった。しかし帰ってきたときの禮は、本当に昔と変わってしまったと人は言う。
母として強くなった禮は昔のように喧嘩をすることもなく、ただ聡明で美しい女性になっていたらしい。
祥は煌雅がそう語るのを、複雑な気持ちで聞いていた。煌雅はたまに祥を見るときに、祥ではない者を見ているからだ。恐らく禮と祥を重ねている。
祥は大人しく、そこまで明るくない。育った環境がそうさせたのかもしれない。禮は祥を小間使いとして住まわせ、育てるように煌雅に頼んでいた。
煌雅邸で働くことは、名誉あることであるし、何より高給なので誰もが憧れる仕事だ。
そんな仕事に生まれながらに就いてしまった祥は妬みの対象だった。なるべく目立たず、大人しく生きるのが彼女の生き方になってしまったのだ。
しかし、煌貴や煌雅は祥に普通に接してくれる。
幼い頃から、主従の関係を越えて祥と煌貴はとても仲が良かった。
「今何か音がしなかったか?」
ふいに煌貴が呟く。
2人は立ち止まって耳をすませた。
「何かが崩れる音…瓦礫みたいな何かが」
いつもは風の音や獣の動く音で何らかの音はしているこの森が、その異様な音以外はしんとしている。それが不気味だ。
「…行ってみようよ」
祥は前だけ見て、呟いた。
「土砂崩れとかだったらどうするんだよ!!」
煌貴は祥を止めようとしたのだが、祥は風のように走り出してしまった。
「待てっ!祥!!」
煌貴も急いで後を追った。
祥は妙な胸騒ぎを感じていた。
『こっちはお婆様の家だ…。なんだろう…いやな予感がする』
走っているのに、不思議と疲れを感じなかった。一心不乱に走った。
ガシャッ…
音が大きく、近くなってくる。この深い林を抜ければ、祖母の家につく。
ガシャッ…
高い草を掻き分け、見上げた先にあった物は、
崩れた家と
…それを覆うほど大きな得体の知れない何か。
あまりに奇妙な出来事に、祥は叫ぶことも逃げることも出来なかった。
薄暗い森の中で、何かがゆっくりと起き上がった。瓦礫が音をたてる。
蜂蜜のように輝く二つの光が祥を『見た』。
『何か』はゆっくりとこちらに歩み寄る。大地を揺らしながら確実にこちらへと近づいてくる。
近づくにつれ、その『何か』の姿がはっきりしてきた。
瓦のように重なった、鈍く光る厚い鱗…まるで鬣のように生える棘のようなもの…蝙蝠のような翼…異様なほど白く、鋭く輝く牙と爪…蛇のような、巨木のような長く太い胴と尾…。
日の光がさしたとき、鱗は深い蒼色に輝き、鋭い双眸は黄金の光を宿した。
「祥っ!」
やっと追いついた煌貴は、祥と同じく固まった。遊びに来ているので、刀など持っていない。震える手で足下の木を拾おうとした。
その手を祥は止めた。
「お前!!」
正気か!?と煌貴は訊こうとした。しかし祥の横顔は今まで見たことがない表情をしていた。
吸い寄せられるように目の前の生き物を見つめ、ぼーっとしている。
煌貴はなんとか祥を正気に戻そうと思って、肩を揺らそうとしたが、祥の身体は石のように堅くなっていた。
生き物はどんどん近づいてくる。その熱い吐息がかかるくらいに近づいたとき、煌貴はダメ元で祥の肩を押した。すると祥の肩はふっと力が抜け、その場に倒れ込んだ。
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あれは竜以外の何物でもない。あれを例えるならば巻物で見た竜しかいないのだ。
『…なんで懐かしかったのだろう…なんであんなに恐ろしい生き物なのに…惹かれてしまったのだろう?』
祥はまどろみの中、考えた。
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「祥っ!祥っ!」
煌貴が祥を必死に呼んでいる。
祥は暗い世界からゆっくりと抜け出そうと目を開けた。
「…こ…うき…」
祥には泣き出しそうな煌貴の顔が、霞んで見えた。
頭がはっきりとしてきて、ゆっくり起きあがると、あの生き物の姿はなかった。
「竜は…?」
「あれが竜だとわかってたのか!?」
祥は急いで首を横に振った。
「ううん!何となくだから!気のせいかも!…って…竜だったの…?」
煌貴の口調を疑問に思って、祥は首を傾げた。
「いかにもそうだが」
祥の質問に答えたのは…聞き慣れない声だった。
背後から聞こえた低い声に驚いて、祥は振り返ると小さく悲鳴を上げた。
そこにいたのは、金の髪に金の瞳をもった、丈高き男だった。顔立ちは、鼻が高くはっきりしている。
「顔を見て叫ぶとは、この国の民はどんな教育を受けているんだ。しかし、竜の姿で叫ばないのに、人の姿で叫ばれるとは…」
男はすらすらと喋る。見た目はまるで異国の民なのに、暁桜ノ国の言葉だ。
「祥…驚かずに聞いてくれ…。祥が気を失った後、竜は光って人の姿になったんだ…。それがこの人」
煌貴の説明に、祥は驚きすぎて声も出なかった。
「じゃ…じゃあ、なんで…竜がお婆様の家に…」
竜は首を傾げて言った。
「…この家はお前の祖母の家か…。おかしいな…懐かしい匂いがしたのだが…。まあ、いい。俺は大陸から海を渡ってここにきた。この国の言葉は知り合いが教えてくれたから理解できる」
竜は面倒臭そうに喋った。
煌貴と祥は唖然として話を聞いていた。
「…とにかく、腹が減った。何か食わせろ」
唐突に竜が言ったので、更に2人は唖然とした。
「えっ、あ…はい?」
「大陸から飛んできたから腹が減ってるんだよ!」
竜は異国の物らしき白いゆったりとした服を翻した。
「とにかく、お前らの家でも何でもいいから何かふるまえ」
竜は嵐のようにやってきた。
「何故綺羅ノ国にいらっしゃったのですか?」
煌雅邸に着くまでにあまりに無言で気まずいので、煌貴は竜に訊いた。
「……竜に会いに来た」
一瞬の間をおいて竜は答えた。
「この国に竜がいるんですか!?」
祥は期待をこめて訊いた。
「いるはずだ。暁桜ノ国の竜に会ったことがある」
「そういえば、暁桜の都に竜を神として祀っているお社があると聞いています」
煌雅が前に授業で言っていたことを祥は思い出した。この細長い島国は、竜が横たわってできたという伝説から、竜が祀られているのだろう。
「都には行かない。俺が竜だということをなるべく知られたくないからな…。田舎で十分」
そう言うと、竜は服の肩に縫いつけられた、頭巾のような布を深く被った。
「なんですか?それ」
煌雅の息子として都について行く煌貴は、自然と服装に興味があった。
「フード」
「ふ、ふう…?」
竜は大きな溜め息をついた。
「お前にはどうせ分からないだろ」
「お前じゃないです!煌貴という名前があります!」
煌貴は我慢出来ずに噛みついたが、竜は無視した。
「あまりバレては困るから、お前たちには俺の名前を教えておこう」
竜は立ち止まって2人と向かい合った。
「俺の名は、クロード。クロード・ルナシェリア」
暁桜ノ国の発音と違う、滑らかで柔らかい名前に2人は驚いた。
「く…くろーど」
「クロー…ド?様」
煌貴は固すぎる発音だったが、祥は一応言えたようだ。
「そう。これからそう呼べばいい」
「これから…って…もしかして」
煌貴の質問にクロードはさり気なく答えた。
「竜に会ってからすることがある。それが終わるまでよろしく」
竜という生き物はなかなか難しいのではないか…と祥はなんとなく思った。
屋敷に着いてから、煌雅邸は軽い混乱に陥った。
クロードはあまり人の前に顔を出すわけにはいかないので、裏口から直接煌雅の部屋に入った。
煌雅は普段から冷静なだけあって、腰を抜かして何も言えないでいるようすは滑稽を通り越して、軽く哀れだった。
さすがに家主には本当のことを言った方がいいので、クロードは祥たちに話したことと同じことを語った。
「……信じがたいのだが…煌貴と祥が本当だと言うのなら…信じなければいけないのかもしれない」
ようやく落ち着きを取り戻した煌雅は、自らに言い聞かせるようにゆっくりと呟いた。
「物分かりのいい家主で助かる。断られたらどうしようかと考えていたところだ」
人にものを頼む態度ではないが、これがクロードの性格なのだろう。
煌雅は少なくとも馬鹿ではない。息子たちを信じているから、竜がどれだけ恐ろしいものか想像できた。断ったらただならぬ事が起きると分かったのだ。
「あなたには、この離れを使っていただこう。一応今なら、商人の仲間だと言って誤魔化しはきく。異国の話を聞くという名目で私が招いたと言えば、皆きっと信じるだろう」
「なるべく目立たない。約束しよう。隠れさせてもらってるんだし、本気で異国の話をしようか?」
さすがにクロードにも、気遣いができるらしい。
「私も聞きたいです!!」
祥は瞳を輝かせて言った。
「好きにすればいい」
クロードは欠伸をしながら言った。
その日は、沢山の食べ物が煌雅の部屋に届いた。
「ありがたい。さすがに海を渡るのは辛かった。しかし、これからそれほど動くわけでもないし、数日間はいらないと思う」
クロードは異国の食べ物だからと言って口に合わないことはないらしい。
「調理しなくても食べれるんだよ」
と煌雅に言っていた。
†‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡
祥は皆が寝静まる頃まで仕事をしていた。
クロードとあまりに長くいたせいで、出来ていない仕事があったのだ。
「ふう…」
やっとやるべき仕事も、明日の準備もできたので、祥はなんとなく庭にでた。
今は春の朧月が浮かんでいる。
「…ああ、もう春なんだ」
毎日がせわしなく過ぎていて、気づかなかった。
春とはいえ、夜は冷え込む。祥は使用人の使う部屋に向かおうとした。
しかし、それをふせぐ高い何かが立ちふさがった。
小さく悲鳴をあげそうになったが、頑張って押し殺した。
「人の姿でいるのに、なんでまた叫ぶんだ?」
そこにいたのはクロードだった。
「すみません…急にいらっしゃるから…つい」
月夜で見るクロードの髪は、柔らかく光って美しい。しかし、同じ金色の瞳は鋭く光っている。
「まあいい。俺はお前に質問がある」
「なんですか…?」
クロードは身を屈めて祥の顎を掴んだ。
「お前…竜の匂いがするのだが」
「…え?」
訳が分からず、この状況にも理解できず、祥は固まっていた。
「祥、お前は人にしては竜の匂いが強い。もしかしたら人ではないのかと、会ったときから考えていた。だからあの時喰わずに生かしておいた」
竜の姿のとき、祥をジッと見ていたのはそういうことだったのだ。今、あのときと同じ状況だが、祥は随分緊張していた。
「多分違いますっ。少なくとも父親は人間だと聞いています」
これで離してくれるのではないかと祥は僅かに期待したが、クロードは離さなかった。
「普段は夜の闇より黒い目をしているのに、月夜では青く光るのだな」
あまりに整った顔立ちがさらに近づく。爬虫類のような、猫のような瞳に祥は吸い込まれそうになった。
「祥っ!!」
縁側で、煌貴の呼ぶ声がした。祥ははっとしてクロードを押しのけた。クロードは何もなかったかのようにすました顔をしている。
「大丈夫か!?」
煌貴は必死の形相で祥に訊いた。
「あ…うん、大丈夫」
煌貴にそこまで心配されると、祥はそんなに重大な事件ではないような気がした。
「質問しただけだ。お前には関係ないだろう」
クロードは呆れたように言って、服を翻して去っていった。残ったのは甘い香り…これが竜の匂いなのかと祥は思った。
「質問って…」
煌貴が少し躊躇いながら訊いた。
「…私が人間らしくないって…。でも言われ慣れてるから気にしない」
煌貴の母を始め、禮を知っている人なら皆、人間とは違うものを見る目で祥を見る。
「でも…祥が何であろうと、俺は一緒にいたいと思うよ」
「…ありがとう。本当に煌貴に助けられてばっかりだね」
祥は生まれながらに煌雅邸にいたので、友人もなかなかできなかったし、禮を知る母親たちが子供たちに祥を避けるように教えたこともあって、親しいのは煌貴やたった数人だけだった。
本当は煌貴と祥は主従の関係なのだが、煌貴の願いで皆の許しを得て、2人は仲の良い友達としていられるのだ。
さすがに、2人きりの時にしか祥は煌貴を呼び捨てに出来ないが、そのことを祥は気にしなかった。
「今回は大丈夫だったのかもしれないけど、相手は人間じゃない。あまり心を許すなよ」
「そう…だよね。私油断してた」
煌貴の言うことももっともだと祥は頷いた。
「…もう月が傾いてきちゃった…。私寝るね」
今日は疲れたし、明日も早いのだ。
「良い夢を」
祥と煌貴は別れて、自分の寝床へと向かった。
‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡†
鳥のさえずりが聞こえる。祥は太陽が昇る前に起き上がった。
「…皆まだ起きる時間じゃないし、昨日も遅かったのに、早く起きちゃうなんて…」
周りの仲間はまだ寝ている。皆を起こさないように、祥は支度を始めた。
今日は夕食に出す山菜を採ってくるように、先輩に言われている。
なるべく早く済ませようと、祥は急いだ。
「祥!ちょっと待って」
後ろで聞こえたのは、祥の数少ない友人の一人、美桜のひそひそ声。
美桜は明るい性格の娘で、人懐っこそうな明るい色の大きい瞳が印象的だ。
彼女は祥が皆が避ける存在であるにもかかわらず、煌雅邸の小間使いになってから真っ先に話しかけてきた。
『皆が言うほど悪い女の子じゃなさそうだったし、年増のお姉様方と話すのはやっぱり疲れるからね〜』
何事もハッキリ言う美桜は祥と正反対だったけれど、2人はなかなか相性が良かった。
「私も一緒に行くから」
美桜は支度を済まして、祥の横に立った。
「仕事…あるんじゃなかったの?」
しかし、彼女は首を横に振って答えた。
「先輩に、たまには故郷に顔を出せって言われて休暇をとったんだけど、全然そんなつもりはないからね」
美桜の故郷は離れたところにある。8人きょうだいの長女だったので、稼ぐために煌雅邸の小間使いになろうと思っていたらしい。
煌雅邸で働くのは、何らかの才能がなければ認められない。美桜は数々の試験を乗り越えてやってきたのだ。
彼女にとって家族は煩わしい存在らしいのだが、家族の記憶がない祥には分からなかった。
しかし、煌貴を愛する煌雅や紗奈の姿を見ていると、家族というものは悪いものではないと祥は思うのだった。
「とにかく、今日は祥と一緒にいるから」
笑い合いながら、2人は外に出た。
†‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡
「ねえ、ここらへんで幽霊が出たって」
山菜は豊富にあったので、2人は話すことに集中していた。
「…だから私に仕事がまわってきたのか」
別にもう気にしないけど、と祥は溜め息混じりに呟いた。
「臆病よねー。見えると思うから見えちゃうんじゃないの?」
さり気なく先輩の嫌味をいいながら、美桜は蕨を採る。
「別に怖いとは思わないな」
祥は昨日の騒動に比べたら、大体は乗り切れそうな気がしていた。
「私も思う。狐に化かされたとか言ってるんだよ?もう有り得ないにも程があるよ。逆に笑えるよねぇ?」
美桜は祥に笑いかけようと思って振り返ったのだが、そこに祥はいなかった。
「え?祥!?」
何の物音もしなかった。しかし確かに祥はいなくなっていた。
‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡†
「別に怖いとは思わないな」
祥はそう言いながらも、違うことに興味が移っていた。
木立の向こうを何かが通っている。
白と朱の布らしき物がひらひらと動いている。目を凝らすと、それは小さな2つの人影が着ている服だと分かった。
それらはこっちに向かって近づいてくる。小さな子供のようだが、上等そうな巫女装束に似たものを着ていて、髪はそれぞれ橙色と銀色、瞳は黄色だ。耳の下あたりで2つに結んだ髪に、鈴がついている。
『禮!!』
よく似た2人は祥に駆け寄り、手を引いた。
その瞬間、目の前が真っ白になった。
†‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡
「確かに、禮によく似ているね」
「でしょ!?」
「でも禮はもう死んでしまったのだよ」
「だって禮の匂いがしたんだもん」
遠くで賑やかな会話が聞こえる。1つは明るすぎる少女の声。もう1つは静かな女の声。
「それは私も思った。このまま帰すのは惜しいね…。狛…起こしてやりな」
「………はい」
新たな声だ。喋るまでそこにいるとは分からなかったほど、細くて小さな少女の声だった。
不意に肩を叩かれて、祥はやっとはっきり目を覚ました。
「………」
傍らには、先程の少女が立っている。髪が銀色の少女だ。見るからにおとなしそうな、悪く言えば暗い雰囲気が目に見えて分かる。
「………立って…」
祥は戸惑いながらも立ち上がった。すると、銀色の髪の少女は走って2人の人影に隠れた。
2人のうち1人は、銀髪の少女によく似た姿形をしているのだが、髪が橙色で、常に笑顔を絶やさないでいる。
無邪気な笑顔の少女の隣にいるのは、山吹の匂襲ねの小袿姿が目に鮮やかな妖艶な女性だ。
翡翠のような輝きを放つ切れ長の瞳や薄紅の唇、透き通るように白い整った顔立ちが美しい。
あまりに浮き世離れした見た目だったので、祥は見とれるというより少し恐ろしく感じた。
「狛、この人間は大丈夫だよ。隠れちゃだめだよ」
橙色の髪の少女が、銀髪の少女に話しかける。銀髪の少女が狛という名前なのだろう。呼ばれて顔を出した。
「あの…ここはどこですか…?あなた方は誰なんですか?」
女性は改めて祥を見据えた。
「まずはそなたから名乗りなさい」
「私は…祥です」
その言葉で、先程まで鋭かった女性の眦が少し優しくなった。
「…祥、そなた…もしや禮の娘ではないか?」
それがどうしたというのだろう。祥は訝りながらも肯定した。
「そうですが…」
女性は緑の瞳を細めて微笑んだ。
「そうか…そうなのか…。では私も名乗ろう。私の名前は美月だ」
「…美月様」
なぜこんな田舎に見るからに高貴な女性がいるのか分からなかったが、祥はそう呼んだ。
美月の横から、橙色の髪の少女が明るい声で名乗った。
「僕は狗だよ!名と字はね、美月様がくれたんだよ。こっちは狛。狛の名前も美月様がくれたの」
そう言って狗は枝で地に名前の文字を書いた。
僕という一人称が狗の見た目に全然合っていないのと、あまりにすらすら文字を書くので祥は驚いた。
「字を書けるの?」
このご時世、煌雅の下で学ばなければ字を書ける人はなかなかいない。祥は授業でこんな子供たちを見かけたことなどなかった。
「人間の言葉は読めないよ。名前は大事だから書けるの」
『おかしいな…この字は普通人間の名前にあてる字じゃないよ…。それに…この子の喋ることもまるで人間じゃないみたい』
「………人間じゃないの…私たち。…美月様も…狗も狛も」
無口な狛が喋ると、不思議と耳に入ってしまう。その言葉に祥は驚いて、後ずさった。
「そなたは聡いね。じゃあ狗狛は何だと思う?」
美月は満足そうに頷いて、祥を試すように見つめた。
祥の頭の中には様々な推測が飛び交った。そして美桜の言葉を思い出した。
「…狐ですか?」
祥は美月を見たが、彼女は顔色一つ変えない。代わりに狗が答えた。
「人は皆、僕等のことを狐と呼ぶかもね。僕等は生まれたときはただの生き物で、人が分類した狐という種族として狩られた。助けてくれた美月様に名をもらってようやく自分が何かを考えるようになった」
「つまり…あなた達は何…?」
いつも笑顔の狗が、ひどく大人びた顔で語った。そして狛がつなぐ。
「………分からない。結局自分とは何かなんて定義できない……けど…狐と人は呼ぶの…」
「要するに、正解。この子たちは私のお使いとして、名をあげたの」
獣に名前をつけて、これほどまでに力をもたせるということは、美月もただ者ではないと祥は警戒した。
「悪いね、祥。そなたの力を試すためにこんな質問をした。最後に一つ聞く。私は何だと思う?」
『何を試すというのだろう』
祥は少し不安だった。答えたら当たっていてもはずれていても、何か後戻りはできないような気がしたからだ。
『でも、今は答えだけ考えなきゃ』
祥は不躾とは思いながらも、美月をしげしげと見つめた。
整った顔立ち、流れる烏の濡れ羽色の黒髪、緑の瞳…それら全てが合わさると、人ならぬ、神々しいほどの美しさになる。
狐か、猫か…祥は混乱していた。
『悩んだときには目をつぶって、呼吸を落ち着けるんだよ』
祥はそういうときに煌雅の言葉を思い出す。藁にもすがる思いで祥はその言葉どおりにした。
目をつぶると視覚以外の感覚が優れてきた。この森には音がない。
『…あ』
鼻の奥で、甘い匂いがする。
祥はこの匂いを嗅いだことがあった。
「分かりました」
祥は目を閉じたまま、禮に伝えた。
「あなたは竜ですね?」
目を開けると、美月の嬉しそうな顔が目に入ってきた。狗と狛が顔を見合わせて笑っている。
「ご名答!」
美月は祥の近くまで歩み寄った。男並みに高い身長の美月は、少しかがんで祥と目を合わせた。
「私はここに住む竜だよ。禮はいい話し相手だった」
「僕や狛にも優しかった!」
禮のいい評判をなかなか聞いたことがない祥は驚いてしまった。
「なんで皆さんは母を知っているんですか?」
祥の言葉に、美月は目を丸くした。
「…私達はそなたを知っていた。禮がそなたをここに連れてきたからな。なのに禮はそなたになにも話さなかったのだな」
「私には母の記憶はありません」
「ああ…そうか?そういえば人は忘れる生き物だったな…」
美月は面倒くさそうに頭を掻いた。
「そなた、禮の生い立ちを知らぬのか」
「…知りません」
禮の話をよくしてくれる煌雅だって、自分が都から綺羅ノ国に帰ってくる前の禮を知らない。
祥を責めるとき、何かと禮の話を出してくる人々ですら、禁句のように肝心のことは言わなかった。
「知りたいと思うか?」
静かだった森が、急に風をはらんで揺れた。その音で、祥はとんでもないところに来てしまったと今更思った。
目の前には竜までいる。禮の娘だからといって、喰われない保証はない。
それに祥は、母の生い立ちを知らない方がいいのではないかと思っていた。禮が秘め隠してきた事実は、一度知ってしまったらきっと知らなかった頃には戻れないと無意識に確信していた。
「確かに、知らない方が幸せかもしれない」
ずっと黙って考えている祥を見て、美月は言った。
「でも、真実は知っておいた方がいい」
「知りたくなくても…ですか?」
祥にとって、母とは苦労の元凶でしかなかった。母をもっと知ることで、苦しみが増大するとしか思えなかった。
「真実から逃げるのか」
美月は獰猛な微笑みを見せた。鋭い犬歯が光る。
「私に選択する余地はないのですか?」
美月の表情に驚いたが、なるべく恐怖を面に出すまいと祥は努力した。
「ない。海の向こうから来た竜が災いを連れてきた。竜は団結しなければならない。聖なる竜の国を汚してはならない」
「そんな話知らないし、私には関係ありません」
美月があまりにはっきりと断言したので、祥は面食らった。海の向こうから来た竜という言葉にも、驚きを隠せなかった。
「さすが禮の娘、強情だな。話にならない。しかしな、そなたに深い関係のある話なのだ」
美月が感心したように祥を見て、声を静めて荒々しさをなくしたのだが、祥はとても逃げたかった。
『何も知らなくていい…何も…』
また森に風が吹き、光が遮られた。
『逃げよう…逃げよう…逃げよう』
祥はそれしか考えられなかった。
気づいたときには、祥はもう美月達に背を向けて走り出していた。
『また会いに来るといい』
風に乗った美月の声が聞こえた気がした。
『祥…祥…』
『結局禮と同じではないか』
『祥…』
『このようなことが続くのなら、相応の対処を…』
『あの女の娘だ…。どうせ…』
耳を塞ぎたくなるような、冷たい言葉がこだまする。
私は誰なのだろう?祥という名前の何なのだろう?
『結局自分とは何かなんて定義できない』
狛が言っていた。
ああ、そうだ…。逃げてしまったんだ…私は…。
また、鼻の奥で甘い匂いがする。逃げてしまった私は…殺されるの…?
†‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡
祥は、飛び上がるように起き上がった。
よく覚えていないが、怖い夢を見たらしい。
「やっと起きたか」
祥は声に驚いて横を見た。で、『また』叫んでしまった。
「なんで叫ばれなきゃならないんだ?俺は団子喰って本読んでるだけなのだが…字読めないけど」
そこにいたのはクロードだった。団子を食べながら本を開いている。
「すみません…びっくりして…」
美月の竜の匂いに怯えている今、クロードの竜の匂いにも驚いてしまったのだ。
「でも…なんでこんなところに…?」
「体力回復のため休養中につき暇だから。お前が3日間眠っている間も、皆忙しかったから、お前を看てる暇はない。で、暇な俺が監視を引き受けた。俺もそのくらい寝たい」
クロードは大きな欠伸をしながら言った。
「3日間も!?」
「そうだ。3日間消えて、森で見つかって、また3日間寝た」
祥は目眩がするような気がした。あの場所には数十分しかいなかった。走って、疲れて意識を失ったのもその後すぐ。あの場所は、時間の流れがおかしかったに違いない。
「煌雅はけっこう落ち着いてたな…お前の母親もよく何日かいなくなってたらしいから。従業員も呆れてた。小僧はかなり慌ててたな」
『母様の「いなくなり癖」は美月様に会いに行っていたからか…』
以前に禮の癖の話を煌雅に聞いていたので、祥は妙に納得してしまった。
「しかしお前…どこ行ってたんだ?竜の匂いがする…。話してくれないか」
読めていないはずなのに、本に目を通しながらクロードが言った。
「やっぱり…竜の匂いがするのですね。…分かりました」
それから祥は、起こったことを大まかにクロードに話した。
「ふーん…」
クロードは祥の話を黙って聞いていたが、だんだん険しい表情になってきた。
「お見通し…ってことか…」
「海の向こうから来た竜って…クロード様のことですよね…?」
災いを運んでくるとまで言われていたのだ。祥には目の前のクロードがそうだとは思えなかったが。
「お前、知りたかったらついて来い。どうやら俺の見立て通り、お前は竜に関係があるようだ」
「え?何でですか?」
「俺が連れてきた、『災い』に対抗するように、竜に呼びかけているんだろ?で、お前もそれに誘われた。関係があるとしか思えない」
団子を咀嚼しながら言われても、説得力がない。
「私は知りたくないし、関わりたくないです」
「ふーん…。このままババア共に自分の非がないのに虐められ続けて、そのままでいいのか」
クロードはまだもぐもぐとしていたが、瞳だけは鋭く光っていた。
「それとこれとは関係ないです」
「ある。お前が虐げられているのは、お前の母親が原因だろ」
祥は吃驚してしばらく黙った。
「図星。まぁ、小僧に教えてもらったんだがな」
「………」
「でも、お前…そうやって虐められて、それでも我慢して頑張ってる自分を悲劇の主人公か何かと思ってんの?いわれもない迫害に反抗しようともしないし」
クロードは辛辣な口調で言った。でも、祥の心にそういう気持ちが確かにあったので、反論のしようがなかった。
「そんな何もしないお前が、よく知りもしない母親を虐めの原因にするのはおかしい。そうだろ?」
『…確かに…私は母様のこと…少ししか分かってない』
クロードは勝ち誇った笑みで、団子をもう一つ取ろうとした。
「…分かりました。クロード様と一緒に、美月様に訊きに行きます」
クロードの言ったことは確かに正論だが、あまりに辛辣だったので祥は軽く苛々した。なので、クロードの取ろうとした団子をさっと奪い取った。
「っあ!!なにすんだよお前!!」
「お腹減ってるんです」
大体クロードは食べ過ぎだ。祥と話している間、ずっと団子を食べていたのだから。
「俺の団子が…」
そんな茶番をしていると、部屋に誰かが入ってきた。
「祥っ!!起きたのか!?」
「うるさいのが来た…」
煌貴が心底安心した表情で入ってきたのだ。同時にクロードは大きく溜め息をついた。
「うん。大丈夫だよ」
「どうしていなくなってたんだ?」
煌貴は祥の傍らに座って訊いた。
「心配かけてごめんなさい。実は私…竜に会ったの」
「竜に!?」
煌貴は目と口を開けて驚いた。あまりの大声にクロードは耐えかねて耳を塞ぐ。
「うるせぇ!黙って話を聞け」
「…すみません」
煌貴はクロードに反抗的な視線を向けたが、祥に向き直って続きをうながした。
「美桜と山菜採りに出かけたとき…」
祥は煌貴にも分かりやすいよう、丁寧に事情を説明した。
「…それで、美月様に会いに行こうと思ったの」
祥が話している間、煌貴は食い入るように聞いていたが、最後の一言に思わず口を挟んだ。
「俺もついて行くよ」
「無理」
即答したのは祥ではなく、クロードだ。
「なぜですか!?」
場の空気が険悪になる。
「『ただの』人間は、竜のつくる異空間に侵入できない。祥でさえ、入ったら3日間も眠りっぱなしだ。竜の強すぎる気に長くあたるとよくない」
クロードの眼差しは一層鋭さを増した。祥は彼もまた竜なのだと気を引き締めた。
「でも、なぜクロード様と一緒にいても私は大丈夫なのですか?」
祥には美月と一緒にいたときのような、圧迫感がないように感じられた。
「ここは人の家だから。それに俺は疲れてるから、そこまで気が集まらない」
3日間だらだらと過ごしていたのによく言うな、と煌貴が呟いた。
「で?理解できたか?小僧。…つーか聞こえてたぞ」
竜は耳がいいんだとクロードは付け足した。
「…すみません。……分かりました」
煌貴は渋々とした様子だが、一応頷いた。
「そういえば…煌貴…私のいない間の仕事はどうなったの?」
頭がだんだん冴えてきて、祥は重要なことを思い出した。やらなければいけないことが沢山あったのに、3日間いなくなって、3日間寝てしまった。
「美桜がたまたま休みだったから代わりにやってくれたよ」
「…申し訳ないな…休みだったのに」
それに、さらに気がかりなことといえば、周りの人達のことだ。きっと悪く言われているに違いないと、祥は憂鬱になった。
「それに、また美月様のところに行くとすると、また仕事が出来なくなっちゃう…」
その言葉でクロードは呆れたような顔をした。
「仕事がそんなにしたいのかよ。ババア共がサボりたいが為にお前に仕事を押しつけてんだろ。本当面倒だな」
煌貴もそれについてはクロードの言葉に頷いた。
「祥は仕事のし過ぎだよ。父上に事情を話せば休みなんて簡単にとれるんだから」
「たまには反抗したっていいんだよ。言いなりにばっかなって、お前って阿呆か?」
煌貴に賛同してもらって嬉しかったのかは知らないが、クロードはまた口調が荒くなってしまった。今度は、祥と煌貴2人に睨まれる。
「阿呆でごめんなさいね」
祥は、またクロードから団子を奪い取った。
「おまっ…!俺の団子だって何度言ったら分かるわけ!?」
「阿呆だから分かりません」
クロードは悔しそうに歯を食いしばり、祥と煌貴は顔を見合わせて笑った。
祥は無意識に、何かが変わっていくと予感した。もちろん、未来には懸念が沢山ある。しかし、明るい兆しも見えた気がした。
その後、祥は不在の訳を煌雅に話した。そして、また美月に会いに行くので数日間の休みが欲しいと頼んだ。
「そうか…そんなことがあったのか…。禮の生い立ちは私も知りたいと思っていた。皆には休みをとったと知らせておくから、行ってきなさい」
煌雅は決して優しいわけではないが、話せば分かってくれる人物だった。
「ありがとうございます!」
本当は煌貴が一緒に頼むと言ってくれていたのだが、祥は断った。
「これは私だけの問題だから」
いつも虐められていたときに助けてくれた煌貴にこれ以上頼るわけにはいかない。自分で努力するべきだとクロードが教えてくれたからだ。
そして、不在のときに代わりに仕事をしてくれていた美桜に、祥はお礼を言いにいった。
「ごめんなさい…休みだったのに、私の代わりをしてくれて…。ありがとう」
すると、いつも気丈な美桜が涙ぐんで言った。
「そんなことはどうでもいいの。それより、大丈夫だったの?心配したんだからね!!」
どうも、こう大袈裟に心配されると祥は辛かったこともそこまでではないと思ってしまうようだ。
「大丈夫だから!ごめんね、心配させちゃって。明日からは休みをとってクロード様の案内をすることになったの」
休みの本当の理由を話すわけにはいかないので、皆にはそう知らせてある。
「あら、もうそんなに仲良くなったの」
その言葉で美桜の先程までのしおらしい様子は消え去り、表情は意地悪な微笑みに変わった。
「…団子を奪い合う仲…くらい?」
下手に否定すると要らない探りを入れられるのは目に見えているので、祥はそう答えた。
「あぁ、それは素敵ね」
美桜は予想した答えが返ってこなかったらしく、すこしがっかりしていた。
「まぁ、せっかくのお休みだし、楽しんできて」
休みを楽しめなかったはずの美桜から言ってもらうのは少し心が痛んだが、祥はその思いやりが嬉しかった。
翌日…。祥は狗や狛と出会った山へとクロードを案内した。
「確かに竜の気配がするな」
祥は少し不安になった。また狗狛が出てきてくれても、怒っているかもしれない。美月の機嫌を損ねてしまったら、大変なことになる。
「人間ほどこだわる生き物じゃないぞ…。獣も竜も」
「なんで分かるんですか…考えてること」
クロードは高い木を見上げながら言った。
「竜だからだよ。人にはない力がある」
クロードは昨日とうって変わって、威厳ある表情をしている。
「…そうですか…。あ、多分ここら辺です。狗と狛に会ったのは」
しかし、周りには誰もいない。祥はさらに不安になった。
「心配しなくてもいい。近くに来ている」
え?と祥が聞き返そうとしたときだった。
「あ、見つけた」
少年の声が森に響いた。
声のした方を見つめると、そこには山伏装束を着た少年がいた。
「誰?」
すると、少年は悲しそうな顔をした。
「分からない?」
祥は困って少年を見つめた。
長めの橙色の髪を後ろに垂らし、黄色いつり目が祥を見返す。
「狗…?じゃ…ないよね…?」
髪や瞳の色、悪戯っぽい表情は確かに狗に似ているが、前会った狗はまだ小さく、しかも女の子だったはずだ。
しかし、目の前にいるのは少年。祥と同い年くらいで、煌貴より背が高い。
「酷いよ祥…。僕、狗だよ?」
「…えっ?」
軽やかな足取りで、少年は祥に駆け寄った。
「忘れないでよ。僕は獣なんだから、化けるのは自由なんだよ」
祥にこれでもかというほど顔を近づけて、少年は言った。
「じ…じゃあ…今は男の子に化けてるということ?」
「違うよ?巫女装束も女の子の姿も可愛いから好きだけど、祥が抵抗したら無理矢理にでも連れてこようと思って、年相応な本来の性別の格好になったわけ」
無邪気な笑顔を見せる狗だったが、何となくその笑顔が祥には恐ろしく感じられた。
「ごめん!分かったから!離して…」
「祥っていい匂いだね。美月様ほどきつくない匂い」
祥が拒んでも、狗には離す様子がない。
「そういえば狛は?狛はどうしたの!?」
なんとか狗を引き剥がそうと、祥は話をそらした。
「狛は渡来の竜様に驚いて、そこらへんで隠れてるよ」
狗は満足したようで、やっと祥から離れた。
「狛!大丈夫だから出ておいでよ!竜様は別にお腹は減ってないよ」
「…狐を喰う趣味はないだけだよ」
狗が祥にくっついている間も、無言で辺りを見回していたクロードが、一点を見つめて言った。
すると、そこから狛が出てきた。狛は、狗と違って見た目は前のままだ。
「狛は本当に女の子だよ。小さいときに人間に狩られかけて、瀕死のところを美月様に助けられた。狛が懐いた人間は禮だけだよ。きっと、祥にも懐いてくれるよ」
狗は狛に聞こえないように、祥にそっと耳打ちした。
狛は最初はおどおどしていたが、クロードに一礼してから祥に駆け寄った。
「………おかえり」
狛は小さな声で祥に言った。
「ほらね」
狗は祥に笑いかけた。
「狛ちゃん、この前は逃げたりしてごめんね」
祥は屈んで、狛と目を合わせた。
「………」
髪につけた鈴が凄い勢いで鳴るほど、狛は首を横に振り、その場から逃げて、ふっと消えてしまった。
「照れてる。美月様のところに行っちゃった。僕たちも行かないと、美月様がお待ちかねだ」
狗は、祥とクロードの手を取って引っ張った。
すると、場の雰囲気が変わった気がした。
「あ…ここだ…」
「ああ…『気』が強い。さすがだな」
クロードが感心したように呟く。
「遅かったねぇ」
そこにはあの時と変わらない、美月の姿があった。
クロードは美月に向き合うと、地面に跪いた。
「遅い挨拶、誠に申し訳ございません」
あのクロードがそんなことをするとは思わなくて、祥は驚いた。
美月は探るようにクロードを見て言った。
「随分若い竜だねぇ…。大陸の生まれか…」
祥には、美月とクロードは大して変わらない年に見えたが、何事も見た目で判断しないようにと、祥は努力した。
「なぜ、この国に来た?かなり疲れているようじゃないか。竜の姿に戻ることもできずにいる」
クロードがそんなに疲れているとは、祥は気づかなかった。
美月の質問にクロードは苦い顔をして答えた。
「…大陸では、人間の文明はかなり進んでいました…。俺はそれが許せなかった。進めば進むほど、破滅に向かうだけだ」
「それが自然の摂理というものだ。人は忘れるから進む。長所でも短所でもある」
「しかし彼らは殺し合いをしているだけだ。俺はとめようと思ったのです」
「若いな。流れを止めることはできないのに」
「…そのときは分かっていなかったのです。だから人間と戦った。志を同じくする者達と共に」
「それで…負けたのだな?」
「はい。負けた後、大規模な竜狩りが起きました。それを指導していたのは竜でした」
「竜と竜が争うとは…世も末…といったところか」
「…そうですね。…そして俺は竜狩りに遭い、命からがら逃げてきたのです」
「なぜこの国に来たのか?」
「ここは竜が生まれ、集まる地。俺は皆さんの力を借りてでも、あいつの目を覚ましてやりたかったのです」
祥は2人のやりとりを、ただ驚きながら聞いていた。
「そなた…この平和な国に海の向こうの民を招いたのだな…。あぁ、先が思いやられる」
美月は深くため息をついた。
「しかし、起こってしまったことを嘆いてもいられないだろう。災いを防がなければ。協力しよう」
「ありがとうございます」
クロードが深く頭を下げた。
「…で、祥。そなたにも協力してもらいたいのだ」
美月が話を急にふったので、祥は焦った。
「私となんの関係があるのですか?」
今日はそれを訊きに来たのだ。
美月は近くにあった切り株に腰掛けた。少し森に風が出てきて、太陽も雲に隠れたのか、辺りが暗くなった。
「そなた…聞く覚悟はあるのだな?」
ここに祥が再びやってきたということは、覚悟があるとわかるのだが、美月は念を押すつもりで言ったようだ。
「…はい」
祥は神妙に頷いた。
「分かった。では、まず禮の親、そなたの祖母の話からしよう」
美月は美しい声で語り始めた。
‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡†
そなたの祖母、瀧は都のさる神社の巫女であった。その神社は竜を祀るところでな、実際に裏山に竜が住んでいた。いや、監禁されていた…のほうが正しいな。
その竜を瀧は助けた。そして竜と共にこの辺境へと逃げてきたのだ。
しばらくして、竜と瀧の間に子が出来た。
それがそなたの母だ。
いつしか竜は海の向こうの何処かへと去っていってしまったのだが、禮は父を尊敬していた。
自尊心も強く、賢い禮であったから、格式高い領主の館に働きに行こうと思っていたようだ。
その人離れした外見と、人間には合わない性格のせいで、辛い目にあったらしい。
私によく話しに来ていたな。禮は立ち向かうために随分強くなった。
私は哀れに思った。人と竜の間で禮が悩んでいるように見えたのだ。
竜の姿になることもできず、人として生きるには力が強すぎる。力が強すぎれば疎まれる、避けられる。
禮は自分を否定する里や里の人々のことが嫌いだった。だから都に行ってみたのだと思う。
都に行っていた間のことは禮は教えてくれなかったな。帰ってきてから禮は変わったから。でも帰ってきた理由は教えてくれた。
『都は憎悪渦巻く場所だった。まだ田舎の狭くて古くさい雰囲気のほうがマシかもしれない』
だなんて笑いながら言っていたな。
母になると変わるのかもしれない、私は分からないが。穏やかになったかもしれないな。若き頃の激情を心の奥底に鎮めたようだった。決して弱くなったわけではない。
死ぬまで禮は祥のことを心配していたよ。自分のせいで娘を苦しめることになるだろうと。
祥には謝っても謝りきれない。どうかせめて強く生きてほしいと禮は言っていた。
これだけはどうしても祥に伝えなければならないと、この竜を探すついでに祥も探していたのだよ。
さあ、何故祥が『災い』に関係があるのか話さなければいけないね。
瀧が勤めていた都のさる神社には、人と竜が共に生きていたときの名残がある。
竜の祖である『最初の竜』が持っていた玉が奉られているのだ。
それは我々竜の力を増幅させるのにとても重要なものでな。
しかし、人と竜の関係が稀薄になった今、玉は人の手に移り封じられている。
祥の役目は玉を我々のもとに持ってくることだ。
あの社は一度竜が入ると閉じ込められる仕組みでな…。禮も玉を取り返そうとしたようだが、出るのに苦労したらしい。
で、適任は祥しかいないということになったのだ。竜の力がある程度残っているそなたなら玉も素直に戻ってきてくれるだろうし。
どうだ?やってみないか?頼みの綱はそなたのみだ。
この国の命運がかかっているかもしれない。
†‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡
「祥?」
美月が祥に呼びかけた。祥は答えられなかった。
憎く思っていた母の、信じがたい真実に戸惑っていたし、愛情に触れた気がして悲しく切なかった。
祥には自分が竜の血縁だということは、あまり驚きがなかった。実感もわかないし、自分は人間だと分かっていた。
ただどうしたらいいかわからなくなってさめざめと涙を流した。しかし今は竜が目の前にいる。祥は急いで涙を拭いた。
「…す…すみません」
「気にするな。私は涙など流したことがない。羨ましい限りだ」
美月は満更でもない様子で微笑んだ。狛が足元にきて心配そうに見つめてくる。
「狛…大丈夫だよ。美月様、ありがとうございました。私は前より母様を誇りに思って生きてゆけそうです」
祥は深く頭を下げた。
「礼には及ばない。ただ私の記憶を語っただけなのだから。…それより答えを聞きたい。協力するかしないか」
先ほどの優しい表情とは打って変わって、美月は鋭い表情になった。
「……もし竜が負けたらどうなりますか?」
「それはない」
クロードが強い口調で即答したが、美月がキッと睨んだので、口をつぐんだ。
「遅かれ早かれ、竜は人に負け滅びる。この国は渡来の民に占領される。しかし、我々竜はこの国を護りたい。だからなるべく終わりを遠ざけようと戦う。所詮竜も人と同じだ…」
美月は自嘲気味に微笑んだ。その表情が祥の心に響いた。
『でも、協力したら私は人として生きていくことができるのだろうか…』
祥は、煌雅邸で働く生き方しか知らない。あまりに人離れした生活をしたら戻れなくなる気がした。
「心配するな。そなたは人だ。人が竜として生きることも竜が人として生きることもできない」
美月が祥の心を読んで答えた。
「…それは祖父にも言えることなのですか?」
祖母と母を置いて何処かへ行ってしまった祖父である竜はそうであったのではないかと祥は考えた。
「沃のことか…。まあそうだな。長い間神社で人と共にいたせいで辛くなってしまったのだろう」
『沃』という言葉を聞いた瞬間、クロードが顔色を変えた。
「沃…ってもしかして…浅葱の鱗の竜ですか!?」
「…そうだが、それがどうしたのだ?」
美月の怪訝そうな顔とは反対にクロードは目を丸くして、驚きを隠せないようだった。
「…沃は、共に人間と戦った仲間です」
「お前には沢山仲間がいるのだな。竜らしくもない。…で、沃は生きているのか?」
美月の問いに、クロードは瞳を曇らせた。
「沃は人間を味方する者とも俺達とも肩入れしない中立派でした。沃には竜が負けることが分かっていたのでしょう。なるべく死ぬ竜が少なくなるようにと俺達の仲間になったのです」
「で、死んだのか」
「…はい」
森に冷たい風が吹いた。
「…生きとし生けるもの、みな死から逃れられぬ。たとえそれが竜だとしても」
美月が溜め息をつきながら言った。そして空を見上げる。
「…外では大分時間が経ってしまった。帰った方がよいな」
美月につられて祥も空を見たのだが、ここに来てから現実の世界でどれくらい時間が経ったのか分からなかった。
「狗狛、見送りを」
美月が狗と狛に呼びかけると、2人は祥とクロードの横についた。
「では此度の件、協力の依頼はそなたがするのだぞ、クロード」
「はい」
クロードは深く一礼した。
「祥、頼んだぞ」
「…はい」
なんだかとんでもないものに巻き込まれてしまったと、今更祥はぼんやりと思うのだった。
‡†‡†‡†‡†‡†‡†‡†
「祥」
狗と狛から別れて、森から煌雅邸へ帰ろうと急いでいるところで、クロードが不意に祥に話しかけた。
「俺はあの時、負けたら沃の言っていた里に行こうと思ったんだ。で、ここに来た」
祥は無言で頷いた。
「お前は沃に似ていないけど、やっぱり懐かしい匂いがする。会えて良かったよ」
こちらでは何日経ってしまったか分からないが、今は夜だった。
「煌雅のところに行くまでは寝るなよ。寝たら置いていく」
クロードにそう言われたが、祥はかなり疲れていた。意識を留めているのもやっとだ。
「…準備が整い次第、俺は各地の竜に協力を頼みに行く。お前は都へ行け」
また祥は無言で頷いた。
「聞いてる?」
クロードは祥の両頬を引っ張った。
「くろーほはま…いたいれす」
祥の苦し紛れの反抗はクロードに笑われて終わった。
「笑うなんてひどいじゃないですか!」
「すまない。そうだ!様付けは止めてくれないか?なんか友人の孫に様付けで呼ばせるのは申し訳ない」
すまないと言いながらクロードは笑った。
「…え、いいんですか?では、クロードさん…?」
「ああ、そうだな」
クロードは軽く微笑んで下弦の黄色い月を見上げた。
「漆黒なる…月の光…」
祥にも聞こえないくらいに、クロードは小さく呟いた。
「え?」
祥が聞き返すと、クロードは瞳を閉じた。何かを思い出しているかのように。
「美月殿が言っていたな、俺は仲間が多すぎて竜らしくないと」
「らしくある必要はないと思います」
「…竜は群れで生活しないんだ。群れで生活していたらいつか諍いが起きる。前も実際に起きたからな」
月は世界を青く照らし、ただ静かに藍色の空を漂っている。
時は過ぎ、やっと煌雅邸が遠くに見えた。
「そういえば、クロードさんは人間が好きではないのになぜ煌雅様のところにいらっしゃるのですか?」
祥は不意に、異国の人間について語っているときの、クロードの憎しみのこもった表情を思い出した。
「好きじゃないだなんて言ってない。だが気に食わない。人と竜は相容れないからな…」
すると、クロードは煌雅邸をまっすぐ見て言った。
「…この国の人間は自然と共生しているし、それでいて自然を畏れ敬っている。だからいくらかマシなんだよ」
「…そうなんですか」
異国の民はそこまで恐ろしいものなのか、と祥はぼんやりと思った。
「なあ、前から気になっていたんだが、あの花は何という花なんだ?」
不意にクロードが遠くを指差した。その先には、煌雅邸で咲いている桜があった
「あの桃色の花ですか?…あれは桜です」
祥が答えると、クロードは瞳を輝かせた。
「あれが桜か!沃が好きだと言っていたな」
その無邪気な表情に、祥は彼が竜だということを忘れそうになった。
「なる程…奴の言うとおり、桜と月は合うのだなぁ」
クロードは1人で感心している。
「祖父はなんと言っていたのですか?」
「ん?沃はな、俺を『漆黒なる月の光』と例えたんだ。髪も目も金色でまるで月の光のようだが、中身はとんだ性悪だって。でも故郷の桜とはきっと似合うだろうって言ってたんだよ」
懐かしむように笑うクロードを見て、祥は思わず笑ってしまった。
「あまり褒められてないですよね」
「奴とは相性がいいから、許す」
孤高の存在であるという竜の印象からは少し遠いクロードの表情は、どこか温かいものを感じさせた。
とうとう煌雅邸の門が近づいてきた。
「もう少しで着く。…祥…お前が大丈夫なら、すぐ煌雅に説明して旅の準備をしたい」
クロードは表情を固くして言った。事は一刻を争うと、遠まわしに告げている。
「煌雅様に説明するのは多分大丈夫ですけど、さすがに数日休まないと動けません…」
「そうか…。戦いはいつ終わるか分からない。だからここに戻るのもかなり後になるかもしれない。だからそれなりの覚悟を決めろ」
美月の元を離れて、改めて冷静に考えると、とんでもないことに関わってしまったと祥は気づいた。
そして、大切な友人達と離れなければいけなくなる…とクロードが沃の話をするたびに、煌雅邸が近づくごとに強く思うのだった。
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「それで、どうだったのですか?」
煌雅は心配そうに尋ねた。隣の煌貴も早く話が聞きたいと焦っている。
祥は一旦寝ると数日は起きてこられないと考えたので、2人は帰ってからすぐ煌雅に事のあらましを伝えることにした。
幸運にも、夜はそれほど更けていなかったようで、煌雅はまだ起きていた。煌貴は眠っていたのだが、祥が戻ってきたという知らせを聞いて飛び起きていた。
「母の生い立ちを知りました。そして何故私が『災い』に関係があるのかも知りました。だから私は『災い』から暁桜ノ国を守るために竜に協力しようと思います」
祥ははっきりと宣言した。煌貴は驚きの表情を露わにし、煌雅の表情は煌貴ほどではないにせよ、明らかに驚いていた。
「本気で言っているのか!?よく考えたのか!?」
煌貴の声が静かな夜に響く。
「止めなさい煌貴。祥なりの考えがあるのだ。しかし、私は禮からそなたを預かった身。それなりの理由を教えてほしい。親代わりとしてそなたを危険な目にはなるべくあわせたくないのだ」
煌雅が祥を真っ直ぐ見た。
『何から話せばいいのだろう』
祥は少し戸惑った。どれも重要で話すのに勇気が要る事実だったから。
「私の祖母が」
「いや、そなたの生い立ちは…やはり聞かない」
「え?」
禮が竜と人の間の子で、祥自身にも竜の血が流れていると、祥は勇気を出してうち明けようと口を開いたのだが、煌雅は慌てたように引き留めてしまった。
生い立ちを知りたいと言っていたのは煌雅だったはずと祥が訝りながら彼を見ると、煌雅は珍しく狼狽えながら弁明した。
「いや、私が禮の口から直接聞けなかった事実を知ることが…なんというか辛いのだ」
傍らにいる煌貴もきょとんとした顔で煌雅を見た。
「昔、禮の生い立ちを知ろうとしたら止められたのだ。私は彼女の触れてほしくない話題を遠慮なく質問してしまったからな…。多分私には彼女の真実を知る資格はないのだ」
完璧そうに見える煌雅だって、過去の失敗があるのだ。
「だから、生い立ちを抜いて話をしてほしい」
「…はい」
その言葉に祥は少し戸惑った。まず何から話せばよいのだろうと。思わずずっと黙っていた隣のクロードを見た。
「異国の軍隊が海を越えてやってくる。俺はそれを阻止しようとこの国の竜に頼むつもりだ」
クロードは鋭い眼差しで煌雅と煌貴を見つめた。
「都に竜を神として祀る神社があるらしい。そこに竜に力を貸してくれる宝玉があるそうなのだが祥にしか取りにいけない。だから祥は都に行く。それで納得したか?」
有無を言わせない速さでクロードは語った。
「祥にそのような力が…?」
煌雅も煌貴も唖然としている。真実を伝える必要はなくなったのだが、何も知らない2人に隠し事をするようで祥は辛かった。
「美月様がおっしゃっていたので間違いはないと思います。私にしか出来ないことなら、母がしようとしたことなら…私も協力したいのです」
煌雅は固い意志を表した祥をひたすら見つめた。
「…分かった…。しかし私はそなたを解雇せねばならぬな。本当によく頑張ってくれた…。そなたが安全な旅が出来るよう、なるべく手伝おう」
「…ありかとうございます」
祥は深々と頭を下げた。
「出発のためにしっかり休むといい。クロード様も」
「ああ、今まで本当に世話になった」
祥はふと煌貴を見た。彼はただ押し黙って俯いている。前髪の隙間から険しい眼差しと食いしばった口元が垣間見えた。
「煌貴…」
彼の様子に、祥は少し心配になった。祥が顔を覗きこもうとすると、煌貴はがばっと顔を上げて言った。
「父上!!俺も行かせてください!」
「駄目だ」
煌雅は厳しい表情で煌貴を牽制した。
「…っ。しかしっ!」
「煌貴、お前は次の山路ノ領の領主なのだ。しかしまだまだ未熟すぎる。まだお前には学ばねばならないことが沢山あるのだぞ」
煌雅の声は決して荒げられたものではないが、語りかけられてはいない祥でさえ身を竦めるような威厳に満ちた声だった。
「………」
煌貴は恨めしそうな顔をしていたが、拳を握り締めると、すっと立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
「…私も若い頃はよくああやっていたものだ…」
煌雅は煌貴が出て行くのを目で追わなかったが、苦笑しながら呟いた。
「なるべく早く出発したい。祥、しっかり休んでおけよ」
クロードはこれだから人間は…と言いたげにため息をついて言った。
「…はい」
本当は煌貴を追いかけていきたかったが、祥は体力の限界を感じたので寝床へ向かうことにした。
何しろ長旅になる。過酷な旅だ。
『煌貴は大丈夫だろうか…』
布団に倒れ込む前、祥はふとそんなことを考えたが、瞳を閉じたら吸い込まれるように眠りについた。