輝屋敷、生き物の思い出
私は生き物が好きだ。
幼い頃には、通学路で見つけたコウモリを素手で触ったこともある。それは退屈な日常で見つけた、私だけの宝ものだった。
退屈な学校に着けば、壁下に張り付く糸袋を探した。
糸袋から出てくるタランチュラのような地蜘蛛を見たとき、――日本にもこんな海外みたいな虫がいるんだ――と、大きな感動を覚えた。
幼い私にとって、生物の世界は『ファンタジー』そのものだった。
つまらない学校生活の側に、いつでも異世界の扉があるということに、私はとてもワクワクした。
◇
生き物が好きな人の中には、「目の前にいる生き物は、いつからこの場所に住んでいるのだろう?」という疑問に、手を伸ばしたくなる人間がいる。
この疑問は、とてもシンプルで残酷な問いだ。
なぜなら、日常で触れる生き物たちは、自分が生まれる前から存在していたであろう、土地や森林、小川や青空などの、生物居住区である『屋敷』で生活している。
「いつから住んでいるのか?」という問いの答えを得るためには、土地や森林などの『屋敷』が作られてゆく過程に立ち会い、その屋敷に生き物が入居していく様子を観察しなければならない。
私は幸運にも、生き物たちが暮らす『屋敷』が作られていくのを見たことがある。
今回は、その輝かしき「屋敷と私の思い出」について語ろうと思う。
◇
私の実家の近くには廃団地があった。人は住んでおらず、弾けた洗濯バサミの欠片だけが、過去に住んでいた人たちの息遣いを感じさせた。
壁に描かれた落書きの下では、野良猫が大量に屯し、居場所を失くした人間や廃棄された自転車までもが、その廃団地には溜まっていた。
街灯も途絶えたその空間は、土壌そのものが腐敗しているようで、奇妙な街に住んでいる私から見ても、とりわけ異質な場所だった。
ゆえに、その廃団地は、全てが取り壊されることになった。
◇
春が終わる頃、廃団地は跡形も無くなった。
野良猫も自転車も、蠅が集っていた草木たちも、綺麗さっぱりなくなった。
建物が建っていた場所には大きな窪みが現れ、オレンジ色が混ざった茶褐色の土たちが、その窪みをぐるりと囲っている。
私は団地が建っていた場所をまじまじと眺める。
初めて経験する、街の一部の消失だから。
どんよりした空気の足元に、車が20台は停められそうな窪みが複数ある。草木も生えていない。
あるのは、土に取り込まれながらも空を指差す小石くらいで、粘っこい土のニオイが春の終わりを告げていた。
◇
ある時期に、激しい雨が何度も降った。窪みに溜まった雨水は、降り注いでくる今日の自分に何度も打ちのめされている。
私は窪みの縁に立っていた。
とくに何かしたかったわけではない。
ただ、その窪みには誰も近づかないことを知っていただけだ。
雨が止み、アスファルトに陽炎が見え始めるころ、雨水が大量に溜まった窪みは、周囲へ強烈な湿度を放ちはじめた。
私は窪みの淵に立ち、溜まった水を眺める。
無色透明の透き通った水だ。
――土があるのに、水が綺麗なままなのは何でだ?――と考えていると、雨も降っていないのに、水面に波紋が現れ、それが何個も重なってゆく。
私は波紋の主を目で探した。
アメンボだ。
ついこの間までは、居なかったはずだ。
どこからやってきた?
そんな好奇心が首をもたげ始めると、私は他の窪みにも、アメンボが現れているのかを確認したくなった。
靴底にはオレンジ色の土がべっとりと付いている。私は綺麗に舗装されたばかりのアスファルトに、オレンジの足跡を残しながら、他の窪みのアメンボを探しにいった。
◇
大きな窪みは全部で6つあった。
その6つの内の4つに、アメンボが9匹いた。
本当に、どこからやって来たのだろう。
近くに川は無いし、田んぼや水路もない。カエルの鳴き声はおろか、セミの鳴き声すら聞こえない。
私はアメンボたちを毎週観察することにした。
6つの大きな窪みにやって来た、9匹の小さな命の行方を知りたかったから。
正直に言うと、毎週アメンボを見に行くのは憂鬱だった。
1つの窪みは、車が20台ほど停められる広さがある。それに対して、アメンボは1cmにも満たない。
その圧倒的な対比は、ゾウに挑むアリのようで、アメンボと同じ小さな命である私に、自然への畏怖を抱かせた。
そんな憂鬱な私の気持ちとは裏腹に、9匹のアメンボたちは、その数をどんどん増やしていった。
――そればかりではない。
窪みには大きな変化が起きた。
いつの間にか、「ミズスマシ」と呼ばれる小さな黒い生き物が水の中で泳ぎ回っているのだ。
まるで、始めからずっとそこで暮らしていたかのように、忙しなく、そして悠々(ゆうゆう)と水面を泳いでいる。
私はアメンボを尻目に、ミズスマシを追いかけた。
ただの窪みに雨水が溜まり、そこにアメンボが現れた。それだけでも不思議なのに、2種類目としてミズスマシが現れた。
ただ図鑑を眺めて、生き物の住む世界を想像することしかできなかった幼い私からすると、その窪みの変化は、夢にみた『ファンタジー世界への扉』そのものだった。
◇
それにしても変だ。
毎週、アメンボを見に来ていたはずなのに、ミズスマシのような黒い球体が、水中を動き回っていることにまったく気が付かなかった。
どこからやって来たのだろうか。
ミズスマシは6つの窪みの内、隣り合った2つの窪みを泳ぎ回っていた。ミズスマシはアメンボより動き回るから、その正確な数は分からないが6匹はいたと思う。
窪みの淵で裸足になり、ぬるい水に入ると、泥のようなヌメリと、指の間に粘土がグニャリと挟まっていくような感覚があった。
視線をミズスマシの方へ戻すと、さっきまでそこにいたミズスマシたちは、1匹残らず姿を消していた。
そもそも、私が水に入って追いかけたとしても、水やヌメリに足をとられて、ミズスマシの機敏な動きについていけない、という発想が無かった。
何の成果もなく泥にまみれた足先を、どうするのか悩んでいると、立ち尽くす私の横で、アメンボたちがスイスイと通り過ぎていく。
◇
ミズスマシは、アメンボのように大きく数が増えることは無かった。
アメンボは1つの窪みに、数匹から10匹以上に増えているというのに、ミズスマシの数に変化はなく、相変わらず、隣り合った2つの窪みの中で泳ぎ回っている。
そして私は気づいた。
ミズスマシが生息している窪みには、微妙な変化が起きている。他の窪みより、雑草が広い範囲で生えている。
ミズスマシが生息していない窪みの周りには、窪みを囲う土とアスファルトの“境目”に多くの雑草が生えている。
その一方で、ミズスマシが生息している“窪みを囲う土”には、触ると手が切れる雑草や、紫やピンクが混ざった三つ葉のような雑草が、いたるところに生えていた。
◇
アメンボやミズスマシを追いかけ続ける日々を送っていると、「次はどんな生き物が住み着くのか?」という気持ちが膨らんでいった。
持っていた生き物の図鑑を眺める。
そこには、カエルの血を吸うタガメや、お尻で呼吸するミズカマキリ、卵を産むカエルがいた。
私は、その3つの内のどれかが現れるといいな、と期待に胸を膨らませた。
タガメは、カエルを食べる“虫”で不思議な生き物だ。
ミズカマキリは、ポケモンのように“水・虫タイプ”でカッコよかった。
カエルは、ハリー・ポッターに出ていた、という単純な理由で親しみを感じた。
ある日。
いつものようにミズスマシを探していると、鮮やかな緑を放つカナブンが、淵に近い場所でぷかぷかと浮かんでいる風景が目に入った。
おそらく死んでいる。
カナブンは触ると変なニオイが手につく。
だからあまり好きではなかった。
けれど――カナブンが放つ宝石のような深みのある輝きは、子供心からすると、どうやっても抗えない強烈な魅了魔法だった。
私は0.5秒ほど悩むと、迷いや躊躇いが微塵も感じられない足取りで、カナブンの浮かぶ場所に向かい始めた。
◇
カナブンを視界に捕え、窪みの淵を歩いていると、突然、土がグニャリと曲がり、バランスを崩してしまった。
水面に私の足が叩きつけられる。
顔にヌルい水が飛んできた上に、片足だけが濡れている、というアンバランスさが、その体験の不快感をさらに強める。
顔を上げてカナブンを見る。
――いない。
さっきまで、すぐそこで浮かんでいたのに。
私は周囲を見回した。
やはりどこにもいない⋯⋯。
――いや、あそこにいる。
水中を泳ぎ回る緑色のカナブンが、少し離れた場所で元気そうに動いている。
私はあれを知っている。
「ゲンゴロウ」と呼ばれる生き物だ。
私は目の前で泳いでいるゲンゴロウに、アメンボとは異なる力強い生命の在り方を見た。
それは空を飛ぶ鳥のように、人間にはどうにもならない自然を自分の住処として選び、生き残ってきた生き物たちの、ありのままの生命だった。
――足首に感じるヌルい水位は、明らかに下がってきている。
◇
窪みにできた水生昆虫たちの『屋敷』は、夏の気温によって呆気なく崩壊した。
大きな窪みに大量の水が溜まった様子は、永遠の湖の始まりを目撃している、と私に錯覚させた。
しかし、雨によって溜まった水は、どこまでいっても“水溜まり”に過ぎなかった。水生昆虫たちが選んだ屋敷は、「蒸発」という自然の摂理には、まったくの無力だった。
私は水生昆虫たちが暮らしている屋敷が、干上がっていく様子を何度も見に行った。
私にとってあの場所は、都合の良い遊び場ではなく、生き物の世界へ行くための扉が開かれた「ファンタジー世界への入り口」だと思っていたから。
散々触れた異世界が消えてゆくのに知らないふりは、なんだか悪いことをしているように思えた。
一番最初に干上がったのは、ミズスマシやゲンゴロウがいる、雑草がいたるところに生えた2つの窪みだ。
不思議と、ミズスマシやゲンゴロウたちの死体を見つけることはできなかった。きっと⋯⋯逃げたのだと思う。
頼りない小さな雨粒が、今にも消えてしまいそうな水面に優しく触れると、アメンボは足を動かして、私の目が届かないどこか遠くへと消えていく。
私は小さな雨粒にすら怯えて傘を差しながら、自分の大切な場所が、目の前で消えてゆくのをずっと見つめていた。
親しみを感じた場所が消失するのは、これが2回目だった。
◇
今では、私と生き物たちの輝かしい思い出の地、『輝屋敷』には綺麗な住宅が並んでいる。
その見栄えや購買意欲をデザインされた極めて文化的な住宅からは、野良猫や不良が屯し、水生昆虫たちの屋敷が建ちあがるような、『文明の裂け目』があったとは、到底、想像がつかない。
その情景を覚えている私ですら、自身の記憶の創作を疑ってしまう。
私は現代の文明を批判しているわけではない。
ただ、自分の踏みつけている足元にも、きっと誰かの輝かしい思い出があるのだろうな、と思いながら今日を歩いている。
本当に、ただそれだけだ。
【あとがき】
私がよく渡る横断歩道にはカラスの体液が染みている。
それはとても汚いものだが、私は素直に「汚い」と言えない。その体液にも物語があることを知っているからだ。
◇
車通りの多い道路で、1羽のカラスが何かを引っ張っている。カラスの死体だ。顔が潰れているからなのか、アスファルトに粘着質なへばりつきをしている。
必死に引っ張るカラスは、脇を走り抜けてゆく暴走車を気にせず、懸命に引っ張っている。だが、道路と横断歩道の境目にへばりつくカラスの死体は、羽は動けど、位置はズレない。
カラスは賢い生き物とされている。個体差はあるのだろうが、都市に暮らしているカラスは、そこにある危険を知っているはずだ。
とくに、自分たちの身体より大きく、轟音をたてて走り抜ける「車」の危険性、それが走る道路が持つ致死的リスクは、本能や後天的学習によって、避けるべきものとしてある程度の理解をしているはずだ。
それなのにそのカラスは、自分の身を危険にさらしながらも、動かなくなったもう1羽のカラスを引っ張っている。
私はその光景を見ていると、人間の共感的視点として、そのカラスの行動に愛情や友情が含まれている、と感じずにはいられなかった。
人の感性として、自分の命をかけてでも誰かを助け、何かを守ろうとする姿は、最上の尊さを感じさせる。
私はそのカラスに、最上の尊さを感じた。
横断歩道を渡り始めると、2人の学生がカラスたちに気づき、「えー、キモーい」と言って身を寄せて歩くようになった。
しかし、「キモい」という負の感情によって、とっさに相手へ身を寄せるその行動と、死体を引っ張るカラスの様子は、「誰かが自分の側にいてくれることに、頼っていた」という点で共通している、と私は感じる。
私も人に頼らなければ生きていけない1人の生命体だ。
だから、歩道という人の文化に染みたカラスの体液を、単なる異種族による汚れとは、到底思えない。
そこに、命をかけて何かを成そうとした物語があることを知ってしまったからだ。




