レクイエム・抄
5ちゃんねる創作文芸板小説コンペにこの作品で参加します。
「おい、おれは業界最高の営業マンだぞ」
紹興酒で気分が良いのか助手席の父が言う。また始まったかとうんざりした気持ちになる。
中華街の老舗でコース料理を食べ、帰路は私が運転している。車窓にはみなとみらいの夜景が流れている。巨大な観覧車がゆっくりと回り、竣工してまだ日が浅い横浜ランドマークタワーがそびえている。
「あのビルは日本一高い。あそこではうちの床材が最も多く使われていて、それを売り込んだのはおれだ。即ちおれは最高の営業マンである」
観覧車や高層ビルの灯りが滲んでいる。紹興酒は私にも効いているようだ。
後部座席には弟夫婦が座っている。新婚の嫁さんの希望でベイエリアを巡ってきたが父の独演会が始まってしまった。
嫁さんが白けた気分にならないか。私はバックミラーに映る後部座席を窺いながらハンドルを操作し、首都高速みなとみらいICから東京方面に向かった。
葬儀は御茶ノ水駅からほど近い教会で執り行われた。喪主は父であったが進行は葬儀業者の担当が黒子のように動いて滞りがない。
母方の親族が通う教会の牧師とここの牧師が懇意であるらしく、師走の暮れも押し迫ったこの日にここが使えるようになったようだ。
出棺の時、三百人を超す参列者を前にした父の挨拶は拙かった。洋式の霊柩車と親族を乗せたマイクロバスはクラクションを鳴らしながら教会の敷地を出て火葬場に向かった。
母は白血病に罹り、肺癌も併発して二年の闘病の末に逝った。五十代半ばでの死であったから「早い」と云う人が多かったが、人の死の事情は千差万別である。
母はADHD系の発達障害を持っていたように想う。その根拠として最も大きいのは金銭の管理が出来なかったこと。
私は昭和三十三年の生まれで、育った時期は戦後復興から高度成長への流れと重なる。
幼少期から引っ越しを繰り返していたが、それはサラ金や町金融からの借金が嵩んで持ち家を売ることを続けてきたから。家屋の間取りは、私が十代の半ばまでは移転する度に広くなったが、経済成長が緩むと狭くなり、都心からも徐々に遠ざかっていった。
思春期を過ぎた頃から、繰り返される引っ越しに対する疑問がわいてくるようにもなった。
債権者らしき筋からの荒々しい口調の電話や悪相の者が来訪し返済を迫るようなことも起きるようになってきていた。
この家がおかしいことは判ってくる。しかし母に問いただしても要領の得ない応えしか返ってこない。
「わたしは白い壁の部屋のベッドでゆっくり休みたいだけよ」
そんな意味不明な文言を発するばかりである。
金勘定を母が仕切ってそれが上手く回らないのであれば、父がすべきである。私はそう想ったが父は何もしない。問い詰めても「おれは被害者である」という態度を崩さない。
父は勤務先である建材メーカーでは出世したと云える。給与の他に役員報酬も得ていて、その時期には確定申告をしていた。しかし私はそれを評価する気にはなれなかった。なぜ金銭管理がままならない母にそれを押し付けていたのだろう。なぜ何十年もの間続いた東京、埼玉、千葉にまで跨る漂流を放置したのだろう。
冬枯れした街路樹が寒々しい。
私は秋葉原駅を背にして昭和通り沿いの歩道に立っていた。父の勤務場所も私のそれもこの界隈にあった。
信号が変わり反対側から父が横断歩道を渡ってこちら側へ歩いてくる。訝しそうな、何かを恐れるような表情を浮かべている。私の貌を窺うように父は言った。
「どうした? 何か用か?」
「いや、体調が悪くてさ」
「病気なのか?」
「最近よく眠れなくて。心療内科にかかっているんだ」
それから一言二言やりとりがあったが、父は財布から一万円札を四枚だして私に手渡し、その場からそそくさと去っていった。
私は湾岸戦争勃発を契機に旅行代理店のエスコート職を辞して、父の縁故で建築関係の製作金物を扱う中小企業に勤めていた。ツアーが激減して日当が稼げず暮らしが成り立たなくなったから。
転職先は大手ゼネコンの第一下請けであったが、実質的には丸投げ専門のブローカーのようなことをしていた。
丸投げであっても、むしろ丸投げであるからこそ、工程管理は必須であり、私は現場代理人としてゼネコンと下請けに挟まれた人質のような日々を過ごしていた。
ある現場のエントランスにかかる出来のわるい庇の下に自分のクルマを駐車させ監督は言った。
「おまえは泥棒か? あのデコボコの庇の発注額がこのグロリアより高いなんてことがあるのか?」
丸投げ専門だから「泥棒」は的外れではない。似たようなことが続き、私の精神は次第に壊れていった。
新橋駅から虎ノ門方面へ向かう途中にその中華料理店はあった。入店してカウンターで名前を告げると個室に通された。白いクロスが敷かれた丸テーブルには既にスーツ姿の弟が座っていた。
「兄貴、今日は何なの?」
「おれに訊かれても応えようがない。ま、察しは付くけどな」
ほどなくして父が初老の女性を伴って部屋に入ってきた。
「この人と結婚する」
義母になるであろう人は私と弟に郷里の土産を手渡した。それは竹の籠に入った最中であった。
父が重役でいた期間は長くなかった。名刺の肩書きは「専務」から「相談役」に変わり、それは退職が近いことを意味していた。
退職すると父はすぐに持ち家を売りに出した。買い手が付くと後妻の地元である西日本の都会に引っ越していった。
飼っていたつがいの紀州犬は部下に引き取らせたという。父から知らされたその住所に様子を見にいったが、犬が飼われている形跡はなかった。
「兄貴、交通費と宿泊代はおれが持つから一緒に行こうよ」
「いや、おれは行かないよ」
「なぜだよ。実の親だぜ? もう九十四歳だぜ?」
「おれは行かない」
父は今、老人介護施設に暮らしている。後妻とは上手く行っていないようで、彼女が入っている施設とは別であるらしい。
数年前まではたまに電話や葉書が来ることもあった。後妻からも金の無心や父の引取りを依頼する電話が来た。後妻は私が福祉に頼って生きている事を知っているはずなのに。
父を許せないわけではない。
母は築地の癌センターに入院したが、長い順番を早めたのは父である。生命保険は癌治療を担保するものではなく、かかった額は廉くなかったが父はそれを払った。退職金を前借りして借金の返済に充てたこともあった。
私は体質的に母から受け継いだものが大きい。今も定期的に精神科に通院している。運転免許証番号の末尾は六で、それは逸失した回数である。閏年に一度は財布やスマートフォンも失くす。外出時に施錠しない理由は鍵を失くすから。シリンダー交換は高くつくし今の住居に空き巣が入るとも想えない。
母の死後、家族は離散した。
短くない月日が経ち、私は流れ着いた多摩川の畔ほとり狛江で暮らしている。
六畳間のアパートの壁紙はオフホワイトである。
〈了〉




