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「さえない彼」との結婚ですが、私は王国一の幸せ者になりました。

作者: 九条 綾乃
掲載日:2026/04/30

 エーレンフェルス王国の王宮で開かれる、春の訪れを祝う夜会。

 広間の高くそびえるアーチ状の天井付近には、魔導師たちが精魂込めて作り出した無数の光の球がふわりふわりと漂い、まるで満天の星空のように会場を照らしている。磨き抜かれた最高級の大理石の床は、貴族たちの極彩色のドレスや艶やかな靴先を鏡のようにくっきりと映し出していた。


 会場の隅に設置された楽団が奏でる弦楽四重奏の軽快なワルツは、令嬢たちの甘い香水の匂いや、テーブルに並べられた豪奢な料理の湯気とともに、熱気となって広間の中を渦巻いている。


 誰もが未来の伴侶を探し、あるいは家格を高めるための人脈作りに奔走する、ここは華やかな戦場だ。

 そんなきらびやかな空間の中で、ヴァルトシュテッテン伯爵家の三女である私、エルフリーデ――通称エフィは、広間を支える太い大理石の柱の影にひっそりと身を潜めていた。


 上の二人の姉たちは、それはもう絵に描いたような見目麗しい令嬢で、すでに立派な家柄の貴族へと嫁いでいる。それに比べて、末っ子の私はお世辞にも華やかとは言えなかった。髪の色はくすんだアッシュブロンドで、瞳の色は深すぎる緑。性格も引っ込み思案で、ドレスを着て踊るよりも、領地の森で古い本を読んでいる方がずっと好きだった。


「エフィったら、今日も本当に地味なドレスね。華やかなお花たちを引き立てる『背景の木』って感じ。せっかく私が選んであげたリボンも、あなたのくすんだ髪色だと全然映えないわ」


 扇子で口元を隠し、取り巻きの令嬢たちに囲まれてコロコロと笑うのは、友人のギゼラだ。彼女は今日も最新流行の豪奢な真紅のドレスを完璧に着こなし、自信に満ちた態度で堂々と周囲の視線を独占している。


「……うん、ごめんなさい。でも、ギゼラが一緒にいてくれるから安心するわ」


 私は顔を引きつらせながら、なんとか愛想笑いを浮かべて小さく頷いた。

 自分に自信がない私は、こうして棘のある言葉で日常的にマウントを取られ、彼女の「引き立て役」にされても、彼女の後ろに隠れていることしかできなかった。「ギゼラ様はあんなにお美しいのに、お隣にいる方はなんだかパッとしませんわね」というヒソヒソ声が聞こえてきても、一人で壁際に立つよりはマシだと自分に言い聞かせていた。


 両親からの「お前も姉たちに続いて、早く相手を見つけなさい」という毎日のプレッシャーから逃れるためだけにこの場にいる私には、一人で堂々とここに立つ勇気など、どこを探してもなかったのだ。


「あ……ねえ、エフィ。ちょっと面白い殿方がいるわ。あなたにぴったりじゃない?」


 ギゼラが意地悪な笑みを浮かべて、私の腕を強引に引いた。彼女の視線の先を見て、私は思わず絶句した。

 そこにいたのは、この美しく洗練された空間から完全に浮きまくっている、一人の男性だった。


 着ているフロックコートはシワだらけで時代遅れもいいところ。袖口には薬品かインクの染みのようなものすら見えるし、ネクタイも少し曲がっている。髪は無造作というより、爆発したような寝癖がそのまま放置されている状態だ。

 極めつけは、顔の半分を覆うような、魔術師特有の分厚い銀縁の魔導眼鏡。レンズの奥の瞳すらよく見えない。


 どう見ても、華やかな夜会にそぐわない。迷い込んでしまった不審者にすら見えた。

 ギゼラに引きずられながら彼に近づく数歩の間、私の心の中には、明確などす黒い感情が渦巻いていた。


(うわぁ……なんて、さえない人だろう。どうしてあんな格好で夜会に? いやだ、お願いだからやめて。あんな人と私が『ぴったり』だなんて!)


 彼と一緒にされることが恥ずかしくて、惨めで、不快だった。

 私にも、ギゼラと同じような傲慢な選民意識がしっかりと根付いていたのだ。自分自身のことは完全に棚に上げて、外見だけで彼を見下し、「私より下の人間だ」と値踏みしていた。


「初めまして! 私の可哀想で地味な友人、エフィの話し相手になってくださらない? とってもお似合いのお二人だと思うの!」


 ギゼラがわざと周囲に聞こえるような声で言い放つと、近くで談笑していた貴族たちがチラチラとこちらを見て、クスクスと品のない嘲笑を漏らした。

 私は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、ギュッと目を瞑って俯いた。今すぐこの場から逃げ出したかった。


 ところが、頭上から降ってきたのは、パニックになる私の心を鎮めるような、驚くほど落ち着き払った、チェロのように深くて穏やかな声だった。


「初めまして、エフィ……いや、エルフリーデ嬢。私はアンゼルムと申します。王立魔導院で研究をしております。このような可憐な方とお話しできるとは、今宵は素晴らしい夜になりました」


 ハッとして顔を上げると、分厚い眼鏡の奥の瞳が、私を真っ直ぐに見ていた。そこには微塵のからかいも、卑屈さもない。ただ純粋な敬意だけが滲んでいた。


 ギゼラは自分の思惑通りに相手が怯まなかったことが面白くなさそうに鼻を鳴らし、わざと私にささやくように、けれどしっかり彼に聞こえる声で言った。


「ただの研究者なんですって。爵位を名乗られないのだから、どうせ家柄も大したことない方なのでしょう。でもエフィにはお似合いだと思うの。地味な者同士、ってことでね!」


 明確な侮蔑の言葉。私にまで向けられたその刃に、いたたまれなさと悔しさで泣きたくなったその時。

 アンゼルム様がスッと私の前に立ち、私を完全に庇うようにして、ギゼラの前に立った。


「聞こえていますよ、ええ。彼女の奥ゆかしい美しさと、知性を感じさせる佇まいは、表面的な派手さしか見えない者には到底理解できないでしょうね。私には、彼女がこの会場で誰よりも美しく見えます。……それでは、私たちはこれで失礼」


 静かだが、有無を言わせぬ堂々とした声。

 ヨレヨレのコートを着ているはずなのに、私の目の前にある彼の広い背中からは、圧倒的な気品と理知的な威圧感が放たれていた。

 完全に気後れしたギゼラは言葉を失い、持っていた扇子をワナワナと震わせた後、顔を真っ赤にして逃げるように去っていった。


 ギゼラが去った後、私は彼に優しくエスコートされ、夜風の吹き抜ける静かなバルコニーに出た。

 遠くから微かにワルツの音楽と歓声が聞こえる中、私の胸を満たしたのは、窮地から助かったという安堵ではなく、猛烈な自己嫌悪だった。


 なんて上品で、優しい人だろう。

 それに比べて、私は何? 外見と身分だけで彼を笑いものにしたギゼラと、心の中で「冴えない男だ」「一緒にされたくない」と彼を軽蔑した私。声に出さなかっただけで、やっていることは全く同じ。いいえ、善人ぶって彼の陰に隠れようとした分、私の方がずっとタチが悪い。


 自分の浅ましさが恥ずかしくて、情けなくて、ポロポロととめどなく涙が溢れてきた。


「あの……、大丈夫ですか。 怖い思いをさせてしまいましたか?」


 泣き出した私に驚き、気遣うように覗き込んでくる彼に、私は両手で顔を覆った。


「ごめんなさい! 助けていただいたのに、私……最低なんです。さっきギゼラに連れられてあなたを見た時、私、『なんて冴えない人だろう、一緒にされたくない』って……外見だけで、あなたを見下してしまいました。本当に、本当にごめんなさい……!」


 言い訳なんてできなかった。嫌われて当然だ。軽蔑されて、一人バルコニーに取り残されても文句は言えない。

 震える声でそう告白すると、長い沈黙が落ちた。呆れて怒って帰ってしまっても仕方がない。そう覚悟して目をギュッと瞑った時、頭上から降ってきたのは、柔らかい笑い声だった。


「ぷっ、ふふ! いや、これは驚いた。普通、そんな内緒にしておくべき黒い感情まで、初対面の相手に暴露しませんよ?」

「だ、だって、あなたがこんなに素敵な方なのに、私が酷いことを考えていたのが申し訳なくて……」


 涙声で答えると、彼は大きな手で優しく私の肩に触れた。


「正直で、真っ直ぐな人ですね。普通は取り繕う場面で、自身の過ちを素直に認め、誠実に謝罪できる。その気高さこそ、私が先ほど言った君の『美しさ』です。……ますますあなたのことが好ましくなりました」


 顔を上げると、アンゼルム様は分厚い眼鏡を外し、目尻に涙を浮かべて笑っていた。

 そして、眼鏡の下から現れたその素顔を見て、私は息を呑んだ。


 長いまつ毛に縁取られた切れ長の瞳。スッと通った鼻筋。薄い唇。

 あまりにも端正で、知的で、見惚れてしまうほど美しい顔立ちだったのだ。先ほどまでの「冴えない男」の面影など微塵もない。


「実は私、こういう場は苦手で全く興味がないのですが……母が『たまには夜会に顔を出しなさい』とうるさくて、渋々やって来たのです。新しい魔法式の実験が長引いてしまい、着替える暇もなく飛び出してきてしまって。この魔導眼鏡、私はかけていると落ち着くのですが……そりゃあ、不審者に見えますよね。君の反応は極めて正しいですよ」


 彼は照れくさそうに頭を掻いた。


(ああ……同じだ。私も、親がうるさいから仕方なく来ているだけだわ)


 近寄りがたい人かと思いきや、私と同じように親に急かされて渋々夜会にやってきたのだと思うと、なんだか急に親近感が湧いてきて。私は気づけば、自然と一緒になってふふっと吹き出して笑ってしまっていた。

 私が笑うと、彼もつられるように柔らかく微笑み、優しくウインクをした。


「もし、よろしければ……、改めて今度の休日に私の研究室へお茶を飲みに来ませんか? 君ともっとお話をしてみたい」



 ――その夜。屋敷に帰った私は、父と母を居間に呼び止め、興奮冷めやらぬままこの出来事を話した。


「アンゼルムという研究者? 家柄も名乗らんような男など認めん! 伯爵家の娘が、得体の知れない者と茶を飲むなど、一族の恥だぞ!」


 いつものように、父の怒声が響いた。

 これまでの私なら、父の大きな声にビクッと肩をすくめ、ただ俯いて「ごめんなさい」と謝っていただろう。波風を立てるくらいなら、自分が我慢すればいいのだと。


 けれど、今の私の心には、アンゼルム様が認めてくれた「誠実さ」という小さな火が、確かに灯っていた。


「お父様、聞いてください。彼は、私を、誰の『引き立て役』でもない、エルフリーデという一人の人間として見てくれました!」

「黙れ! 相手は平民かもしれないのだぞ! 貴族としての自覚を持て!」

「……もし彼が平民であったとしても、私の相手は私が決めます! 私はもう、誰かの評価に怯えて、自分を押し殺して生きる自分を卒業したいのです!」


 私が顔を上げ、父の目を真っ直ぐに見据えて言い放つと、広間に水を打ったような沈黙が流れた。

 父は信じられないものを見るように目を剥いて言葉を失い、ティーカップを持っていた母は呆然と私を見つめている。


「……エフィ、あなた。そんなに強い目をするようになるなんて」


 母がポツリと漏らした。


「いつも私の後ろに隠れて、オドオドしていたあなたが、自分の意志で誰かを選び、立ち向かおうとしているのね。……分かりました」


 母は優しく、どこか誇らしげに微笑むと、今度は隣で顔を真っ赤にして口をパクパクさせている父へと向き直った。


「ねぇ、あなた。エフィは三女ですもの。家を継ぐわけでもありませんし、貴族のしがらみで選ぶお相手ではなく、本当に好きな方と一緒になってもよろしいのでは?」


 父は、長年連れ添った母からの突然の援護射撃に、ぎょっとしたように肩を揺らした。


「なっ、しがらみで選ぶだと! ……わ、わしともしがらみで、その、なんだ、結婚したとでも言いたいのか!?」


 思いがけないところに飛び火して、少しすねたように本気で狼狽える父に、母は扇子で口元を隠してふふっと笑った。


「いやですわ、あなた。私は家の事情などではなく、あなたを愛したからこの家に嫁いだのですよ。おわかりのはずでしょう?」

「むむっ……!」


 母の甘やかなカウンターに、父はさらに顔を赤くして口ごもってしまった。威厳たっぷりの伯爵様も、愛する妻の殺し文句には敵わないのだ。


「まぁ、いいだろう。……そこまで言うなら、一度その男に会ってやろう。だが、変な男だったら絶対に許さんからな!」


 父がしぶしぶといった様子で腕を組んでそっぽを向くと、母が私に向かって内緒で小さくウインクをした。


 思いがけない母の鮮やかな手腕と、不器用ながらも私の意志を尊重してくれた父。二人の温かい後押しに、私は胸がいっぱいになった。


 こうして母の力添えもあり、私はアンゼルム様の研究室を訪れることが許された。

 王立魔導院の奥深くにある彼の部屋は、天井まで届く本棚に囲まれ、古い羊皮紙とインク、そして彼が淹れてくれる、少し不器用だけれど甘くて美味しい紅茶の香りで満たされていた。


「エルフリーデ嬢、よく来てくれましたね。さあ、そこのソファへ」

「エフィで構いません、アンゼルム様」


 初めて研究室を訪れた日、彼は少しだけ小綺麗なシャツを着て、そわそわと私を迎えてくれた。

 彼は魔法陣の解析という、私にとってはちんぷんかんぷんな研究をしているらしい。時折、夢中になって専門用語を早口で喋り出してしまうことがあったが、私がポカンとしていると「ああ、ごめんなさい! つい熱くなってしまって」と慌てて謝る姿が、なんだかとても可愛らしかった。


 その日から、私とアンゼルム様の交際が始まった。

 彼は決して私を「引き立て役」として扱わなかった。


「この魔法陣の光、君にはどう見える?」


 ある日、空中に浮かぶ複雑な光の幾何学模様を前に、彼がふと尋ねてきた。


「夜明け前の、森の奥の湖みたいに綺麗です。……でも」


 私はじっと光を見つめ、直感のままに言葉を続けた。


「この右下のところだけ、少し水面が波立っているような……光の流れが『つっかえて』いるように見えます。澄んだ小川に、小さな石が挟まって水の流れが乱れているみたいな……」


 魔法の専門知識なんて何もない、感覚的で拙い感想。邪魔をしてしまったかと慌てて口を噤んだが、アンゼルム様はハッと息を呑み、目を見開いた。


「……光がつっかえている。水流の乱れ……そうか!! 第四術式と第五術式の接続部に、わずかな魔力摩擦が起きていたのか! 私は全体の出力数値を合わせることばかりに気を取られて、こんな微細な『淀み』に気づかなかった……!」


 彼は興奮したように書類の束に何かを書き込んだ後、振り返って勢いよく私の両手を取った。


「君の直感は素晴らしい!私のガチガチに固まった思考にまったく新しい風を吹き込んでくれる!」


 そう言って興奮気味に微笑んでくれる。彼の誠実で温かい態度に触れるうち、私は自分がずっと抱えていた「どうせ私なんて」という劣等感が、少しずつ、春の雪解けのように溶けていくのを感じていた。


 名だたる家柄の出身ではないのかもしれない。得体の知れない研究者かもしれない。

 それでも、私はアンゼルム様という一人の人間の深さに、確かに惹かれていたのだ。



 季節は巡り、木々が鮮やかな赤や黄金色に染まる頃。

 エーレンフェルス王宮では、盛大な秋の夜会が開かれていた。


 春の夜会とは打って変わり、広間は豊穣を祝う暖かな色合いで統一されていた。壁には見事な紅葉を模した魔導ランプが飾られ、天井からは時折、光で出来た金色の落ち葉がひらひらと舞い落ちては消えていく。秋の味覚をふんだんに使った料理の香りと、熟成されたワインの芳醇な匂いが、着飾った貴族たちの熱気と混ざり合っていた。


 そんな華やかな喧騒の中を、私はしっかりと前を向いて歩いていた。


 私はもう、太い大理石の柱の影に隠れて、息を潜めているだけの「引き立て役」ではない。

 今日の私は、母と共に何日もかけて選んだ、私の瞳と同じ色――深い森を思わせるエメラルドグリーンのドレスを着ている。派手なフリルや過剰な宝石はないけれど、上質なシルクの光沢と洗練されたカッティングが、私を大人びて見せてくれた。背筋をピンと伸ばし、堂々と歩く私の隣には、もちろん愛しいアンゼルム様がいる。


「エフィ、そのドレス、本当に似合っているよ。まるで森の女神が舞い降りてきたみたいだ」

「もう、アンゼルム様ったら。大げさですよ」


 甘い言葉を囁きながら私をエスコートしてくれるのは、相変わらず研究明けのような無造作な髪に、飾り気のない質素なフロックコート姿のアンゼルム様だ。顔の半分を覆う分厚い銀縁の魔導眼鏡も、もちろんそのまま。


 すれ違う周囲の貴族たちからは、「なんて見すぼららしい格好だ」「あんな野暮な男を連れ歩くなんて、ヴァルトシュテッテン家の令嬢はおかしくなったのか?」と怪訝な目で見られ、ヒソヒソと嘲笑されていた。

 以前の私なら、他人の視線に耐えきれず、すぐに顔を伏せて逃げ出していただろう。


 けれど、今の私は少しも恥ずかしくなかった。

 彼の手の温もりが私に勇気をくれているし、何より、彼がどれほど優しく、誠実で、底知れない知性と愛情に満ちた素晴らしい人であるか、私だけが知っていればそれで十分だったからだ。

 私たちがバルコニーへ向かおうとした時、背後から耳をつんざくような甲高い嘲笑の声が響いた。


「あら、エフィじゃない! まあだそんな人の相手をしているの?」


 振り返ると、最高級の豪奢なドレスをこれでもかと膨らませ、扇子で口元を隠して見下してくるギゼラが立っていた。彼女の腕には、宝石を散りばめた金糸の刺繍入り夜会服を着た、いかにも尊大そうな金髪の青年が絡みついている。


「紹介してさしあげるわ。彼が私の婚約者、マクシミリアン様よ。由緒正しい侯爵家の血を引く、素晴らしい殿方なの!」


 ギゼラは勝ち誇ったように胸を反らした。その態度は、春の夜会で私を「引き立て役」にしていた頃と何一つ変わっていない。


「エフィ、あなたって本当に可哀想。自分磨きをしっかりしないから、そんな貧乏くさい男しか捕まらないのよ。少しは私を見習ったらどう? ああ、でもあなたみたいな地味な女には、そういう小汚い男がお似合いなのでしょうね!」


 ギゼラの声はわざとらしい大声で、周囲の令嬢たちが面白がって足を止め、遠巻きに私たちを囲むようにして眺め始めた。


 以前の私なら、恥ずかしさと恐怖で泣き出し、アンゼルム様の手を引いて逃げ帰っていただろう。

 けれど今の私は違う。彼に、彼が認めてくれた自分自身に誇りを持っている。私を馬鹿にされるのは我慢できても、彼を馬鹿にされることだけは、絶対に許せなかった。


「ギゼラ、訂正して!」


 私はアンゼルム様のエスコートからスッと手を離し、一歩前に出た。そして、ギゼラを真っ直ぐに見据えて、はっきりした声で言い放った。


「アンゼルム様は、あなたが見下していいような方じゃないわ。彼は誰よりも誠実で、聡明で、私を大切にしてくれる素晴らしい方よ。家柄や見た目のきらびやかさでしか人の価値を測れないあなたに、彼を笑う資格なんてないわ!」


 広間に私の声が響き渡った。

 いつも自分の後ろでオドオドしていた私が言い返したことに、ギゼラは目を丸くし、やがて顔を真っ赤にして激昂した。


「え、エフィ、どうしたの!? 控え目で私の言うことを聞いているところがあなたの唯一の美点だったのに! 生意気!マクシミリアン様!この無礼な女と、その小汚い男を会場から追い出してくださいな!」


 そのときアンゼルム様が静かに、私を背に、完全に庇うようにして、ギゼラたちの前に立った。


「ギゼラ嬢。あなたがどのような価値観を持とうと自由です。きらびやかな宝石や、権威という名のドレスで自身を飾るのも、あなたの生き方でしょう。……だが」


 アンゼルム様の声は決して荒げていない。低く、穏やかなままだった。

 それなのに、大広間の空気が一瞬で凍りつくような、凄まじい威圧感が放たれた。空間そのものが彼の魔力に共鳴し、ピリピリと震えているのがわかる。


「私の大切な女性を、君のちっぽけな物差しで貶めることだけは、絶対に許さない。彼女の価値は、君が身につけているその俗悪な宝石の山など足元にも及ばないほど、気高く、美しいものだ。表面的な虚飾でしか自分を保てない君の精神の貧困さには、哀れみすら覚えるよ」


 冷徹で、知性に裏打ちされた有無を言わせぬ完璧な論破。

 ギゼラはあまりの気迫と正論に圧倒され、完全に言葉を失い、カタカタと震えながら後ずさった。


「な、なによ……! マクシミリアン様、なんとか言ってやってください! 」


「あ……、ア、アンゼルム……?」


 ギゼラがすがりついたマクシミリアンは、しかし、彼女を庇うどころか、その場に縫い付けられたように硬直していた。彼は信じられないものを見るような目で、いや、まるで恐ろしい魔物に出くわしたかのような顔で、アンゼルム様を見つめている。


「奇遇だな、マクシミリアン」


 アンゼルム様は冷ややかな声で言った。


「学生時代から君は派手好きだったが……どうやら、君の婚約者の『価値観』も随分と派手なようだ。見た目のきらびやかさだけで人間の価値を決めつけるとはね」


 アンゼルム様が、静かに分厚い魔導眼鏡を外す。

 現れたその端正で冷徹な素顔を見て、マクシミリアンは顔からサッと血の気を引かせ、次の瞬間、耳まで真っ赤にして怒りで全身を震わせだした。


「ギゼラ……お前、まさか今までずっと彼を侮辱していたのか!?」

「マ、マクシミリアン様? だってこの小汚い男、ただの研究者で……!」


 混乱するギゼラの手を乱暴に振り払い、マクシミリアンはホール全体に響き渡るような声で怒鳴りつけた。


「この馬鹿!彼はエーレンフェルス王国最高の魔法血統、シュテルンベルク公爵家の次期当主にして、王立魔導院の首席だぞ! 共に学んだ同期だが、私など足元にも及ばないほどの本物の天才だ。私の尊敬する親友を捕まえて、小汚いだと!?」


「……は? こう、しゃく……け?」


 ギゼラの持っていた豪奢な扇子が、カラン、と力なく大理石の床に落ちた。

 周囲を取り囲んでいた者たちの間にも、静まり返った直後、沸き立つような激しいどよめきが広がっていく。


「……嘘でしょう? あの眼鏡の奥に、あんな端正な素顔が隠れていたなんて」


 まるで舞台の幕が上がったかのような熱狂。令嬢たちは頬を染めて溜息を漏らし、殿方たちは公爵家の家格に戦慄している。まさに蜂の巣をつついたような騒ぎの中、アンゼルム様はそんな周囲の喧騒など全く視界に入っていないかのように、ただ私だけを愛おしげに見つめていた。


「なんてことだ……。アンゼルム。君に、私の婚約者のこんな醜態を見られるとは。本当に恥ずかしい」


 マクシミリアンは震える体でアンゼルム様に頭を下げた後、氷のように冷ややかな目でギゼラを見下ろした。


「着飾ることにしか能がなく、本物の宝石の価値すら見抜けない底の浅い女だったとは。君とはこれでおしまいだ!」


「そ、そんな……! お待ちになって、マクシミリアン様!」


 マクシミリアンに突き放され、周囲からの嘲笑と侮蔑の視線を浴びたギゼラは、顔を真っ白にしてその場にへたり込んだ。因果応報。彼女が私にしてきたことが、そっくりそのまま自分に返ってきた瞬間だった。


 アンゼルム様はすっかり腰を抜かしたギゼラを一瞥し、完全に興味を失ったように背を向けた。


「行こうか、エフィ。ここは少し空気が淀んでいる。……君のその美しいドレス姿を、もっと静かな場所で独り占めしたいんだ」


 唖然とする私に向き直ると、彼は先ほどの冷徹さが嘘のように、甘く蕩けるような微笑みを浮かべた。その圧倒的なギャップに、私の顔は一瞬で熱くなる。私はこくりと頷き、彼が差し出した手を取って、堂々とその場を後にした。




 その後、ギゼラはマクシミリアンから婚約を破棄され、その浅はかな振る舞いが社交界中の嘲笑の的となり、いたたまれなくなって実家の領地へと逃げ帰っていったという。


 そして私はといえば――。


 あの秋の夜会から数日後。

 我がヴァルトシュテッテン伯爵家の門前に、王家の紋章に次ぐ格式を持つシュテルンベルク公爵家の豪奢な馬車が停まった。


「ヴァルトシュテッテン伯爵閣下、突然の訪問をお許しください。本日は、愛するエルフリーデ嬢との結婚のお許しをいただきに参りました」


 応接間に現れたのは、ヨレヨレのフロックコートではなく、公爵家の御曹司にふさわしい、最高級の仕立ての正装に身を包んだアンゼルム様だった。髪も美しく整えられ、魔導眼鏡を外したその美貌は、直視できないほど輝いている。


「こ、公爵家……!? しかも、若き天才と名高いアンゼルム卿!? 名も知れぬ研究者ではなかったのか……!?」


 応接室で待ち構えていた父は、まさかの大物の登場に腰を抜かさんばかりに驚き、白目を剥いてソファーに倒れ込みそうになっていた。

 母は「まあ!まあ!なんて素敵な殿方!」と両手を合わせて大興奮で、うっとりしている。


「前に約束しただろう? 君の大切なご両親に、『得体の知れない研究者』のまま挨拶に伺うような真似はしないって。きちんと礼を尽くすから安心して、とね」

 隣に座るアンゼルム様が、目を白黒させる両親を見てクスッと笑い、私にだけ聞こえるように耳打ちをしてきた。


「も、もう! 私は、あなたが『得体の知れない研究者』でも公爵令息でも、どちらでも大好きですから関係ありません!」

「ははっ、知っているよ。君が私のシワだらけのコートや、ボサボサの髪も愛してくれていることはね。でも、君の大切なご両親には、私が君を幸せにするだけの力があることを、ちゃんと証明したかったんだ」


 そう言って、彼は私を優しく抱き寄せた。



 それから一年後。

 私たちはエーレンフェルス王国で最も祝福された結婚式を挙げた。


 今、私は公爵夫人として、そして王立魔導院で研究を続ける夫の「一番の助手」として、充実した毎日を送っている。

 相変わらず彼は研究に没頭すると寝食を忘れてしまうけれど、そんな時は私が美味しい紅茶を淹れて、彼を現実に引き戻す役割だ。


「エフィ、君が淹れてくれる紅茶は、どんな魔法薬よりも私の疲れを癒やしてくれるよ。……愛している」


 本の山に埋もれた、二人だけの静かな研究室。

 ふとした拍子に、彼の手が私の頬を優しく包み込んだ。分厚い眼鏡を外したアンゼルム様の瞳が、琥珀色のお茶のように甘く、深く私を見つめる。


「……君に出会わなければ、私は今も、冷たい魔法数式だけを友にして生きていただろう。エフィ、私を見つけ出してくれてありがとう」


 情熱を孕んだ囁きが、すぐ近くで重なる。

 そっと落とされた唇の熱に、私はそっと目を閉じた。窓の外から聞こえる風の音も、遠い王宮の喧騒も、今の私たちには届かない。


 自分に自信がなく、誰かの引き立て役として、ただ灰色の景色を眺めていた私。

 けれど、勇気を出して一歩を踏み出し、外側の虚飾ではなく、その奥にある真実の輝きに手を伸ばした。


 たった一度のその選択が、私の世界をこんなにも色鮮やかに、温かく変えてくれたのだ。


 愛する人の胸の中でまどろみながら、私は確信している。

 今の私は、きっと世界中の誰よりも――。

 そう。あの日、あの夜会にいた誰よりも、そう、王国一の幸せ者なのだと。


 窓から差し込む柔らかな陽光が、山積みになった古い魔導書と、寄り添う二人の影を優しく、静かに照らし続けていた。

お読みいただき、ありがとうございました。

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