第9話
葵は洗面台の鏡の前で、丹念に化粧を落としていた。オイルを含ませたコットンで目元や唇を優しく拭い取ると、次にクレンジングクリームを掌にたっぷり取り、ゆっくりと肌に馴染ませながらマッサージする。余分なクリームをふき取り、ぬるま湯で丁寧に洗い流すと、タオルでそっと水分を拭う。今度は化粧水を十分含ませたコットンで軽く叩き、最後に乳液で肌を整える。どんなに夜遅く帰宅しようとも、どんなに疲れていようとも、葵は就寝前のスキンケアを欠かさなかった。
時間をかけて化粧を落とし終えると、鏡の中に素顔の自分が現れる。ぱっちりとした目元に厚みのある唇。母親に酷似したその顔を見つめながら、わずかな物足りなさを覚え、そっと眉を書き足した。
背後で、哲郎の声がバスルームに届く。
「今、豊君から電話があった。明日の午後三時、オフィスに顔を出すよ」
寝室に続くバスルームの扉の隙間から、哲郎が顔をのぞかせる。葵は髪をとかす手を止め、鏡越しに哲郎を見た。
「そのことで話があるわ」
明日、豊と哲郎が会社で話し合う内容など容易に想像がつく。遺産、経営、そして自分の処遇のこと。けれど、そんなことはどうでもいい。どうせ豊は自分を排除するつもりだろう。それならこっちから願い下げだ。むしろ、なぜ父の遺言が最後に変わったのか、その謎を解き明かす方が面白い。
「話って何だ?」
哲郎がバスルームの入り口に手をかけ、怪訝そうな表情を浮かべる。葵はゆっくりと哲郎の方を振り返ると、さらりと話題を振る。
「私たち、東京で暮らさない?」
「えっ、東京? 会社はどうするんだ!」
瞬間、哲郎の鋭い声が飛ぶ。久しぶりに聞く哲郎の剣幕に、葵は内心笑った。
「そんなの豊に任せればいいわ。哲郎こそ、なんでそんなに会社にこだわるの?」
冷たく言い放つと、哲郎は押し黙った。だが、何かを思い立ったように哲郎が口を開く。
「単刀直入に聞くよ。葵は、会社に残りたくないのか?」
葵はわざと考える素振りを見せると、
「そうねぇ……というか、今は豊が責任者だから、彼に任せるわ」
まるで他人事のように言って見せた。哲郎はじっと葵を見ていたが、やがて大きく息をついた。
「とにかく仕事があるんだ、東京には引っ越さないよ」
苛立ちを隠そうともせず、語気を強める哲郎を葵はまじまじと見つめた。
「哲郎、少し変わったわね」
「えっ?」
哲郎が一瞬驚いたように目を見開いた。
「以前はそんな荒々しく声なんか上げなかったわ」
「庄吉さんの葬儀やら遺言やらで、精神的に滅入ってるんだと思う。それに最近は……寝起きも悪い……」
そう呟くと、哲郎は視線を逸らした。
「……目つきも少し変わったわよ。それに態度も心なしか──」
「それはこっちのセリフだよ! 葵こそ最近変わったんじゃないか?」
透かさず哲郎が切り返す。
「まあ、どんなふうに?」
葵はゆっくりと微笑むと、大きな瞳に挑むような妖しい光を漂わせた。
「……そういうところだよ」
哲郎は怪訝そうに眉を顰めると、
「明日も早いんだ、もう寝る」
短くそう言い残し、バスルームの入り口から離れた。部屋の明かりが落ちる気配がし、シーツが擦れる微かな音がしたと思うと、すぐに小さな寝息が聞こえ始める。
「いいわよね、いつも寝落ちが早い人って」
葵は独り言のように呟くと、鏡に向き直った。
──変わったのは私じゃなくて、哲郎の方だわ──
最近、哲郎の様子がどこかおかしい。以前から何を考えているのか掴めない人だったが、少なくとも声を荒らげることはしなかった。
──それでも一番変わったのは目つきね──
豊は気づかないようだが、最近の哲郎には時折、陰のような底知れぬものが宿っている。
「自分を棚に上げて……よく言えるわよね」
葵は止まっていた手を再び動かし、髪をとかし始める。ゆっくり、丁寧に。まるで先ほどの会話など存在しなかったかのように、いつも通りの仕草で髪を滑らかに整える。けれど、鏡の中の瞳だけは違っていた。鋭く、どこか突き刺すような光を宿している。その目に、覚えがあった。
髪をとかす手が止まり、葵は鏡の中の自分をじっと見つめた。ふと、記憶の奥底から赤い面影が浮かび上がる。
「……お母さん……?」
その瞬間、一定のリズムを刻んでいた哲郎の寝息が途切れた。妙な静寂が部屋を包み込み、葵の肩にじわりと重い空気がのしかかる。
葵は鏡に映る自分の瞳をじっと見詰めていたが、
「また会えたわね」
密やかにそう呟くと、視線をほんのわずか横にずらした。
黒ずくめの男は葵の真後ろに影のように立っていた。まるで、最初からそこにいたかのように微動だにせず。相変わらず不気味な出で立ちだが、初めて会った時よりも肌の色が良くなっている。
葵は指先でゆっくりと髪を梳きながら、目の端ではじっくりと男を見据え、
「新しい生活を始めるチャンスが回って来たの。私は夢を掴むわよ」
静かな中にもはっきりと揺るがぬ意思を込めて言い切った。その時、鏡越しに映る男の唇が微かに緩んだように見えた。
翌朝、葵が目を覚ますと、哲郎はすでに家を出ていた。
「相変わらず、まじめな男ね」
寝室のブラインドを開けながら、独り言のように呟く。柔らかな朝の光が部屋に差し込むが、その暖かさはどこか遠い。壁時計に目を遣ると、すでに八時を過ぎていた。
父親が亡くなってからというもの、七時半起きの生活を何日か続けてみたが、その味気無い毎日に嫌気がさし、最近はまた以前のような勝手気ままな生活へと逆戻りしている。それでも特に気にならなかった。相続人会議の後、会社への興味はすっかり失せ、今は新しい夢に向かって行動を起こさなければならない。そんな思いが日に日に強くなっていく。
「だいたい昨夜、変な夢を見たから朝起きれなかったのよ」
葵は寝ぼけたまま乱れた髪を指で梳きながら呟いた。最近、寝つきが悪かったり、妙な夢を見ることが増えた。何か引っかかるものがあるのに、思い出そうとすると、するりと逃げていくような感覚が気味悪かった。
「それより、今日はやることが多くて忙しくなりそうね」
気怠い疲れをふり払うようにバスルームへと向かうと、のんびりと外出の準備を始める。哲郎と豊の会議は午後三時。それまでには、まだ十分な時間がある。
葵はしっかりと着飾ると、颯爽と家を後にした。




