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寄生体  作者: 星乃夜衣
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第8話

 相続人会議も無事終わり、豊は静香と高崎の自宅に戻った。玄関の鍵を閉め、軽く息を吐く。外の喧騒とは違う、自分たちだけの空間。

「それにしても、驚いたな。遺言を開けてみれば、姉さんが会社の経営から外れているとは、予想外だった……」

 独り言のように呟きながら、キッチンキャビネットの奥に手を伸ばす。そこには三年前の結婚式の祝い品であったペアのクリスタルグラスが忘れられたように眠っている。豊は注意深くひとつずつ取り出すと、カウンターに並べた。

「豊の努力が実を結んだのよ。おめでとう、三代目社長」

 静香は優しく微笑みながら、そっと指でグラスの縁をなぞった。

「親父も、直前に気が変わったのかな?」

 庄吉の決断の裏に冴子の助言があったことは容易に想像できる。しかし、それを知ったところで、今更どうなるものでもなかった。

「それで、豊はどうするの? 葵さんをこのまま会社に置いておくつもり?」

 静香の不安げな声に、豊は思わず目を逸らした。頭では分かっている。葵は松浦建設の経営には必要ない。

「……難しい問題だな。義兄さんには現場監督を続けてもらいたいけど、姉さんは……正直、会社に必要ないと思う」

 複雑な思いに駆られながらも言葉に出すことで、ようやく自分の判断を整理する。

「そうね。それに利益の半分は葵さんが持っていくのなら、彼女もそれで十分じゃないかしら? いちいち経営のことで口を出されずに済むし、豊も気を揉む必要がなくなるわ。それに哲郎さんが会社に残ってくれれば、葵さんだってそれで十分なはず」

 畳みかけるように静香が整然と意見を述べていく。

「まあ、そうだな……」

 頷きながらも、どこか後ろめたい気持ちが胸の奥にわだかまる。家族とはいえ、経営者としての判断はシビアでなければならない。それでも頭の片隅には、わずかな迷いが残る。母が亡くなったとき、豊はまだ十三歳だった。そんな少年期の弟を支え、父の再婚の際にも味方であり続けたのは、紛れもなく実の姉である葵だった。

 豊は気を取り直し、冷蔵庫から冷えたシャンパンを取り出すと、コルクをゆっくりと回した。

「まずは、代々続く松浦建設をしっかりと受け継がないとな」

 照れくさそうにそう告げた時、ポンと軽やかな音を立ててシャンパンの栓が抜けた。金色の液体を注ぎながら、会社の未来が法的にもはっきりと定まったことに、少しだけ肩の荷が下りる気がした。

 豊が静香の前にグラスを差し出すと、彼女は微笑みながら受け取るも、

「ありがとう。でも、形だけね」

 シャンパンを口にすることは避けた。

「形だけ?」

 豊が不思議そうに首を傾げると、静香はふわりと唇を緩め、そっと手を腹部に添えた。心なしか、静香の頬が少しだけ赤らんでいる。

「アルコールは、しばらく控えないといけないの」

 その言葉に一瞬、豊の手が止まる。

「え? まさか……」

 結婚三年目だが、同棲していた頃から考えれば、八年近くもの年月が無情にも過ぎていた。いつしか、自分たちには子供ができないのではないかとも考えたが、内向的な静香は産婦人科で検査を受けることを渋った。しかし、ようやくこの日が来たのだ。豊は息を呑んで、静香の言葉を待った。

「……今月の始めに、産婦人科に行ったの」

 静香はキッチンの引き出しを開け、白黒の写真をそっと取り出した。豊は吸い寄せられるように覗き込むと、それは胎児の影が印刷された白黒のソノグラム写真だった。小さな丸い影がぼんやりと写っているだけで性別もまだわからない。それでも、新しい命が宿っている確かな証拠だった。

「こんなに小さな命が……」

 豊は写真から目を離すと、静香に向き直った。

「何で、すぐに教えてくれなかったんだ?」

「だって……相続人会議の前だったから、色々と気が張ってたでしょう?」

 躊躇いがちな声に、彼女の奥に秘められた思慮深さが伝わってくるようだった。豊は写真を手に取ると、そっと指でなぞりながら、小さく笑った。

「どっちだろう?  男の子かな、女の子かな?」

「どちらでもいいわ。元気に生まれてきてくれれば……それだけで十分よ……」

 静香の控えめで優しい声に、豊の胸の奥で何かがじんわりと広がっていく。

「そうだな。いや、まずはおめでとう!」

「ええ、おめでとう……それと、予定日は十二月十日ですって」

「そんなの、あっという間だな。一戸建てに引っ越すか?」

 今のマンションでも十分だが、住宅地の方が子育てにはいいかもしれない。考えるべきことが一気に増えたが、それは心躍る忙しさだった。

「ふふ、随分気が早いわね。まあ、ゆっくり二人で決めましょう」

 静香は目を細めると、口元をほころばせた。

「俺も、父親になるのか……しっかり働かないとな」

 父親を失ったばかりの豊の胸の内に、ぽっかりと空いたはずの穴がゆっくりと満たされていくようだった。

「ええ……だから、葵さんを会社から遠ざけて。私、あの人が怖いわ……だって何を考えているのか、まるでわからないもの」

 急に静香の表情が曇り始めた。声も心なしか、微かに震えている。

「ああ、静香が不安になることはない。大丈夫だ」

 静香の手を取ると、そのままそっと抱き寄せ、その腕の中に、静香と小さな命の温もりを確かめる。

 確かに息づいている新しい命。

「……お前が、きっと四代目だな」

 豊はもう一度手の中の写真を見つめながら、幸せそうに呟いた。

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