第3話
それから三日後、哲郎はいつもと変わらず現場に到着すると、ヘルメットと蛍光オレンジの安全ベストを身にまとった。空には淡い朝焼けが広がり、国道十七号沿いの道路工事現場は、重機の唸りとアスファルトを叩く音が鳴り響き始める。
暫くして現場主任と共に点検に向かおうとしたその時、胸ポケットのスマートフォンが震えた。画面に表示された「松浦冴子」の文字に、不吉な影が落ちる。庄吉の妻、冴子が朝早くから哲郎に電話をよこすということは、緊急の連絡に違いなかった。哲郎は一瞬身構えながらも、冴子の電話をとる。
「もしもし、冴子さん。おはようございます」
声が少し強張るのを感じながらも、哲郎は冷静に応答する。
「哲郎さん! 庄吉さんが今朝倒れて、意識不明に──」
その言葉に、スマートフォンを握りしめる手に力がこもる。
「わかりました、すぐ向かいます! どちらの病院ですか?」
救急搬送先の病院名を冴子から聞き出すと、哲郎は静かに通話を切った。胸の奥で何かがぐらりと揺れ、思わず唇を噛みしめる。
──ついに来たか──
庄吉はここ最近、体調の悪い日が続いているらしく、疲れを隠しきれていなかった。先日会ったときも、どこか声に覇気がなく、哲郎は言いようのない不安を覚えた。いつかこの日が来ると、冴子もそう覚悟をしていたはずだった。
ふと哲郎の胸の奥底から、名もない感情が浮かび上がる。
──何かが変わるかもしれない──
庄吉の娘婿として十年近く仕えてきたが、現状は現場監督止まり。どんなに頑張っても、会社の中では〝血族ではない線〟が常に引かれていた。それが今、静かに揺らぎ始めている。
「いや、違う……何を考えてるんだ、俺は」
自分を戒めるように呟いたが、胸の奥底で何かが蠢いている。それは罪悪感なのか、それとも期待なのか。
哲郎は首を横に振ると、主任に簡単な指示だけ残し、ざわつく工事現場を背に車へ向かった。オレンジのベストを後部座席に放り投げると、急いでエンジンをかけ、汗ばんだ手でハンドルを握りしめる。ふと時計に目を遣ると、すでに九時を回っていた。哲郎は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、念のため、自宅にいる葵に電話をかける。
数回の呼び出し音の後、葵の不機嫌そうな声が返ってきた。
「……なんで冴子さんは哲郎に知らせて……娘である私に、連絡を寄越さないのよ」
まだ寝起きなのか、どこかぼんやりとした口調だ。それでも言葉の端々から、父親が倒れたことよりも、冴子が直接連絡をよこさなかったことのほうが気にかかっているのが伝わってくる。
葵の気持ちもわからなくもなかった。葵と冴子の間に血の繋がりはない。葵と豊の実母は二十年前に他界しており、冴子は庄吉の再婚相手だった。葵と冴子の関係は、はたから見ても決して温かいものではない。
──まったく、冴子さんらしい──
葵ではなく自分に電話してきた理由を、哲郎は手に取るように理解していた。冴子も松浦家のどこに〝線〟が引かれているのかを、本能的に感じているのだろう。
「冴子さんも気が動転していたんだ。とにかく、病院に至急来てくれ」
それだけ伝えると、哲郎はアクセルを踏み込んだ。
哲郎が病院に到着すると、早朝にもかかわらず何人もの救急搬送者が運び込まれ、救急外来は慌しい空気に包まれていた。断続的に響く担架のきしむ音が不吉さを増す。
そんな緊迫感を切り裂くかのように、受付前で立ち尽くすスーツ姿の豊が目に入った。急いで飛び出してきたのだろう、ネクタイがわずかに曲がっている。豊は哲郎を見つけると、強張った表情のまま口を開く。
「義兄さん、オレも今着いたところだよ。親父は北病棟の二階の個室にいる」
その緊迫した様子から、庄吉の容態が〝戻らない方向〟に傾いているのだと、哲郎は嫌でも感じ取った。
「急ごう」
哲郎は軽く頷き、豊と共にエレベーターに乗り込んだ。
北病棟へと続く廊下は、まるで生と死が交錯する境界のように静まり返っていた。二人は言葉を交わすこともなく、足音だけを響かせながら進んでいく。やがて庄吉の個室が視界に入ると、豊は一度小さく息を吸い込み、ドアノブを強く握りしめて扉を開けた。途端につんとした冷たい消毒液の匂いが鼻を掠める。その奥で、枕元に座る冴子の姿が静かに浮かび上がった。背筋をぴんと伸ばし、泣き崩れるのではなく、必死に平静を装っている姿に、哲郎は彼女の覚悟を感じた。
「今朝、呼びかけても意識がなかったのよ……」
冴子は庄吉の手をそっと握りしめ、声を僅かに震わせた。
哲郎は豊の後からゆっくりと窓際のベッドへと近づいた。白いシーツに横たわる庄吉はすでに昏睡状態なのだろう。かすかに上下する胸と、心電図モニターの機械音だけが、まるで生きている証であるかのように静かに響いている。
「──姉さんはこっちに向かってるの?」
豊は静かに横たわる庄吉を見つめたまま、硬い表情で哲郎に尋ねた。
「ああ、彼女も今、こっちに向かってるところだ」
その瞬間、哲郎の胸に一抹の不安がよぎる。だが、さすがに自分の父親が危篤だと聞けば、葵も血相を変えて病院に駆けつけるはずだ。そうでなければ父親の最期に間に合わないだろう。
しばらくして足音が近づいたかと思うと、病室の扉が静かに開いた。だが、姿を見せたのは葵ではなく、豊の妻である松浦静香だった。静香は清楚な容姿をしているが、その整った顔立ちにはどこか神経質な陰りが漂う。華やかな印象をまとう葵とは対照的な女性だ。
「お義父さんの容態は──」
静香はバッグを胸に抱え込み、肩を震わせながら部屋に入ってくると、ベッドに横たわる庄吉と豊を交互に見つめた。
「もう少しだけ、生きられると思っていたんだけどね」
豊はどこか自嘲気味に呟くと、そっと静香の肩を撫でた。
不意に、庄吉の喉から、かすれた空気が漏れるような音がした。心電図モニターの音が不規則に乱れ始める。
「庄吉さん!」
冴子が慌てて庄吉の手を握りしめる。庄吉は、まるで誰かを呼ぼうとしているかのようだったが、声にはならない。細い生命の糸が、風に揺らぐ炎のように頼りなく、今にも消えてしまいそうだった。
「親父! 頑張れ!」
豊もベッドの傍に駆け寄り、苦しげに庄吉の顔を覗き込んだ。
その時、廊下の方から小走りが聞こえた。哲郎は葵の気配を読み取るように、急いで病室の扉を開ける。
「葵! 早くお義父さんに声をかけて!」
哲郎の言葉の意味を悟ったのか、葵は駆け込むと冴子の背後から庄吉を覗き込み、
「お父さん、葵はここにいます!」
大きな声をかけた瞬間、庄吉の指がほんのわずかに動いた。微細な反応だったが、それが合図だったかのように、庄吉の呼吸はさらに浅くなっていった。そして心電図モニターのアラームが鳴り響くと、冴子と静香が肩を震わせるようにして泣き出し、豊はこめかみのあたりに手を遣ると、唇を噛みしめた。
哲郎はそんな光景を静かに見守っていたが、ふと視界がぼやけた。
「……ギリギリ間に合ったな……葵」
目元を指でぬぐいながらぽつりと呟き、葵の方へと視線を向けた。窓から差し込む光が、葵のワンピースの裾を照らす。その瞬間、哲郎は目を見開き息を呑んだ。
──赤?
葵が身にまとっていたのは、鮮やかな深紅のワンピースだった。まるで鮮血のようなその色だけが、場違いなほど白い病室に浮き上がっている。冴子の黒いセーター服、静香の地味なグレーのワンピース、豊の紺のスーツ、そして哲郎の作業着──その中で、葵だけが異様なほど鮮やかだった。まるで祝宴にでも向かうかのように。
さらに、赤は庄吉が何よりも忌み嫌っていた色だった。理由は語られなかったが、穏やかな庄吉が唯一拒絶を見せた色だというだけで、哲郎にとって眉を顰めるには十分すぎる理由だった。
平然と真っ赤な姿で病室に現れた葵だったが、目元にはグレーのアイシャドウが丹念に塗られ、唇にはいつもの赤やピンクではなく、ヌード色の口紅が引かれていた。流石にそこは、赤を避けたようだ。髪だって綺麗にセットされ、乱れひとつない。父親の危篤を知りながら、この娘は一体どれほどの時間を鏡の前で費やしたのか。
──わざとなのか、それとも無意識なのか──
哲郎は葵の意図を理解しようとしたが、言葉にならなかった。
「何よ?」
葵は眉間に皴を寄せると、立ち尽くす哲郎を睨んだ。
「……いや、何でもない」
その瞳に何か得体の知れぬものを感じ、哲郎は思わず視線を逸らした。さらに、葵の声は、いつもより半音低く、どこか湿り気を帯びている。まるで別の誰かの声が混ざっているかのように──。
その時、医師が看護師を連れて病室に入ってきた。淡々と脈を測り、モニターを確認し、庄吉の死亡を確認する。
「ご臨終です」
その言葉に、病室全体が重苦しい沈黙に包まれる。だが、葵だけは妙に艶やかで、別の世界の空気をまとっているかのようだ。そんな葵をまじまじと見つめていた冴子の瞳が僅かに揺れた。息を呑んだのか、それとも別の感情か。
「……なんで、赤……?」
静香が、誰にも聞こえないほどの声でぽつりと漏らした。
その深紅のワンピースはあまりに眩しく、哲郎にはまるで死を背にして輝く大輪の花のように見えた。
***
庄吉が死んだ翌日、葵と豊は葬儀屋の小さな応接室で向かい合っていた。薄い木製テーブルの上には、葬儀用の書類や参列者リストが綴じられた厚い資料が積み上がっている。
「……は? 何言ってるんだよ、姉さん」
ページをめくる手を止め、豊が顔を上げた。目の奥に混じる苛立ちと困惑が、言葉よりも雄弁に語っている。
「喪主を〝姉さんがやる〟って、どういうことだよ。取引先も来るんだぞ」
葵はゆっくりと脚を組み替え、背筋を伸ばした。
「言った通りよ。喪主は私がやるつもりだから」
静かなのに、隙をいっさい与えない口調。豊の眉間に皺が寄った。
「親父の会社を引き継ぐのはオレだ。喪主が姉さんじゃ、示しがつかないだろうが」
豊は声を荒げたが、言葉の端が少し震えていた。長男としての自負か、あるいは会社の後継を決める場でもある葬儀を奪われる恐れからか。庄吉の死は悲しみであると同時に、避けられない継承の合図でもあった。
「私には、長女としての権利があるのよ」
葵は真正面から豊の視線を受け止めた。その瞳に、昨日までとは違う何かが潜んでいる。
「……三代目はオレだぞ」
豊は唸るように呟くと、椅子の背にもたれた。その背後には焦燥が透けて見える。
「喪主ぐらい、譲れないの? 三代目社長さん」
葵は涼しい顔で笑うが、言葉に棘があった。挑発ではなく〝当然の権利〟を口にしているとでも言いたげな余裕。そんな葵に、豊は一瞬ぞくりとした。
「……勝手にしろよ」
呆れたように吐き捨てると、豊は資料をテーブルに投げ出すように置き、顔を背けた。葵はどこか高揚した表情で、資料の端を指先でなぞっている。まるで新しい役を与えられた女優のように。
「何か新しいことが起こりそうな予感がするわね」
その声音は満足げというよりも、何かに陶酔するような響きを帯びていた。




