第20話(最終話)
葵は小さい頃から何不自由なく育った。
三つ年下の豊は、どちらかというと庄吉に似て神経質だったが、葵は珠代に似て気性が強く、小さい頃から華やかな雰囲気をまとっていた。珠代はそんな自分によく似た葵を無条件で特別視し、溺愛した。
葵も母が大好きだった。だが時折、珠代の気性が激しくなることがあった。
最初は「母の性格が強いだけ」と思っていたが、時々まるで別人のようになる姿に、幼いながらも恐怖を感じることがあった。
やがて珠代は入院した。
そしてあの日、病院を抜け出した珠代は、この山荘にやってきた。お気に入りの赤いドレスを身にまとい、珠代を探しに来た庄吉と口論になったのだろう。
──あの時、母はバルコニーから飛び降りたのか?
──それとも、父に突き落とされたのか?
葵は深く考えることをやめた。
記憶を封印し、あの日の出来事を忘れることにした。
それからの庄吉は、必要以上に葵に気を遣うようになった。そこに何らかの懺悔があったのかもしれない。そして葵もまた、父の気遣いをあえて見て見ぬふりをしてきた。
だからか、葵の心はいつも満たされなかった。
母が家にいなくなると、葵の心にはぽっかりと穴が空いた。何をしても満たされない。次第に、物事への興味も失せていった。大学を卒業はしたものの、就職はうまくいかず、結局、父の会社に押し込められただけだった。一方で、豊は父の意志を継ごうと必死に努力を重ねていた。
だが、そんな豊には、珠代と葵しか知らない秘密があった。
豊が三歳の時、おたふく風邪による高熱が何日も続いた。珠代は医師から「豊には子供ができないだろう」と告げられた。しかし、本人はその事実を知らない。葵もまた、珠代から聞かされただけだった。
「だから、会社は葵と豊かで半分にしなさい。豊は子供ができないから」
それが、珠代が葵に残した言葉だった。庄吉もその事実を知らない。ただ、「会社を半分にする」という珠代の意向を守ろうとしただけだった。
豊と静香は、結婚する前から同棲していた。時期を合わせれば、もう八年近く一緒にいることになる。そんな中、静香が妊娠した。父親が豊かではないことは明白だ。
──誰の子を身籠ったのか?
それは悪魔の子に決まってる。目の前の男がそそのかしたのだ。心に巣を作り、他人に寄生し、夢を喰らい、自らを肥大させる生き物。
──肥大? いや、この男は若返るのか──
落ちていく中で、目の端に映る哲郎と美しい少年の姿をした男。その少年の目に、なんだか見覚えがあるように思えた。
葵は、ふっと笑った。遠くで、パトカーのサイレンが幾重にも重なり合う。
それが葵の最後の記憶になった。
***
地面に吸い寄せられるように落ちていく葵を、哲郎はただ、見下ろしていた。それはまるで、投げた石が黒い海の底へと沈んでいくような光景だった。
ついさっきまで彼女の左手を握っていた自分の掌に視線を落とした。まだ、温もりの名残がそこにある。だがもう、二度と彼女の声を聞くことはない。
森が息を顰め、あたりの時間が止まったかのようだ。
哲郎が静かに顔を上げると、そこに黒い服を着た少年が立っていた。黒ずくめの男はもう哲郎が知る姿ではない。
「……それにしてもずいぶんと若返ったな」
哲郎は少年の姿になった男を冷ややかに見つめると、押し殺したような声でそう呟いた。男は宿主だった珠代を失ってからというもの、長い年月、人の思念に飢え続けていた。
哲郎がこの男に初めて会ったのは、葵と結婚して三年目の頃だった。その時の男は、よれよれの黒い服を着た、みすぼらしい老人の姿をしていた。黒い帽子を深く被り、長い白髪は手入れされずにぐちゃぐちゃだった。歯は抜け落ち、顔の大半が歪んでいて、どんな表情をしているのかさえも分からなかった。
──だが、今は──
その姿は見違えるほど美しい黒髪の少年へと変わっていた。どれだけ葵の思念を喰らったのかは知らないが、よっぽど美味かったのだろう。
『そなたの夢は地味な故、時間がかかる』
少年はその端麗な顔を歪ませると、ぽつりと呟いた。哲郎は冷笑すると、岩だらけの地面に伏した葵に視線を向けた。
「当たり前だ。お前に夢を与え続ければ、こっちが抜け殻になる……葵のように……」
口にした途端、胸の奥が微かに締め付けられた。
哲郎はベランダの手すりにそっと触れた。軽く身を乗り出せば、斜面の下に暗闇が広がっている。まるで、誰かが落ちてくるのを口を開けて待ち受けているようだ。二十年前に一部が崩れ落ちたようだが、その後の修理がずさんだったのだろう。だが、誰も住まない家は傷むのも早い。
哲郎は唇を固く結ぶと、視線をそらした。ゆっくりと部屋の中へ戻ると、床に砕け散ったスマートフォンの破片が目についた。
──葵の痕跡──
警察が到着する前に、葵の死亡を確認する必要がある。
きしむ階段を一段ずつ降りながら、哲郎は背後に立つ少年へ低く言い放った。
「まあ、それだけ若返れば、当分は人の思念を喰らう必要もないだろう?」
少年は哲郎の後を追いながら、嫣然と微笑む。
『そなたが夢を達成する頃まで、若者の姿のままでいられるだろう』
「じきに達成するさ……」
哲郎の目が鋭く光った。
自我をコントロールしながらこの男を操るのは、決して容易ではない。思念を与え続ければ、その代償として葵のように記憶が曖昧になり、やがて抜け殻と化す。哲郎の思念を思うように喰らえなかったこの男は、代わりに葵を喰らうことで渇きを癒したのだ。
「四代目が、僕の代わりに継いでくれる」
哲郎の夢は家督を継承し、己の存在を刻むことだ。それがどんな形であっても達成されなければ、この男から解放されない。ならば、自分の血を分けた子供が継ぐことになれば、それはある意味、達成される。
──静香の子供の父親は自分だ──
己の呪縛を解くには、思念を現実に叶える必要がある。
「これでようやく恐ろしい夢から解放される……」
到着したパトカーのランプをぼんやりと見つめながら、哲郎は誰にともなく呟いた。
(了)
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