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寄生体  作者: 星乃夜衣
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第2話

 夜が更けても、道路に面したガラス張りのカフェは明るく、賑わいを見せていた。そんなざわめきを背に、川島葵は窓際の席にゆったりと腰を下ろしていた。

「鳥めし、久しぶりに食べたけど美味しかったわね。また一緒に行きましょうよ」

 葵はコーヒーカップを両手で包み込みながら、向かいの席に座る沙織(さおり)にさり気なく視線を移した。時折、車のヘッドライトがガラス越しに差し込み、沙織の横顔を一瞬だけ照らす。そんな些細な光さえ、妙に彼女を輝かせているように思えた。

 沙織は大学時代の友人で、結婚した時期もほぼ同じ頃。華やかで人目を引く葵とは対照的に、沙織は地味で目立たないタイプだった。ところが卒業後、沙織は年の離れた実業家と結婚すると、東京で華やかな生活を手に入れた。

 ──本当なら、自分がそうなるはずだったのに──

 カップを握る手に、自然と力がこもった。頭の中に、かつて夢見た光景がひとつひとつ蘇る。高層マンションに、週末のホテルラウンジ。銀座をブラブラと歩く姿を想像しては、胸を躍らせていた。けれど現実にそれを手にしたのは沙織だった。

 ところが三年前、彼女の夫は不慮の事故で亡くなった。沙織は身に余る暮らしを手放し、娘を連れて実家のある前橋へ戻ってきた。葵はその話を聞いたとき、心の奥で小さく笑った。

「葵ってば、そろそろ家に帰らなくて大丈夫なの?」

 沙織が心配そうな顔で覗き込む。店内の時計に目を遣ると、すでに夜の九時を回っていた。

「平気よ。哲郎には遅くなると伝えてあるから」

 沙織が今夜のために小さな娘を実家に預けていることは聞いていたが、葵は気に留めずに彼女を繋ぎとめた。未亡人となって東京を離れた沙織の心境はどんなものなのか。

 ──苦労してるほうが、見ていて面白いじゃない?

 探るように、じっと視線を沙織に向ける。

「哲郎さんって、良い人よね。ハンサムだし」

 そんな葵の心情を知ってか、沙織はふっと微笑んだ。そんな彼女の何気ない言葉に、葵は今頃帰宅しているであろう哲郎を思い浮かべた。

 確かに哲郎は彫りが深く、顔立ちが整っている。それに、現場で毎日働いているせいか、四十を過ぎてもその身体は引き締まっている。性格も悪くない。葵のわがままを受け止めるほどの包容力もある。毎日真面目に朝から晩まで働き、父の期待に応えた申し分のない夫だ。ただ時折、何を考えているのか掴めないときがある。

 ──今は哲郎の話なんか、どうでもいいわ──

 葵の関心は、昨年前橋に戻ってきた沙織だ。子供を一人生んで、さぞ老けたかと思いきや、沙織はむしろ落ち着いた女の魅力を漂わせている。

「それで、沙織はいつまで未亡人でいるつもり?」

 葵は面白くなかった。夫が亡くなったというのに焦ることもなく、沙織は両親の助けを得て、娘を順調に育てている。

「再婚なんか考えていないわ。それに……娘の世話で毎日忙しいもの」

 沙織は左手の指輪に視線を落とした。

「ダメよ、沙織! まだ三十六じゃない!」

 身を乗り出すように葵が声を上げた時、携帯電話がメッセージ音を鳴らした。沙織はハンドバッグからスマートフォンを取り出し、画面を確認すると、すぐに席を立った。

「もう帰らないとだから……じゃあ、また今度ね」

 沙織は薄手のコートの襟を軽く整え、葵をテーブルに残したまま急ぎ足でカフェを去っていった。

 葵は両手で包んだコーヒーカップを見詰めた。カフェのざわめきが次第に遠のき、まるで世界に自分だけしかいないような錯覚に陥る。

 ──悔しい!

 気づけば奥歯を噛みしめていた。こんな時間に帰宅しても、哲郎はテレビを観ているか、寝ているかのどちらかだ。

 ふと、妙な気配を感じた。

 それに、さっきまで耳にまとわりついていたざわめきが消えている。まるで別空間にいるかのように、辺りが不自然なほど静寂だ。

 葵が顔を上げた瞬間、心臓が跳ねた。

 いつの間にか黒ずくめの男が目の前に座っていた。微動だにせず、まるで何かを待つかのように、じっと葵を見つめている。

「なっ、何ですか、あなたは!」

 葵は辛うじて言葉を発したが、その不気味さに寒気が背筋を這い上がった。

 男の輪郭は不気味に細長く、肌はどす黒い土色をしているが、その眼差しには得体の知れない冷たさがあった。長く伸びた白髪交じりの髪は、手入れが行き届かずに歳月の重みを感じさせる。七十代ぐらいだろうか。

 男は黙ったまま懐から黒い小さな手帳を取り出し、深い皴の刻まれた手でゆっくりとページをめくり始めた。

『……川島葵』

 低く、乾いた声が葵の意識の内側に直接落ちてくる。

「な、なんで私の名前を知っているの!」

 上擦った声が店内に響き渡った。慌てて周囲を見渡すが、そこに広がっている異様な光景に、葵は目を見開いた。

 店内のすべてが止まっている。

 カップを持ち上げかけたまま静止した客。笑顔を浮かべたまま動かない店員。湯気の立ち上るコーヒーですら、そのスチームが空中で静止している。まるで空気そのものの流れが断ち切られたかのように、店内の時間がぴたりと凍りついていた。

 もちろん人の騒めきも、店内に流れていた音楽もまったく聞こえない。動いているのは葵と、目の前に座る黒ずくめの男だけ。

「こっ、これは一体……どういうこと……」

 震える声を絞り出す様を、男は面白そうに眺めている。乱れた前髪の間から覗かせるその瞳が不気味なほど深い。思わず吸い込まれそうになり、葵は慌てて目をそらした。

「これは、きっと……夢ね」

 そう呟きながら、席から立ち上がろうと身体を動かした瞬間、男が皺だらけの手を軽く持ち上げた。すると、まるで見えない手によって押さえつけられたかのように、葵の腰がどすんと沈み込む。

「たっ、立てないわ」

 心臓が早鐘のように鳴り、葵は慌てて黒ずくめの男を睨みつけた。

『なるほど……そなたは気性が強く、思念(ゆめ)も甘美だ』

 男の声が、どこか底知れぬ響きを帯びている。

「は? 何の話をしているのよ」

 葵が眉を顰めると、男は微かに口角を上げた。

『失うには惜しいほどの甘美な思念の持ち主よ』

「……私のこと?」

 思念? 失う? 葵は言葉に詰まった。何を意図しているのか全く掴めない。それでも、男の声には妙な説得力があった。

「あははは、これは夢でしょ? だったら早く目を覚まさなきゃ!」

 葵は大声で笑って見せると、強く瞼を閉じてみた。ところが夢から全然覚めない。胸の奥底にじわじわと得体の知れない不安が広がっていく。

『その思念……そなたの願いは?』

 男の声がやけに冷たく意識の奥深くまで響いてくる。

 そもそも、こんな得体のしれない他人に自分の望みなどを教える筋合いはない──そう喉元まで出かかった瞬間、黒い影がじわじわと葵の意識を侵食し始めた。頭の奥がじんわりと痺れるような感覚に襲われ、思考がゆっくりと曇っていく。

 ──私の願い? 何かしら……幸せ?

 ついさっきまであった警戒心はすっかり消え失せ、気づけば、自分でも捉えきれない心の奥底に手を伸ばし、漠然とした何かを探し当てようとしていた。ところが幼い頃から周囲にちやほやされ、欲しいものはいつも自然と手に入る環境にいた葵は、自分が何を欲しいかなど即答できない。

 もし病気の身であれば、普通に「健康」と答えるだろうが、三十六歳の葵は健康そのもの。それに外見も母親似で華やかだ。ぱっちりとした大きな瞳と色気のある厚い唇を気に入っている。また、物質的なもので困っているわけでもなかった。家計の管理は哲郎がしているため細かいことはわからないが、今のところ不自由はしていない。ならば──

「あ……新しい生活? みんなが羨むようなドラマチックな人生かしら?」

 心から自分が何を望んでいるのかもよく理解できずに、とりあえず口にしてみた。それでも言葉にした瞬間、ふと脳裏をよぎるものがあった。

 ──沙織を見返す──

 沙織は葵の長年の執着だった。

 黒ずくめの男はじっと葵を見詰めていたが、不意に口元が静かに歪んだ。

『新しい生活であれば丁度よい……その夢を掴め』

「ちょ、ちょっと待って!」

 葵は慌てて男の言葉を遮ったが、次の瞬間、葵の瞼が不自然に重くなった。抗う間もなく、視界が閉ざされる。

「いやっ! 何これ!」

 爪を立て、指を伸ばして必死に瞼を押し広げようとしたが、まるで接着剤で固定されたかのように、ぴくりとも動かない。

「いや……嘘でしょ……?」

 背中に冷たい汗が滲み、息が詰まった。

 やがて、遠くでざわめきが聞こえ始める。食器が触れ合う音、人々の会話、コーヒーを淹れる機械の蒸気音、それらが次第に鮮明になっていく。

 葵はゆっくりと呼吸を整えると、顔を上げた。目の前には変わらぬカフェの光景が広がっている。もう、黒ずくめの男の姿はどこにもない。

 思わず瞼へ手をやるが、何の違和感もない。しっかりと開いているし、視界もはっきりとしている。周囲を見渡し、店内の時計を確認してみた。時計の針は、九時十分を指したままだ。沙織がカフェを去ってから、ほんの数分しか経っていない。両手で包み込んでいるカップの中のコーヒーも、まだ温かい。

「……私ったら、テーブルで寝てしまったのね」

 葵は独り言のように呟いたが、背中にはじんわりと汗が滲んでいた。

 ──それにしても、どんな夢だったのかしら?

 つい先ほどまで鮮明だったはずの記憶が、指の間から零れ落ちる砂のように消えていく。夢の中で誰かと話をしていた気がするが、今はもうすべてが曖昧で、何も思い出せない。ただ、胸の奥に妙な熱が残っていた。まるで、何かを約束してしまったような──。

「まあ、いいわ……変な夢だったし」

 そう自分に言い聞かせるように呟くと、葵はコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がった。

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