第19話
夜風が頬を撫でる。
足元の闇が、葵を呼んでいる。まるで、二十年前の珠代と同じように──。
昼間はバルコニーからの山の景色が壮観だが、今は真っ暗闇だ。遠くに人家の光が点々と見えるが、ここから叫んだところで誰の耳にも届かないだろう。
カタン──。
背後で小さな音がした。振り向くと、哲郎が静かにバルコニーへ足を踏み入れるところだった。その動きが獲物を追い込む捕食者のように見えて、葵の喉が引きつった。
その瞬間、封印したはずの記憶が蘇る。
あの日、バルコニーの向こう側で赤い何かが揺れていた。
──赤い服の女性──
母だった。
バルコニーから放り出されたかのように、静かに落ちていった。
『松浦珠代を思い出したのか?』
哲郎の背後から、ずくめの男が言葉を投げかける。葵は哲郎と男を交互に見た。
──この男はすべてを知っているのか?
葵の背中に冷たい汗が伝った。恐怖で足がすくんで上手く動けない。
二十年前、珠代が病院を抜け出し、赤城山へ向かったと聞いた当時の葵は、母に会いたい一心でこの場所へ来た。裏庭へ回り、いつものように両親が隠していたスペアキーを岩の下から取り出そうとした、その時──。目の前に見えるバルコニーから、真っ赤な服を着た珠代が、勢いよく身を投げた。
あまりにも突然の出来事に、葵はただ、赤い影が宙を舞うのを見守ることしかできなかった。
そして、葵の視線の先で、珠代を見送るかのように庄吉がバルコニーに立っていた──。
瞬間、手が伸び、不意を突かれた葵は捕まった。哲郎の大きな手にしっかりと掴まれ、身動きが取れない。
「離して!」
二十年前とまったく同じ状況に陥る恐怖に、葵の全身が震えた。あの時も、珠代と庄吉は言い争っていた。裏庭にいた葵の耳にも、その激しい口論は届いていた。
「このバルコニーは修理が必要だ、危ないからこっちに来い!」
哲郎は葵の左手を引っ張り、部屋へ戻そうとする。その時、遠くでサイレンが鳴り始めた。豊が呼んだ警察が、もうすぐここへ来る。
「みんなで私を病人扱いして!」
葵は力を振り絞り、身をそらして哲郎から逃れると、右手を伸ばしてバルコニーの手すりを掴んだ。
「葵! その手すりを放せ! 危ない!」
「嫌よ! 放っておいて!」
その瞬間、ガタンという大きな音と共に掴んでいた手すりが崩れ、葵の体がバルコニーから投げ出され、足場を失った。
「危ない!」
哲郎の右手が咄嗟に葵の左手を掴んだ。宙に浮いた葵の体は、かろうじて彼の腕一本に支えられている。ここは建物の二階だが、下は険しい傾斜と岩だらけの地面。ここから落ちれば、珠代と同じ運命を辿ってしまう。
「は、放さないで……!」
「じゃあ……このあと病院に行くって、約束しろ!」
「こんな状況で交渉しようというの!」
哲郎の打算的な言葉に、葵の顔が歪んだ。哲郎はふっと笑うと、
「お前が病院に入院すれば、みんなが納得する。別に一生じゃない。少しの間だ」
余裕な態度で葵に選択を迫った。確かに哲郎の力なら、葵をこのままバルコニーに引っ張り上げられるだろう。徐々に葵の指先にじわじわと力が入らなくなっていく──。
「……お母さんの時だって、皆同じことを言ってたわ……」
病院に入ってしまえば、なかなか出られなくなることぐらい知っている。珠代の時もそうだった。
──哲郎の甘い言葉には裏がある──
今まで、哲郎は父の期待に応えた申し分のない夫だったと思っていたが、とんでもない誤算だった。いや、哲郎はもともとこんな非情な男ではなかった。いつの間にか変わってしまったのだ。
結婚した頃の哲郎は優しかった。それなのに、いつからか父の会社に対して異常な執着を見せるようになった。
庄吉の死が、哲郎を変えたのか、それとも、最初からこうなる運命だったのか。会社のために妻を排除しようとする夫。
「あははは、会社のためにそこまでするのね……見損なったわ!」
葵は乾いた笑いを浮かべながら哲郎を見上げた。
「仕方ない。己の呪縛を解くには、夢を現実に叶える必要があるんだ」
「えっ……」
葵の顔が蒼白になった。今さっき、黒ずくめの男が言った言葉と、まったく同じだ。男の姿が見えるのは自分だけだと思っていたのに、哲郎にも見えていたのか?
「俺の夢は家督を受け継ぐことだ。どんな形であってもね」
「……どんな形でも……?」
哲郎の言葉には妙に重々しい響きがある。葵は透かさず返した。
「現場監督のお前が、お父さんの会社をどうやって受け継ぐのよ! 今は豊が全権を握っているというのに──」
そして、静香に子供ができた。
その意味を、哲郎は理解しているのだろうか? 葵と珠代しか知らない秘密を──。
『選ぶのはそなただ。夢を掴め』
気がつくと、黒ずくめの男が哲郎の横で囁くように微笑む。その言葉は哲郎に対してなのか、それとも自分に投げかけたのか。葵は二人を見上げると、息を呑んだ。
「この男に夢を与え続ければ、抜け殻になる……その塩梅がなかなか難しいんだ」
哲郎はどこか悲しげに微笑むと、握っていた葵の左手を放した。




