表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
寄生体  作者: 星乃夜衣
19/20

第19話

 夜風が頬を撫でる。

 足元の闇が、葵を呼んでいる。まるで、二十年前の珠代と同じように──。



 昼間はバルコニーからの山の景色が壮観だが、今は真っ暗闇だ。遠くに人家の光が点々と見えるが、ここから叫んだところで誰の耳にも届かないだろう。

 カタン──。

 背後で小さな音がした。振り向くと、哲郎が静かにバルコニーへ足を踏み入れるところだった。その動きが獲物を追い込む捕食者のように見えて、葵の喉が引きつった。

 その瞬間、封印したはずの記憶が蘇る。

 あの日、バルコニーの向こう側で赤い何かが揺れていた。

 ──赤い服の女性──

 母だった。

 バルコニーから放り出されたかのように、静かに落ちていった。

『松浦珠代を思い出したのか?』

 哲郎の背後から、ずくめの男が言葉を投げかける。葵は哲郎と男を交互に見た。

 ──この男はすべてを知っているのか?

 葵の背中に冷たい汗が伝った。恐怖で足がすくんで上手く動けない。

 二十年前、珠代が病院を抜け出し、赤城山へ向かったと聞いた当時の葵は、母に会いたい一心でこの場所へ来た。裏庭へ回り、いつものように両親が隠していたスペアキーを岩の下から取り出そうとした、その時──。目の前に見えるバルコニーから、真っ赤な服を着た珠代が、勢いよく身を投げた。

 あまりにも突然の出来事に、葵はただ、赤い影が宙を舞うのを見守ることしかできなかった。

 そして、葵の視線の先で、珠代を見送るかのように庄吉がバルコニーに立っていた──。

 瞬間、手が伸び、不意を突かれた葵は捕まった。哲郎の大きな手にしっかりと掴まれ、身動きが取れない。

「離して!」

 二十年前とまったく同じ状況に陥る恐怖に、葵の全身が震えた。あの時も、珠代と庄吉は言い争っていた。裏庭にいた葵の耳にも、その激しい口論は届いていた。

「このバルコニーは修理が必要だ、危ないからこっちに来い!」

 哲郎は葵の左手を引っ張り、部屋へ戻そうとする。その時、遠くでサイレンが鳴り始めた。豊が呼んだ警察が、もうすぐここへ来る。

「みんなで私を病人扱いして!」

 葵は力を振り絞り、身をそらして哲郎から逃れると、右手を伸ばしてバルコニーの手すりを掴んだ。

「葵! その手すりを放せ! 危ない!」

「嫌よ! 放っておいて!」

 その瞬間、ガタンという大きな音と共に掴んでいた手すりが崩れ、葵の体がバルコニーから投げ出され、足場を失った。

「危ない!」

 哲郎の右手が咄嗟に葵の左手を掴んだ。宙に浮いた葵の体は、かろうじて彼の腕一本に支えられている。ここは建物の二階だが、下は険しい傾斜と岩だらけの地面。ここから落ちれば、珠代と同じ運命を辿ってしまう。

「は、放さないで……!」

「じゃあ……このあと病院に行くって、約束しろ!」

「こんな状況で交渉しようというの!」

 哲郎の打算的な言葉に、葵の顔が歪んだ。哲郎はふっと笑うと、

「お前が病院に入院すれば、みんなが納得する。別に一生じゃない。少しの間だ」

 余裕な態度で葵に選択を迫った。確かに哲郎の力なら、葵をこのままバルコニーに引っ張り上げられるだろう。徐々に葵の指先にじわじわと力が入らなくなっていく──。

「……お母さんの時だって、皆同じことを言ってたわ……」

 病院に入ってしまえば、なかなか出られなくなることぐらい知っている。珠代の時もそうだった。

 ──哲郎の甘い言葉には裏がある──

 今まで、哲郎は父の期待に応えた申し分のない夫だったと思っていたが、とんでもない誤算だった。いや、哲郎はもともとこんな非情な男ではなかった。いつの間にか変わってしまったのだ。

 結婚した頃の哲郎は優しかった。それなのに、いつからか父の会社に対して異常な執着を見せるようになった。

 庄吉の死が、哲郎を変えたのか、それとも、最初からこうなる運命だったのか。会社のために妻を排除しようとする夫。

「あははは、会社のためにそこまでするのね……見損なったわ!」

 葵は乾いた笑いを浮かべながら哲郎を見上げた。

「仕方ない。己の呪縛を解くには、夢を現実に叶える必要があるんだ」

「えっ……」

 葵の顔が蒼白になった。今さっき、黒ずくめの男が言った言葉と、まったく同じだ。男の姿が見えるのは自分だけだと思っていたのに、哲郎にも見えていたのか?

「俺の夢は家督を受け継ぐことだ。どんな形であってもね」

「……どんな形でも……?」

 哲郎の言葉には妙に重々しい響きがある。葵は透かさず返した。

「現場監督のお前が、お父さんの会社をどうやって受け継ぐのよ! 今は豊が全権を握っているというのに──」

 そして、静香に子供ができた。

 その意味を、哲郎は理解しているのだろうか? 葵と珠代しか知らない秘密を──。

『選ぶのはそなただ。夢を掴め』

 気がつくと、黒ずくめの男が哲郎の横で囁くように微笑む。その言葉は哲郎に対してなのか、それとも自分に投げかけたのか。葵は二人を見上げると、息を呑んだ。

「この男に夢を与え続ければ、抜け殻になる……その塩梅がなかなか難しいんだ」

 哲郎はどこか悲しげに微笑むと、握っていた葵の左手を放した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ