第18話
記憶が次々と蘇る。胸の奥に沈殿していた泥が掻き乱され、濁流となって押し寄せるようだった。珠代は二十年前、この場所で死んだのだ。赤いドレスを翻して、バルコニーから落ちていった──。
「珠代さんは多重人格障害を抱えていて、長らく苦しんでいたそうだ。最後は病院を抜け出して、この場所に来ると、バルコニーから飛び降りたと……古い友人から聞いた」
哲郎は言葉を一旦切ると、息をついた。
「私に……多重人格障害なんてないわ……だから、病院なんて行かない」
葵は思わず両腕を抱え込んだ。声が震え、足元がふらつく。このまま床に崩れ落ちそうだった。
「お前は珠代さんに似ているからって、庄吉さんもずっと心配していたんだ。葵、頼むから東京の病院に一緒に行こう」
「何を言ってるの哲郎! 私はおかしくなんかないわ! 前々から変な黒ずくめの男が話しかけてくるだけよ!」
そう叫ぶと、哲郎の表情が一瞬揺れた。
壁に寄り掛かっている黒ずくめの男。葵の視界の端で、男は静かに佇んでいる。艶やかな黒い長髪に美しい輪郭。目が合った瞬間、その形の良い唇の端がわずかに弧を描いたように見えた。
──笑っている?
葵の表情が一瞬強張った。透かさず哲郎に視線を戻したが、男の存在に気づいていないのか、無言のままスマートフォンを作業服のポケットから取り出した。
「どこに電話するの?」
まさか、警察に通報するのか。
葵は息を呑んだが、哲郎は視線を逸らさずに答える。
「まずは豊君だ。葵を見つけたってね……みんなお前のことを心配してるんだ」
哲郎が連絡を入れると、豊はすぐに電話に出た。
「ああ、豊君。葵は見つけたよ。ああ、やっぱり赤城山の家にいた。──そうか、ありがとう。ちょっと待っててくれ」
そう言うと、哲郎はスマートフォンを葵に差し出した。葵が見上げると、哲郎は軽く頷く。葵は手を伸ばして、哲郎から受け取ると、恐る恐る耳に当てた。
「もしもし……」
「姉さん! よかった、本当に無事で」
一瞬、電話の向こうから安堵のような声が聞こえたが、直後に豊の声色が低く変わる。
「……また、お袋の時みたいなことにならなくて、本当によかった」
「私は、お母さんとは、違う!」
葵は咄嗟に言い返すが、声が裏返って上手く口から出てこない。
「にゅ、入院なんか、しない!」
──自分は違う! 多重人格者ではない──
奇妙な男が話しかけてくる度に、その時の記憶を忘れてしまうだけで、人格が幾つもあるわけではない。
「姉さん、このままだといつか誰かが傷つく──」
豊はいったん息をつくと、そのまま話を続けた。
「──静香が危うく流産するところだったんだ……姉さんだって知ってるだろう? ようやくできた子供なんだ……わかってほしい」
豊の声は震えていたが、その裏にうっすらと恐怖と怒りが混じっていた。
その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。豊を救えなかったという嫌悪と不甲斐なさが入り混じり、葵はスマートフォンを耳に当てたまま、天井を仰いだ。
「あははは!」
葵は顔を引きつらせながら、高笑いをした。
「豊……あんたは──」
喉まで出かかった言葉を葵は飲み込んだ。
松浦家の男は代々、女に弱腰だ。父も豊も──。真実は時にして残酷だ。知らない方がいい時もある。子供が順調に成長すれば、いずれ真実を突きつけられるだろう。その時、豊は何を思うのか──。
「もういい……警察を呼んだ。姉さんを守るためにね……もうそっちに着く頃だと思う」
豊は冷たく言い放った。
「えっ? 警察?」
一瞬にして、血の気が引いた。哲郎を見ると、無言で頷いている。
「私は、何も悪いことをしていないわよ!」
「これが一番いい方法だと思う。ごめん、姉さん」
電話越しに響いた豊の声は暗く、そして微かに震えていた。家族だったはずの弟が、自分を病院に追いやろうとしている。葵の頭の中で何かが軋んだ。
「この、裏切り者! よくも! お前の顔なんか、もう見たくもないわ!」
追い詰められた獲物のように葵は肩を震わせて声を絞り出すと、握っていた哲郎のスマートフォンを勢いよく床めがけて叩きつけた。甲高い破砕音が響き、画面が蜘蛛の巣状に割れた。葵の全身が震え、涙が溢れそうになりながらも、壁に優雅に寄り掛かる男を睨みつけた。
「何とか言ったらどう?」
そもそもこの男のせいだ。一か月前くらいに突然現れて、〝願い〟を聞いてきたのが全ての始まりだった。
『己の呪縛を解くには、夢を現実に叶える必要がある』
男は嫣然とした笑いを浮かべると、懐から黒い手帳を取り出し、艶めかしいその指でページをめくる。
『川島葵……三月二十一日……願いは新しい生活』
確かに願ったはずだった。みんなが羨むような、豪華でドラマチックな人生を。
だが、これは違う!
「あははは、これは夢ね、そうでしょう?」
そう言って、葵は笑いながら哲郎に向き直った。
「ああ、夢ならばどんなによかったか……」
哲郎は哀れむように呟くと、手を伸ばした。
葵は反射的にその手をふり払うと、哲郎から逃げるようにベランダに飛び出した。




