第17話
静まり返った家に、甲高い着信音が無遠慮に鳴り響いた。
「こんな夜遅くに……」
冴子は眉をひそめた。夜の十時前、照明を落としたリビングにはテレビもつけておらず、呼び出し音だけがやけに生々しく部屋中に響き渡る。
二度立て続けに鳴ると、さすがに無視しきれない。仕方なくソファから身を起こし、テーブルにあったスマートフォンに手を伸ばした。画面に表示された名は川島哲郎。
「やはり……」
冴子は小さく溜息をついた。
こんな時間帯に掛けてくるのだ、ろくでもない話に違いない。最初は様子見で無視したが、間髪入れずに再び掛けなおしてきたところを見ると、義息子は本気で切羽詰まっているのだろう。
冴子はようやく通話ボタンを押した。
「もしもし──」
「冴子さん、夜分すみません」
珍しく、哲郎の声に焦りが滲んでいる。普段は無駄に丁寧で落ち着いた物言いを崩さない男だ。冴子は体をソファに戻しつつ、あくまで冷静に応じた。
「どうされましたの、哲郎さん」
そう尋ねるも、すぐに察しがついた。大方、葵のことで問題が起きたのだろう。あの娘は昔から、家族の平穏を乱す存在だった。
「実は……葵が赤城山の家に向かっているようなんです。今から彼女を追いかけますが、中に入る許可をいただけますか?」
「えっ? あの子、こんな時間に、あんな山奥へ?」
冴子は思わず身を乗り出した。四月とはいえ、夜の山は冷え込む。
山道の先にある赤城山の古い家は、今ではほとんど手つかずのまま放置されている。何より〝悲劇〟の詰まった、いわくつきの物件だ。勝手に入られてはたまらない。だが同時に、どこか納得する自分もいた。
──やっぱり血は争えないものだわ──
庄吉がかつて語っていたことを思い出す。
珠代はある時期から何かに怯えるようになり、奇妙な言動を繰り返すようになったという。それ以上は語られなかったが、彼女が赤城山の山荘で亡くなったことだけは冴子も知っていた。
ある夜、珠代は赤城山へ一人で向かい、そのまま戻らなかった──。
だから冴子は、あの薄気味悪い家を早々に処分してしまいたかった。
相続人会議で、松浦家代々の持ち家である山荘を冴子が引き継ぐと知らされたとき、彼女は一瞬ためらいながらも、庄吉が果たせなかった役目を、自分が背負うのだと受け止めたのだった。
「わかりました。哲郎さん、行ってあげてください。あの子には、もう何を言っても無駄でしょう。山荘に入ることは許可します」
「ありがとうございます」
電話の向こうで、哲郎がほっと息を漏らす気配がした。
冴子は少しだけ声を落とし、静かに言葉を重ねる。
「珠代さんの時のように……あの子を病院へ連れていくかどうかも、哲郎さんの判断に任せますわ」
かつて庄吉が珠代を病院に閉じ込めたように。
そして今度は哲郎が葵をそうするのだろう。
通話を切ると、家には再び静寂が戻った。壁時計の針の音だけが夜を刻んでいる。冴子はスマートフォンをテーブルに置くと、ふっと小さく息を吐いた。
──やはり、血は争えない──
ゆっくりと椅子にもたれながら、冴子はつくづくそう思った。
***
最近、意識が飛ぶことが多い。気がつくと、記憶のどこかにぽっかりと空白ができている。そして、そういうときに限って、誰かと話をしていたような生々しい感覚だけが残っている。笑った気配、頷いた感触、誰かに諭されるような声──けれど内容は全く思い出せない。
──何なのよ、これは!
葵は前髪をかきあげると、窓の外に視線を向けた。哲郎が言うように、本当に頭がどうかしてしまったのだろうか。
ついさっきまで確かに沙織のマンションで紅茶を飲んでいた。カップの縁についた薄い口紅の痕まで覚えている。それなのに、気づけばタクシーのシートに身体を沈め、横には大きなバッグ──。
外はすっかり夜の闇。腕時計に目を遣れば、時刻はすでに九時半を過ぎている。哲郎はもう帰宅しているだろう。でも、電話をかけようという気は微塵も浮かばなかった。どうせ信じてもらえない。哲郎とは平行線をたどるだけだ。
──このままでは、本当に病院送りにされる──
それがたまらなく癪に障った。治療だとか保護だとか、聞こえのいい言葉を並べても、珠代と同じ道を辿ることは明らかだ。哲郎だけじゃない。静香や豊も、皆が異様に思えた。
──それにしても、どこに向かっているのかしら?
車窓の外に目を凝らしてみる。だが、闇に沈む風景はぼんやりと流れていくだけで、どこを走っているのか見当がつかない。胸の奥がざわつき、思わず声をかける。
「すみません、今どのへんですか?」
自分でタクシーに乗っておきながら、いまさら目的地を運転手に尋ねるなんておかしな話だ。それでも確認せずにはいられなかった。
「赤城の道ですよ。山のほうに向かってます」
気さくな声が返ってきた。その瞬間、葵の頭の奥で何かが弾けた。視界がぐらりと揺れ、断片的な記憶が押し寄せる。
「赤城山麓の……山荘……」
低く呟いた言葉が、じわりと現実感を帯び始める。体の内側から何かが這い上がってくるような感覚。
葵は冴子が相続した赤城山の麓にある山荘に向かっていた。自分の意思で訪れることを決めたのか、それとも別の誰かのなのか──それすら曖昧だ。タクシーは静かに夜の坂道を登り続ける。
松浦家が所有する家の表門前に到着すると、葵は車から降りた。まるで闇に落ちた山荘が待ちわびているかのようだった。タクシーが走り去るのを見届けると、低い石垣を乗り越えて敷地内に入る。山奥の家の門や塀など、あってないようなものだ。
この家は冴子が相続したとはいえ、代々松浦家が所有する不動産だ。幼い頃、両親と豊の四人で夏の間を過ごした思い出の詰まった場所でもある。
葵には父の考えが理解できなかった。なぜ庄吉は、代々松浦家が所有する家を後妻である冴子に明け渡したのか。案の定、冴子はこの場所を早々と売り払い、東京に移り住む予定だ。前橋の家は、庄吉が冴子と再婚した際に購入したものだ。庄吉が亡くなった今、それをどうしようと冴子の自由だが、この山荘は違う。
ふと、葵の背後で小さな音がした。振り向くと、黒ずくめの男が玄関の前に立ち、まるで闇から浮かび上がるような白い指でドアノブをなぞっている。
『鍵がかかっている……』
「当たり前でしょう? こっちよ」
葵はそう言うと、男を裏庭に案内した。手慣れた手つきで、花壇の隅にある形のよい小さな岩を持ち上げる。すると、その下にはちゃんと鍵があった。葵はほっと息をつく。
「裏戸の鍵よ」
鍵を拾い上げ、岩を元の場所に戻すと、葵はゆっくり家の裏へと向かった。
──ここに来るのは何十年ぶりだろうか──
がらんとした二階建ての家に足を踏み入れると、ひんやりと湿った空気が流れ込んできた。夏の間だけ使われていた山荘でも、父が維持していたおかげで、電気は今も問題なく通っている。
葵は懐かしそうに家の中を歩き回った。壁紙や床こそ新しくなっているが、部屋の配置や家具の位置は昔の記憶のままだ。それでも、キッチンだけは大幅に改装されている。初めのうちは庄吉も、この場所を改築するつもりだったのだろう。
「全然変わってなくて驚きだわ。お父さん、冴子さんと結婚してから、ほとんどここに来てなかったんじゃないかしら?」
ぽつりと呟きながら、満足げに室内を見て回った。この場所には母の面影がある。庄吉が冴子とここを訪れることを避けていたからこそ、昔のままの姿で残されているのだろう。
葵は思い出に浸りながら、ゆっくりと階段を上がり、二階へ向かった。そこには三つの部屋がある。一番広い部屋にはバルコニーがついていたはずだ。
各部屋のドアを開けて中を覗くと、どれも記憶の中の光景と寸分違わなかった。ただ、バルコニー付きの大きな部屋だけが異様な空気を放っていた。家具はすべて白い布で覆われ、まるでこの部屋だけ時間が止まったかのように、静けさが際立つ。
葵は吸い込まれるように部屋へ足を踏み入れると、視線を部屋の奥へ向けた。そこにあるクローゼットだけが、なぜか浮き上がって見える。
一瞬の躊躇いの後、葵は静かにクローゼットの扉に手をかけた。
中には衣類がハンガーに掛けられ整然と並んでいる。
葵は眉を顰めると、手を伸ばしてハンガーを掻き分け、ゆっくりと一着ずつ指でなぞった。見覚えのある柄、鮮やかな色のドレス──以前の葵が好むようなデザインや色彩だ。ふと、葵の指が止まる。
「……お母さんの服……」
珠代も葵と同じく、色鮮やかな服を好んでいた。クローゼットの中に並ぶのは、かつての母が愛した華やかな衣装ばかりだった。
「どうして処分しなかったのかしら……」
珠代が亡くなってから、もう二十年近く経つ。それなのに、なぜ今でも母の衣装がクローゼットの中にあるのだろうか。
「最後にこの山荘を訪れたのはいつだったかしら?」
記憶が曖昧で、はっきりと思い出せない。葵は戸惑いながらも、目についた深紅のドレスを取り出した。
「これは、お母さんのお気に入りの赤いドレス……」
その瞬間、華やかだった珠代の姿が奥底から目覚める。地味で影のような存在の父とは対照的に、母は気性が強く、やること全てが派手で目立った。
葵は部屋を見渡し、鏡を探した。母の部屋なら必ず大きな鏡があったはずだ。視線を巡らせると、白い布がかけられてはいるが、隅に何かがある。葵はそっと手を伸ばし、埃まみれの布を引き剥がした。
そこに現れたのは、古びた木目調の姿見だった。右上にひびが走っているものの、全身を映すには十分な大きさだ。葵はゆっくりと鏡の前に立ち、手にした深紅のドレスを身体にあててみた。鏡の中で、その鮮やかな赤が葵の肌に映える。まるで珠代が、そこに立っているかのように姿が重なって見えた。
『よく似合っている』
背後から低い男の声がした。葵が鏡越しに男を見ると、そこには、もうすでに美しい青年の姿を手に入れた男が立っていた。
「……この赤いドレスは、母のお気に入りだったわ」
そう呟きながら、葵の指が赤い布地をそっとなぞる。
──真っ赤な、鮮血のような赤。お母さんはこのドレスを着て──
その瞬間、あの日の記憶が葵の中で鮮明に蘇った。
二十年前のあの日、珠代はこの真っ赤なドレスを着ていた。そしてその後、珠代は──。
「珠代さんは、この部屋のバルコニーから身を投げたんだ」
突然、背後から低い声が落ちた。その聞き覚えのある声に、葵の肩がぴくりと震える。近づいてくる足音が床板を軋ませる。
ゆっくりと振り返ると、部屋の入口に作業服姿の哲郎が立っていた。驚きと動揺が絡み合い、深紅のドレスが葵の指先からすり抜け、床に落ちた。哲郎の鋭い視線が、まるで冷たい指先のように葵の喉に絡まる。
「て、哲郎……なぜここに……」
葵の声は掠れ、動揺が隠しきれなかった。哲郎は埃っぽい室内を見渡しながら、ゆっくりと足を踏み入れる。葵は息を呑み、思わず一歩後ずさった。
「……古い友人に、お前がこの赤城山の家にいると聞いて、車を飛ばしてきた。冴子さんからも、この家に入る許可は取ってある」
その声はどこか遠く、淡々としていた。
「古い友人?」
葵は眉を顰めた。一瞬、沙織のことかと思ったが、彼女が入浴中に黙ってあのままマンションを去ったのだ。あのあと葵がタクシーで赤城山に向かったことなど彼女は知るはずがない。
哲郎は一瞬、微かに口角を上げ、それから低く呟いた。
「それと、沙織さんが血相を変えて家に尋ねてきたよ。葵が彼女のマンションから忽然と消えたとね。丁重に謝っておいたから大丈夫だ。彼女も葵の状況に理解を示している」
その言葉に、葵は一瞬、息を呑んだ。〝状況に理解を示している〟とは、つまり沙織も哲郎の話を信じているということだ。
「……じゃあ、古い友人って誰のことよ」
葵は目の端で、ちらりと黒ずくめの男を捉えた。美しい青年に変貌した男は、優雅に腕を組み、その背中を壁に預けるようにして、先ほどから葵と哲郎の話に耳を傾けている。
哲郎はゆっくりとした足取りで部屋の中に入ってくると、床に落ちた深紅のドレスに視線を落とした。その眼差しは、まるで軽蔑するかのように冷たい。
「その服は赤いから、血が飛び散っても目立たないだろう?」
哲郎の言葉に一瞬、葵は眉間にしわを寄せるが、次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……なんで哲郎が、そのことを知っているの……?」
葵は足元に落ちた赤いドレスを凝視した。今まで必死に心の奥底に押し込んできた記憶を哲郎は引きづり出そうとしている。
「古い友人から聞いたよ。二十年前、この場所で起きた全てをね」
そう言うと、哲郎は妙に優しい眼差しを葵に向けた。
「それよりも、葵。お前は今、珠代さんの気持ちが分かるか?」
息が詰まりそうになり、葵は哲郎を見上げた。
「──彼女もお前と同じだったからさ」
哲郎の声が鋭く突き刺さり、葵は目を見開いた。
「お前と同じように、珠代さんも……苦しんでいた」
「……どういう意味?」
哲郎は壁にもたれる男を一瞥し、それから静かに告げる。
「人格が、幾つもあったんだ」




