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寄生体  作者: 星乃夜衣
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第16話

 今は悪魔よりも、自分の夫のほうが恐ろしい。

 家に留まれば、いずれ哲郎によって病院へ連れて行かれる。それがどれほど恐ろしいことか、母の経験からも葵は薄々と理解していた。名目だけは〝治療〟だったが、母は監禁されたに等しかった。

 ──哲郎から逃げるしかない──

 問題は、逃亡先に頼れる人間がほとんどいないということだった。友人の数はもとより少ない。葵は昔から我儘で、気まぐれだ。好きなものには熱中しても、興味が失せれば途端に切り捨てる。その生き方のせいで誰も寄り付かない。かろうじて思い浮かぶのは大学時代の友人、沙織だけだった。

 沙織は幼い娘と二人で前橋駅付近のマンションに住んでいる。時刻は午後七時半を少し回ったところ。夜に小さな子どものいる家へ押しかけるのは気が引けた。しかし、今夜この家にいればすべてが終わる。考える暇はなかった。

 葵はクローゼットを開け、手当たり次第に衣類と化粧品を大きめのバッグへ放り込み、財布とスマートフォンを確認すると玄関に向かった。

 ──哲郎が帰宅するまで、まだ時間がある──

 葵は自分に言い聞かせるように、鍵を静かに閉めた。



「びっくりしたわ、こんな時間に突然訪ねてくるなんて」

 そう言って沙織は、湯気の立つ紅茶とクッキーの皿を葵の前に置いた。甘い香りが室内にふわりと広がる。

「娘さんは?」

 葵はカップを手に取り、さり気なくリビングを見渡した。整った家具配置や照明、柔らかい色のカーテン。インテリアは整然としているが、床には転がる絵本やパズルのピースが散らばっており、生活の温度があった。

「ふふっ、ちゃんと八時には寝るのよ。いい子でしょ?」

 沙織は嬉しそうに微笑んだ。

 母親となった沙織の横顔を、葵は横目でぼんやりと眺めた。壁時計は八時半を指している。二歳児にとっては十分遅い時間だろう。

 ふと、葵の胸が締め付けられた。自分が幼い頃には、こんな穏やかな夜はあったのだろうか。母は沙織のように優しい眼差しを向けてくれただろうか。

「それで……どうしたの? 急に話があるなんて」

 沙織はカップを手にしながら、探るように尋ねてきた。葵は少しだけ視線を落とし、息を整えてから口を開く。

「ちょっと今……家に帰れなくて……」

「まあ、哲郎さんと喧嘩でもしたの?」

 沙織の目がわずかに見開かれた。そんな彼女の反応に、葵は思わず苦笑する。

 結婚して十年間、思い返してみても、夫婦喧嘩らしいものはなかった。哲郎が表面上、すぐ折れるせいで口論に発展しなかっただけだ。それは愛情ではなく、自分を制御するための方法だったのだと、今なら分かる。

「まあ、そんな感じかな……」

 葵はカップをテーブルに置き、ため息交じりに答えた。

 真実、哲郎が自分を精神病院に収容しようとしている。しかし、そのことは口が裂けても言えない。知られれば最後、沙織は哲郎に連絡をするか、葵を家から追い出すだろう。

 そんな一抹の不安を抱えながら、沙織に視線をちらりと向ける。

「だから、今夜は沙織のマンションに泊まらせてもらえるかな? このソファでいいから」

 葵は座っているソファを手で軽く叩いた。

「……いいけど、哲郎さんは葵がここにいることを知っているの?」

 沙織の声には、わずかに迷いが滲んでいた。

「大丈夫よ。私が友達の家と言ったら沙織しかいないって、哲郎も分かるはず」

 葵は誤魔化すように、にっこりと大きく笑った。

「じゃあ、私は明日仕事で早いから、先にお風呂をいただくわね」

 沙織はそれ以上追及せず、リビングを出て行った。



 葵はソファに座ったまま、ぼんやりと天井を見上げた。

 以前なら沙織のすべてに対し競争心を掻き立てられたはずだ。容姿、成績、就職、結婚、すべてにおいてだ。あらゆる分岐点で沙織を超えることだけが長年の執着だった。

 それなのに、今は違う。胸の内にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残り、なにも湧かない。子供のいる生活を目の当たりにして、毒気を抜かれてしまったのだろうか。

 ──まるで、私の中の何かが消えてしまったような──

 そのとき、不意に空気が変わった。

 道路に面した窓から聞こえていた車の音が消え、リビングが不自然な静寂に包まれる。まるで、時間が止まったかのようだ。見覚えのある感触に、まとわりつく空気──。

「何の用よ」

 葵はゆっくり振り返り、鋭い視線を向けた。黒ずくめの男がそこにいる。

 ──この男のせいで自分は精神病院送りにされかけている──

 それなのに、男はその形のよい唇に挑発するような笑みを浮かべ、楽しげに葵を見つめている。

『そなたの友人は疑っている……夫に連絡を入れるだろう』

「えっ、哲郎に……?」

 葵は反射的に壁時計を見た。そろそろ九時を回る。哲郎が帰宅する頃だ。

「ここを出なきゃ……」

 心臓が早鐘のように打っている。今ここで、哲郎に捕まるわけにはいかない。唯一頼れる沙織も、哲郎に説得されれば、彼を全面的に信用するはずだ。

 葵はバッグを掴み立ち上がった。沙織に声をかけることすらできない。言えば止められる。あるいは不審がられてその場で哲郎に連絡されるだろう。

 ──もう、行く場所は一つしかない──

 葵はこっそりと沙織のマンションを抜け出した。玄関のドアを静かに閉めた瞬間、温もりがあった灯りは一瞬にして過去のものとなった。

 そして、この夜を最後に、葵が沙織と会うことはなかった。

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