第15話
豊が病室に駆けつけると、静香はベッドに横たわりながら、ぼんやりと白い天井を見つめていた。点滴の管が腕に繋がれ、薄いシーツの上に置かれた手は頼りなく細い。
豊はベッドの傍に椅子を引き寄せ腰を下ろすと、そっと静香の手を包み込むように握った。
「無事でよかった。本当に……」
押し寄せてきた恐怖に胸を締めつけられ、声が震えた。もし流産していたら──そう考えるだけで背筋が冷える。豊にとって、念願の子供だ。
静香はゆっくりと豊に視線を向け、その清楚な唇の端をわずかに持ち上げるが、その笑みはどこか弱々しい。
「もう大丈夫よ。赤ちゃんも……無事だったみたいだし」
今回の腹痛と出血の原因はストレスだと医師は言ったが、豊には別の不安があった。
「すまない……姉さんのこと、もっと早く手を打つべきだった。だけど、もう大丈夫だ。入院できる病院を探してる」
「入院できる病院……?」
静香が怪訝そうに眉を寄せる。
「ああ。姉さんはきっと……心を病んでるんだ。親父が亡くなってから、どこか別人みたいで……」
哲郎から聞いた昨晩の呪詛めいた葵の行動を頭に浮かべたが、静香には口が裂けても言えない話だった。第一に、ようやく授かった胎児を「悪魔の子」と叫んだのだ。豊は首を横に振る。
「……哲郎さんは?」
「義兄さんも同じ考えだ。二人で病院を探してる」
豊は励ますように微笑むと、静香に添えていた手に力を込めた。だが、静香は目を伏せ、小さく息を吐くように呟く。
「きっと罰ね……」
そのまま、窓の外へと視線をそらした。
「罰?」
豊は聞き返すが、静香は答えず、ただ窓の外に広がる春の空をぼんやり眺めているだけだった。
***
哲郎の胸の奥に、何ともいえない焦燥感が渦巻く。問題のすべてが一度に押し寄せてきて、何から手をつけるべきかも分からない。頭が痛い。肩が重い。哲郎は常備している頭痛薬を口の中に放り込むと、ペットボトルの水で流し込んだ。
仕事を早めに切り上げるつもりだったが、時計を見ればすでに十九時を回っている。病院の面会時間は二十時までだ。哲郎は車に飛び乗り、急いでエンジンをかけたその時、スマートフォンが鳴った。画面には豊の表示。哲郎は深く息を吸い込み、冷静さを装いながら通話ボタンを押す。
「豊君、静香さんは大丈夫だったか?」
胸の奥からこみ上げる不安と苛立ちで喉が詰まりそうになったが、努めて冷静に尋ねた。
「極度のストレスによる子宮収縮と診断されたけど、流産は免れた。ただし、絶対安静を医師から言い渡されている」
油断はできないが、母子ともに無事だった。その事実に、哲郎はほっと胸をなでおろした。電話越しに聞こえる豊の調子も落ち着いている。
「義兄さん、病院の件だけど、医者の知人に当たってみたよ。それで、東京にいくつか精神科の病院があるから、紹介状を書いてくれるみたいだ」
「そうか、それなら安心だ。静香さんのストレスも、葵が原因だろうから──」
そう言いかけたところで、哲郎は一度言葉を止めた。
──昨夜、葵がやっていた呪いめいた行為が静香に影響を及ぼしたのか?
馬鹿げているが、タイミングがあまりにも一致しすぎている。だが、哲郎はすぐに打ち消した。やはり、そんな非現実的なものを信じるわけにはいかない。
「今回のことで、すっかり参ったよ……じゃあ、病院の詳細をメールで送るから、できるだけ早く決めよう」
豊はすでに病院をいくつか絞っているようだった。
「ああ、家に帰ったら目を通しておく。……豊君はまだ病院にいるのか?」
「いや、俺は一回会社に戻った。もう少ししたら、また静香の様子を見に病院に戻る」
「大変だな……頑張れよ」
そう短く告げると、哲郎は通話を切った。
──どちらにせよ、葵は東京に行くのか──
まさかこんな形になるとは想像もしていなかった。
ふと苦笑がこみ上げそうになったが、それを押し殺し、表情を引き締める。哲郎は静かに息を吐くと、ハンドルを握りしめ、静香のいる病院へと車を走らせた。
病院に着いたころには、すでに面会時間が過ぎようとしていた。哲郎は静香のいる病室へと急いだ。
「葵が迷惑をかけて……すまなかった」
病室に足を踏み入れたと同時に、哲郎はすぐさま詫びた。
「……少し安静にしていれば大丈夫ですから。哲郎さん、そんなに気にしないでください」
静香はベッドから軽く身体を起こすと、穏やかに微笑んだ。
「陰ながら、できる限り協力する。それから、葵は東京の病院に入院させるつもりだ」
葵と距離を置けば、静香のストレスも減り、穏やかに過ごせる。十二月の予定日などあっという間だ。出産を迎える頃には、すべての問題が解決し、生まれてくる子供も健やかに育っていくことだろう。
「豊から聞きました。……あの人の異様な執着心……あれはただ気が狂っているだけなのか、それとも……」
静香はふと口をつぐんだ。その瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいる。哲郎は目を伏せ、沈黙で応えた。
静香はそんな哲郎をじっと見つめていたが、ふと手を伸ばして哲郎の手を取ると、ふくらみ始めたお腹へと導いた。まるで、その内に宿る小さな命の存在を伝えるかのように優しく手を添えるが、口調は対照的に力強い意志が籠っていた。
「大丈夫です、哲郎さん。私、この子を絶対に守ってみせます」
「ああ……そうだな、四代目」
静香の手の温もりが、哲郎の掌に生々しく残った。
哲郎が自宅に着いたとき、すでに九時を過ぎていた。
葵の精神状態のこと、静香が危うく流産しかけたこと、精神科の病院探しなど、色々と考えなければならないことが山ほどある。哲郎は今後のことを考えながら、ゆっくりと玄関のドアを開けた。
「ただいま」
相変わらず、何も反応がない。今に始まったことではないが、今日はなぜか妙に胸騒ぎがした。整然としたキッチンへと向かうと、ダイニングテーブルの上に残されたコーヒーカップが目に入った。葵が飲みかけたまま放置したのか、カップの底にわずかに残ったコーヒーはすっかり冷えきっている。
哲郎は深く息を吐き、カップを流しに置いた。そして、ふと辺りを見回す。
「葵?」
だが、この家には人の気配がしない。
「まさか……」
不吉な予感が脳裏をよぎる。哲郎は慌てて家の中を探し回った。寝室、バスルーム、リビング──だが、どこにも葵の姿はない。
焦る手で葵の携帯に電話をかける。だが、呼び出し音も鳴らず、すぐに機械音へと切り替わった。
「どこに……行ったんだ、あいつは……」
低く絞り出した声が、がらんとした家に虚しく響く。
この夜、葵は忽然と消えた。




