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寄生体  作者: 星乃夜衣
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第14話

 昨夜はろくに眠れなかった。

 哲郎は重たい瞼をこじ開けるようにして壁時計を見ると、まだ四時半前。外はまだ夜の薄闇が広がっている。四月だとはいえ、朝はまだ少し冷える。居間のソファで横になったせいか、首筋が張り、背中がずきずきと痛む。

 関節をさすりながらキッチンへ向かい、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。湯が沸き立つ音だけが、静まり返った家の中に響いた。立ち上る湯気をぼんやり眺めているうちに、昨夜の出来事が悪夢のように脳裏に蘇る。

 結局、哲郎が出した結論はひとつだった。

 ──葵は病んでいる──

 そう認めざるを得なかった。

 まずは信頼できる医師を探さなければならない。だが、どう説得したところで、彼女が耳を貸すはずがない。昨夜も病院へ行こうと促した途端、「様子がおかしいのは哲郎の方よ」と吐き捨てられ、寝室から締め出された。

 哲郎は溜息をつき、淹れたてのコーヒーを口に運ぶ。だが、酸味も香りも感じない。泥水のような苦い液体が喉を通るだけだった。何もかもが、色を失っていく。このままでは、葵より先に自分の心が折れてしまうのではないか──そんな不安がじわじわと胸の内に広がっていく。

 哲郎はこめかみを押さえながら目を閉じた。

 もともと哲郎と葵の夫婦関係は淡白で、互いに子どもができないことを大きな問題として話し合ったこともなかった。それに、庄吉の会社はいずれ葵が半分手にするという約束だった。

 だが、すべてが変わったのは先月のことだ。庄吉が遺言を作る際、哲郎だけが呼ばれ、「子供をつくる気はないのか」と問われたのだ。子供は一人ではつくれない。哲郎は正直に「葵にはそのつもりがない」と答えた。すると庄吉は「そうか」とだけ呟き、最終的に冴子の提案通り、会社は豊に委ねられることとなった。

 もしあの時、違う返事をしていたら、遺言の内容は変わっていたのだろうか。庄吉は哲郎の嘘を見抜けたのだろうか。

 哲郎は立ち上がり、薄手のコートを羽織る。家を出ると、東の空はうっすらと色を帯び始めていた。冷たい空気に触れると、意識がわずかに冴える。

 哲郎はまだ眠り続ける街を横目に、仕事場へと車を走らせた。



 国道十七号沿いの工事現場で九時前まで働いたのち、工事主任に午前中の分の指示出しをすると、豊の出社時間を見計らって前橋本社に向かった。受付や社員たちに軽く挨拶をしながら秘書に案内されるように社長室に足を踏み入れる。

「えっ? 姉さんを病院に?」

 デスクについたばかりの豊が、驚いたように眉をひそめた。

「ああ、庄吉さんが亡くなった頃から、葵の様子がおかしいんだ。昨夜も──」

 哲郎は一瞬ためらった。それでも、義弟に納得してもらうには、昨夜の出来事を話すしかない。豊なら、その手の病院の情報を持っているかもしれない。あるいは何か別の手立てを提案するかもしれない。

 哲郎は覚悟を決めるように一呼吸し、順を追って説明し始めた。

「昨夜、部屋に籠って、何か呪詛めいたことをしていたんだ」

 流石に、葵が髪の毛を振り乱しながら床に座り込み、自分の髪の毛の一房を燃やしていたことまでは口に出せなかった。

「呪詛……?」

 だが、その言葉だけで豊には意味が十分伝わったようだった。豊の表情が強張る。

「ああ、静香さんは悪魔の子を産むつもりだと騒いで──」

 哲郎がそう言いかけた瞬間、鋭い着信音が室内に響いた。豊の肩がピクリと震える。豊はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。

「……静香からだ……」

 豊は低く呟き、そのまま通話ボタンを押した。

「どうしたんだ?」

 慎重に尋ねるが、すぐに豊の顔色が変わった。

「すぐにそっちに向かう! 安静にしてれば大丈夫だ!」

 緊迫した口調で告げると、豊は通話を切った。

「静香さんの身に何かあったのか?」

 哲郎の声が引きつる。

 ──まさか、葵の呪詛が効いたのか?

「腹痛とともに、少し出血があったらしい」

「えっ! それは──」

 ──非常にまずい──

 もし何かあったら、この会社はどうなるのか。

「急いで静香を病院に連れて行く。その話はまたあとで。ただ、こっちで姉さんが入院できる病院を探しておく」

「ああ、頼む……」

 哲郎は冷静に応えたが、指先の震えは抑えることができなかった。

 豊は深く頷くと、すぐに踵を返し、足早にオフィスを出ていった。その背中が視界から消えるまで、哲郎はただ立ち尽くすだけだった。


***


「静香さんが妊娠とか、ありえないわ」

 ベッドルームの窓から見える景色を見詰めながら、葵は憂鬱そうに呟いた。

「あれは悪魔の子よ……浄化儀式はしっかりと効いたかしら?」

 昨夜、葵は部屋に籠って〝浄化儀式〟を行った。

 それは、珠代が密かに行っていた儀式の模倣に過ぎなかった。それでも、昨夜はなぜか意味も理由もわからぬまま、幼い頃の微かな記憶をたどるように手順をなぞってみた。

 ──お母さんが昔、やっていたこと──

 幼い葵は、ドアの隙間から何度か覗いたことがあった。

 自らの髪の毛の一房を小皿に乗せ、呪文を唱える。マッチを擦ると、火は静かに燃え上がり、炎は時折パチパチと不気味な音を立てながら、悪臭を放った。そんな不気味な儀式も、すべては姉として豊を守るためだと信じている。

 不意に、葵の胸の奥にざわりとした感覚が広がった。まるで誰かが耳元で囁いているような気がして振り向くと、部屋の片隅に黒ずくめの男が立っている。

「もうその帽子を被るの、やめたら?」

 葵が眉を顰めると、男は無言で黒い帽子をとり、脇に抱えた。

「まあ、ずいぶんと若返ったわねぇ……」

 目を細め、じっくりと男を観察する。すでに哲郎よりも若く見える。いや、それどころか、三十代前半といったところだ。端正な美貌と艶やかな黒髪、吸い込まれそうな漆黒の瞳を持つ、女よりも艶やかに整った男が目の前にいる。街を歩けば、誰もが振り返るだろう。葵もかつては注目を集める側だったが、これほどの美貌には及ばない。

 ──まるで、人間ではないような──

 いや、最初から人間ではなかったのかもしれない。

 人の夢を喰らって若返る男に、葵は僅かな苛立ちを覚えながらも、

「それよりも……哲郎は私を病院に収容したいそうよ」

 茶化すように言いながら、男の深い黒い瞳を覗き込んでみた。

『新しい生活になるだろう……』

「ちょっと! 私が望む新しい生活って、そういう生活じゃないわよ!」

 思わず、葵は目を見開いた。そんなつもりは全くない。

 ──誰が精神病院になど行くものか! 私はいたって普通だわ!

『そなたは夢を叶えなければならない……新しい生活を──』

「だから、それは意味が違うって言ってるでしょ!」

 しかし、目の前の男はただ微笑むだけだった。その微笑みは、あまりにも濃艶で、そして、あまりにも冷ややかだった。

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