第13話
葵から一方的に電話を切られ、豊はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく呆然としていた。耳の奥で、葵の声がいつまでも反響している。
──自分の妻が何をしているのか、まるで分かってない? 静香が、何を?
言葉の意味を咀嚼しようとするたびに、胸の奥に何とも言い難い不安が重くのしかかる。葵の方こそ、何を言おうとしていたのか。何を疑っているのか。
答えのない問いが豊の頭の中を渦巻いていたが、やがて現実へ引き戻されると、急いで静香に電話をかけた。
数度の呼び出し音のあと、静香の弱々しい声がようやく応答する。
「……もしもし、豊?」
「ああ、今家にいるんだろう?」
「……ええ、今さっき、葵さんが……」
その頼りない声に、豊の胸が締めつけられた。無理もない。あれだけインターホンを連打されたら、誰だってまともでいられるはずがない。ましてや静香は妊娠中の身だ。
豊は一瞬迷ったが、正直に打ち明けることにした。
「姉さんに静香が妊娠していることを教えたよ。こんな形で伝えるのも嫌だったけど」
「……どうして教えてしまったの? ……私、あの人が怖い」
だが、隠していても仕方ないことだった。葵はいずれ知ることになる。だったらタイミングは悪かったが、納得してもらえたはずだ──そう思いたかった。だが、静香の声はますます暗くなる。
「豊はいつも葵さんに甘いわね……私だって居留守なんか使いたくなかったわよ!」
葵に居留守を指摘されたことが引き金になったのか、静香の声は怒りに震え、言葉を吐き出すたびに呼吸が浅く乱れていく。
「あの人、インターホンを何度も何度も鳴らして……気が狂ってるとしか思えない! お義父さんのお葬式あたりから変だって何度も言ってるでしょう!」
「……わかっている」
「私、子供が生まれるまで……実家に避難します」
予想外の静香の冷ややかな言葉に、豊は言葉を詰まらせた。胸の奥で何かが軋むような音がする。
確かに静香の言葉通り、最近の葵の様子はどこかおかしい。だからといって、妻を実家に帰らせれば、彼女の両親からどんな非難が飛んでくるか……考えるだけでも絶望的だった。
──父親になる前に、夫としての役割すら果たせていない──
豊は深く息を吐き、しばし沈黙したのち、義兄を脳裏に浮かべた。結局のところ、哲郎に頼むしかない。
「義兄さんに相談してみるよ。それから二人で考えよう」
それだけ告げると、そっと通話を切った。会社のことでは、すでに葵を操縦するよう哲郎に頼んでいたが、まさか私生活にまで彼女が干渉してくるとは想像もしていなかった。
──悪魔の子だの、訳の分からないことを口走って気味が悪い──
葵の最後の言葉が、不吉な棘となって胸に刺さる。そのとき、豊の脳裏に過去の記憶が疼いた。
「まるでお袋みたいだ……」
豊の記憶の中の珠代も、最近の葵と同じように、時折まるで別人のような目つきをして、奇妙な言動を口にすることがあった。まだ幼かった豊でさえも、本能的に恐怖を覚えた。そんな時は、いつも父親が場を収めたのだった。そのためか、庄吉はいつも珠代を窺うような暗く、神経質な性格になっていった。
スマートフォンを握る手に、じんわりと汗がにじんでいるのを感じた。豊は深く息を吐きながら、すぐさま今度は義兄に電話をかけた。
***
仕事を終えて夜遅く帰宅し、哲郎は玄関のドアを開ける。
「ただいま」
低い声だけが、冷え切った家の中に虚しく沈んでいった。返事はない。葵が家にいても、いなくても、返事が返ってこないのはいつものことだった。だが、今日はその沈黙が、いつも以上に重く感じられた。
豊からの連絡を受けた昼過ぎから、胸の奥に疼く不安が帰宅と同時にじわりと膨らみ始める。葵にとって、静香の懐妊がここまでの衝撃だったのだろうか。それとも、いよいよ頭がおかしくなったのではないか──そんな不安が頭をよぎる。だが、どんな理由にせよ、豊に頭を下げられた以上、葵としっかりと話し合わなければならなかった。
哲郎は靴を脱ぎ、リビング、キッチン、バスルーム、寝室と順に見て回った。どの部屋にも葵の姿はない。食卓の上には飲みかけのグラスが置き去りにされている。
最後に、物置部屋として使っている部屋の前で足が止まる。ドアの向こうから、わずかな気配が滲んだ。
「そこにいるのか?」
ノブを回そうとしたが、内側から鍵が掛かっている。
──葵はこの部屋の中にいる──
静まり返った家の中で、自分の鼓動がやけに激しくなるのを感じた。哲郎は心を落ち着けながらドアをノックし、呼びかける。
「葵、話がある。開けてくれ」
応えはない。哲郎は息を潜めてドア越しに耳を澄ませる。しばらくすると、微かな物音がした。透かさず低い声で言葉を投げかける。
「今日、豊君から電話があった」
しばらく沈黙が続いた後、室内から葵の押し殺した声が返ってきた。
「哲郎……やっぱり東京へ行きましょう」
「またか……」
哲郎は深い溜息をつくと、当てていた耳をドアから離した。むしろ葵をこの街から離すことが、すべての問題を解決する最善策なのではないか──そう思わずにはいられなかった。
「会社があるんだ。俺は東京には行けない。葵が行きたいなら、マンションを買えばいい。庄吉さんの遺産を使って……別居になるが、週末に会えばいいだろう」
昼間の豊の口調には、ただの困惑ではなく、切迫したものが感じられた。もしこのまま葵の不審な行動がエスカレートすれば、哲郎はいずれ仕事を失う。そうなれば、必死に掴み取ろうとしている夢も、手から零れ落ちる。
「だから週末にでも一緒に不動産に行ってみよう」
そう提案し、哲郎が静かに息を吐いたその時、葵が静香の話を振った。
「それよりも……静香さん、妊娠したのね」
「……ああ。驚いたよ」
哲郎が静香の懐妊を知ったのは相続人会議の翌日だったが、葵には伏せられていた。
「豊君から聞いたよ……なんで今日、静香さんに会いに行ったんだ?」
言葉を選びながら、哲郎はそれとなく尋ねた。もしも普段から交流があるのであれば、葵が突然静香を訪れることに不自然さはない。だが、二人の関係はそれほど良好でもない。さらに最近、葵の様子がおかしいと気づいているのならば、向こうも警戒するだろう。
「まあ、あなたたちって随分と仲がいいのね」
棘のある響きだったが、葵の声がさらに低く鋭くなる。
「あれは悪魔の所業よ」
「……は?」
一瞬、耳を疑った。だが、豊から聞かされていた通りだった。哲郎は口を開けたまま、部屋のドアの前で立ち尽くす。
「あの女は悪魔の子を産むつもりよ!」
葵の叫び声の直後、カタン、カタンと、何かを打ちつける音が部屋の奥から響いた。しばらくして、鼻を突くような焦げ臭さが空気に混じり始める。
「葵……何をしてるんだ?」
哲郎の胸に不吉な予感が広がる。だが、不気味な音は止まらない。
「葵! 開けろ!」
慌ててドアを叩くが、中からの返事はない。やむを得ず、哲郎は道具箱からドライバーを取り出し、ドアノブのネジを外し始めた。その間にも、室内から聞こえる音は次第に大きくなっていく。不気味な響きが焦燥を煽った。
──あいつは一体、中で何をやっているんだ!
ついにドアノブが外れ、ドアを開けた途端、髪の毛が焦げたような匂いが顔に押し寄せる。鼻腔にまとわりつくその異臭に、哲郎は思わず顔をしかめた。急いで手を伸ばし、部屋の電気をつける。
明かりに照らされた小さな部屋の中央では、葵が床に座り込み、小皿の上で黒い煙を立てながら何かを燃やしていた。ロウソクの炎が不気味に揺れ、釘や小さな金槌が床に転がっている。葵の黒い髪は乱れて顔にかかり、その表情はほとんど見えない。白い顔とゆらめく影が相まって、まるで悪霊に憑りつかれた女のようだった。
その不気味さに、哲郎は一瞬言葉を失った。だが、すぐに我に返ると、険しい目つきで葵を睨みつける。
「こんな暗いところで何を燃やしているんだ! 危ないだろう!」
「……浄化よ」
葵はゆっくりと顔を上げると、まっすぐに哲郎を見据えた。
「浄化?」
哲郎の胸の奥に小さな警鐘が鳴る。葵はふっと笑うと、小さな紙片を持ち上げた。薄い和紙を人の形に切り抜いたもので、両腕は不自然に細く、足元もぎざぎざに歪んでいる。
「こうして、あの女から生まれてくる悪魔を浄化するのよ!」
そう叫んだあと、葵は紙人形をロウソクの炎にかざし、じわじわと燃やし始めた。
「あの女が懐妊するなんてありえない! 私は豊を守るわ!」
使命感に燃えているような口調だが、乱れた髪の間から見え隠れする葵の瞳に暗い影が揺らいでいる。哲郎の背筋に寒気が走った。
「葵……病院に行こう」
努めて冷静に提案してみる。だが、葵は肩を震わせ、聞く耳を持たない。
「私はいたって正常よ!」
葵は首を激しく横に振ると、床に散らばった道具や小皿を手際よく片付け始めた。
「いや……庄吉さんが亡くなってから、お前の様子はどうもおかしい」
宥めるように葵の腕にそっと触れた。だが、その瞬間、葵はビクリと身を強張らせると、鋭い目つきで哲郎を睨んだ。
「触らないで! 様子がおかしいのは哲郎の方よ!」
そう吐き捨てると、葵は哲郎の手を払いのけ、勢いよく部屋を出て行った。
哲郎は一人、立ち込める煙と異臭の中に取り残され、しばらく無言で立ち尽くしていたが、ふっと小さく息を吐いた。
「やっぱりあいつを病院に連れていくしかないな……」
その言葉には、確固たる意志が込められていた。




