第12話
背広の袖に腕を通す感触、重厚な会議室に響く声──。すべてが哲郎の思い描いた通りだった。だが、その中心にいるはずの豊だけが、どこにもいない。
彼の代わりに椅子に座っていた者。
それは紛れもなく、自分によく似た目をした少年だった。哲郎を見上げ、にっこりと笑っている。哲郎は息を呑んで、目の前の少年を見つめた。
──いや、これは夢なのか?
渋々重い瞼を開けて枕元の時計に目を遣ると、時計の針はすでに六時を指していた。哲郎は飛び起きると、寝衣を脱ぎ捨てていつもの作業着に腕を通す。葵は静かに寝息を立てていた。
寝室のドアを静かに閉め、階段を降りる。整然としたキッチンへ向かい、コーヒーメーカーのスイッチを入れれば、いつもの朝のルーティンだ。身支度を素早く整え、淹れたてのコーヒーをひと口啜ると、ほっと息をつく。どうやら朝の朝礼には間に合いそうだった。哲郎はしっかりと玄関の鍵をかけると、車の運転席に乗り込んだ。
朝日が正面から車のフロントガラス越しに差し込み、眩しさに思わず目を細める。哲郎はサングラスをかけ、ハンドルを握り直すと、まっすぐ仕事場へと向かった。
「今日はいい天気だな」
早朝からこんなに気分がいいのは久しぶりだった。
昨日、豊との話し合いを経て、哲郎はついに長年の目標へと踏み出した。今はまだ小さな一歩にすぎない。だが、それは確実に内部へと食い込むための一歩だった。
小さい頃の夢は、大工になることだった。その純粋な願いは、やがて自らゼネコンを立ち上げるという目標へと大きく膨らみ、そしていつの間にか、別のものへと姿を変えていた。
「そうか……あの日が境だったな……」
十二年前、友人の紹介で葵と出会ったのは、まさに運命だった。葵は哲郎を一目で気に入り、父親である庄吉に強く進言した。
当時の哲郎は、小さな建設会社で非正規の作業員として日々をつなぐ生活を送っていた。だが、汗と埃にまみれた日々の中、庄吉の後押しで思いがけず道が開けると、それまで見せなかった野心が、いつの間にか哲郎の心に棲みつくようになった。
──名を残したい──
それはいつの間にか執念へと変質していった。
「それにしても、葵の東京行きはどうしたものか……」
ようやく巡ってきたチャンスだというのに、葵が邪魔をする。これまで全てに無関心だったはずの彼女が、勝手に嗅ぎ回るようになったことも気に障る。そんなものに、足を引っ張られるわけにはいかない。
「まあ、葵が都内で暮らしたいなら、マンションでも買えばいい」
庄吉の遺産を葵は十分持っている。好きなように使えばいい。だが、そうなれば事実上の別居となるが、庄吉が死んだ今、彼女にそこまで気を遣う必要もない。
「一時はどうなることかと思ったが……まあ、順調だな」
哲郎は工事現場に到着すると、オレンジのベストを身に着け、そのまま仕事に取りかかった。
***
「いい加減にしてほしいわ。外出中に現れないで。昨日は危なかったんだから」
葵はベッドに横たわったまま、視線だけを黒ずくめの男に鋭く向けた。男は無言で、ベッドの端に腰掛けている。
柔らかな朝の光がブラインドの隙間を縫って部屋に差し込んでいるのに、男を取り巻く空気は相変わらず陰鬱だった。しかし、よく見ると、以前よりも肌の色は明るくなり、白髪混じりでぼさぼさだった長髪は、今や滑らかに整えられ、艶さえある。まるで、二十年ぐらい若返ったように見える。帽子を深く被っているため顔ははっきりと見えないが、以前は病的に痩せこけていた細い輪郭も、少し肉がついたように思えた。
──この男、もしかして外見がいいんじゃないかしら?
一瞬、葵の興味が疼いたが、さすがに手を伸ばして相手の帽子を取るわけにはいかない。
「……あなた、もしかして私の夢を喰うと若返るの?」
葵が眉を顰めると、男の唇が僅かに動き、含み笑いを浮かべた。
やはり、葵の予想は当たっていた。この奇妙な男は、人の思念を喰らいながら若返っている。もしこのまま与え続ければ、やがて若者の姿へと変貌するのかもしれない。最初に会ったときは七十代ほどに見えたが、今では哲郎より少し年上といった感じだ。
「それで、今日は何の用?」
昨日、哲郎の仕事場へ向かう途中、この男と話をしていたら事故を起こしたのだ。
『やはり、思い出の場所は処分されるのであろう?』
男の低い声が意識の奥深くまで低く。ただ、その声は以前よりも明瞭で、聞き取りやすくなっている。人の思念を喰らえば、声質まで変わるのだろうか。
「ええ、そうよ。あなたの言った通りだったわ!」
昨日の出来事を思い出しながら、気づけば声を荒げていた。そんな葵を見て、男がふっと笑う。
「……今、私の思念を喰ったわね?」
葵は静かに問いかけた。この黒ずくめの男は葵が感情的になればなるほど喜ぶのだ。そして、夢を喰われるほど、胸の奥にぽっかりと空白が広がる。
「あの女は、お母さんとの思い出の場所を処分するつもりだわ」
葵は感情的にならないよう慎重に言葉を選びながら、昨日の出来事を振り返った。男の提案通りに高崎の家を訪れると、そこには冴子の弟夫婦と母親が住んでいた。そして、冴子が赤城山の家を売って東京へ移る予定だと、彼女の老いた母親から無理やり聞き出した。
冴子は、家を売ってさっさとこの街を出ていく。もう、滅多に会うこともないだろう。お互い清々とする。
「会社の件は……あの女の入れ知恵ね」
父は最後に会社のすべてを豊に明け渡した。
豊には子供がいない。だからこそ、母は姉弟で会社を分けるよう求めたというのに、冴子が直前になって母の願いを捻じ曲げたのだ。父も弟も──松浦家の男たちは神経質で、さらに女に弱腰だ。葵は奥歯を噛みしめる。
不意に、男が懐から黒い手帳を取り出し、ぱらぱらとページをめくった。
『松浦静香……懐妊、予定日は十二月十日……』
「えっ?」
葵は顔を大きく歪ませた。
──そんなはずはない!
『本人に尋ねてみればよい』
男は手帳を懐へしまいこむと、鋭い目で葵を見据えた。
「そんな馬鹿な……!」
葵は勢いよくベッドから飛び起き、枕元の時計を見た。すでに八時半を回っている。
「ゆ、夢……?」
たった今まで、鮮明に覚えていたはずなのに、今ではすでに霧がかかったように曖昧だ。夢の中で誰かと大切なことを話していたのに、その内容は思い出せない。それでも、なぜか今日は静香に会わなければならないという確信だけは掴める。ただ、MRI検査の結果が出るまで外出を控えろと哲郎に注意されていて、車も修理中だ。
「それでも……不思議と今日は、義妹に会う必要があるように感じるわ」
自分に言い聞かせるように頷くと、急いで身支度を始めた。
豊と静香は高崎駅の近くに建つ十五階建てのモダンなマンションに住んでいる。
葵はタクシーを降りると、石タイルの床をヒールで鳴らしながらエントランスへ向かった。なぜだか自分でもわからなかったが、静香に会わなければならないという強迫的な思いが心の中から離れない。
ガラス扉をくぐり、インターホンに手を伸ばす。まだ午前中だから、専業主婦の静香は家にいるはずなのに、何度鳴らしても応答はない。
「居留守かしら……ねえ、そうでしょう?」
そう言いながら、ゆっくりと視線を移すと、すぐ真横に黒ずくめの男が立っている。この時、葵は初めて男の顔を間近でまじまじと見た。
「まあ、随分と綺麗な顔をしていたのね……」
いつも黒い帽子を深く被っているため、今までよく見えなかったが、こうして至近距離で見ると、男にしては綺麗すぎるほど整った繊細な顔立ちをしている。高い鼻、形の良い唇、漆黒の瞳──まるで、彫刻のように美しい。
葵は思わずその黒い瞳に吸い込まれそうになり、慌てて目を逸らした。
──魅入られちゃダメよ──
そう強く言い聞かせると、ハンドバッグからスマートフォンを取り出し、豊に電話を入れる。
「もしもし、姉さん?」
電話の向こうで豊が怪訝そうな声を出す。
「今、豊のマンションに来てるんだけど、静香さん留守なの? 何度鳴らしても応答がないわ」
「えっ、オレのマンションに来てるの? ……それより昨日は大丈夫だったのか?」
昨日の事故について、豊は哲郎から事情を聞いているはずなのに、葵に直接電話もよこさなかった。薄情な弟だと思いつつも、努めて軽く返す。
「ご心配なく、軽く頭を打っただけよ」
少し皮肉を込めたつもりだったが、気づかないのか、それとも聞こえなかったふりなのか、豊はそのまま昨日の事故の話を続ける。
「でも、義兄さんからは運転中に記憶が飛んだって──」
そこまで知っていながら、なぜ今になって気にするのか。葵は叫びそうになりながらも、話を無理やり戻す。
「今日はタクシーで来たから大丈夫。それより静香さんに会わせて頂戴」
今朝、目を覚ました瞬間から、彼女に会わなければならないという、根拠のない確信が葵の背中を押している。
「……なんで静香に?」
豊の怪訝そうな声が一瞬途切れた。
「義妹に会いに来ちゃダメなの?」
インターホンを何度も鳴らしながら、葵はじわじわと苛立ちを募らせる。電話の向こうで、豊の息が止まるのがわかった。
「姉さん、静香は今、体調がよくないんだ。話だったら俺が聞くから、会社に来れないか? それとも迎えに行こうか?」
「……なんで邪魔するの?」
「頼む、姉さん!」
「私には、あの子に会う理由があるのよ!」
葵は見えない手に動かされるように、インターホンのボタンを連打し始めた。このまま騒ぎ続ければ、いずれマンションの住人がセキュリティを呼ぶ事は容易に想像できた。それでも、葵は止まらない。
──今朝、重要な話を夢の中で聞いた気がするのよ!
「開けなさい、静香さん! 居留守を使っているのはわかっているわ! こっちは大事な話があるのよ! 開けなさいよ!」
葵の声がマンションの待機室を震わせ、インターホンのボタンを叩きながら叫び始めたその時、豊の声が耳元で大きく響く。
「姉さん! 静香は今、妊娠二か月で大事な時なんだ!」
「えっ、妊娠……?」
スマートフォンが手から滑り落ちそうになった。
「本当は親父の四十九日が終った後に知らせようと思ってたんだ……だから頼む、静香を安静にさせてくれ」
葵の唇が、小刻みに震える。
「……は、誰?」
「えっ?」
聞き取れなかったのか、豊が反射的に聞き返した。
「……父親は、誰?」
「は? 何言ってんだよ、姉さん! オレの子供に決まってんだろ!」
「違うわ……悪魔の子よ」
「は? ちょっと待った、姉さん……やっぱり事故った時に頭を強く打ったんじゃ……」
「豊──」
押し殺した低い声で弟の名を呼ぶ。その響きは、もはや葵のものではないようだった。
「お前は、自分の妻が何をしているのか、まるで分かってない!」
そう叫ぶと、荒々しく通話を切った。電話の向こうで豊が何か叫んでいたが、葵の耳にはもう届かない。
──悪魔の仕業だわ……なんてこと!
葵は踵を返し、早足でエントランスを出た。駅に向かう途中、タクシーを拾い、二十年前の〝あの場所〟へと向かう。
──お母さん、私は豊を救って見せるわ──
その決意の裏には、二人きりの姉弟として生きてきた年月が深く根を張っていた。
庄吉は早々に後妻を迎えた。突然すぎる再婚に──父は浮気でもしていたのではないか──そんな疑念が、いつしか確信めいた影となって葵の心に落ちた。父との間に、言葉にできない壁が立ちはだかるようになると、弟を守ることだけが、母を失った世界で生きる理由となった。
そのためには、どんな手段を使ってでもいい。たとえ誰に理解されなくとも、たとえその想いが少し歪んでいようとも──。そう心に決めた瞬間、窓の外に流れる街並みの向こうで黒い影が囁いている気がした。
『失うには惜しいほどの甘美な思念の持ち主よ、その夢を掴め』




