第11話
夕刻の冷たい風が吹く中、哲郎は急いで現場に駆けつけたものの、事故処理はほぼ終わっていた。作業員たちはすでに仕事へ戻り、工事現場はいつもの喧騒を取り戻しつつある。だが、路面に飛び散ったセーフティーバリアの破片や倒れたままのカラーコーンが、たった今までそこにあった衝撃を生々しく残していた。
哲郎は唾を飲み込み、胸の奥をざわつかせながら現場を見渡した。背後から工事主任が声をかける。
「川島さん、奥様は病院に搬送されましたが、軽傷なので問題ないかと」
哲郎はその言葉にかすかに肩の力を抜いたものの、疑問がすぐに込み上がった。
「葵は、なぜ現場に来たんだ……」
誰へ問うわけでもなく、独り言のような声が漏れる。主任は哲郎の表情を一瞥し、ためらいがちに言葉を続ける。
「奥様は……川島さんに、急用があったようで」
──葵が俺に急用だと?
だったら、なぜ電話で済まさなかったのか。わざわざ仕事場に乗り込んでくる理由がわからない。しかも、午後三時には本社で豊との会議があることを葵も知っていたはずだ。
──葵なりの嫌がらせなのか──
哲郎は苛立ちを抑えきれず、無意識に拳を強く握りしめた。
「奥様の車は前方をセーフティーバリアにぶつけましたが、修理で済むと思います。スピードを落とさなかったとはいえ、幸い、大事には至りませんでした。ただ、交通整備をしていた作業員が巻き込まれ、一人が負傷しています。命に別状はありませんが、しばらく入院になるかもしれません」
主任の説明は続いたが、哲郎の耳には半分しか入ってこなかった。
哲郎は現場対応を主任に指示すると、慌ただしくポケットからスマートフォンを取り出し、豊へ連絡を入れる。
「葵も作業員も命に別状はないようだ。詳しいことは病院から連絡する」
要点だけを短く言い残し、通話を切った。散らばる破片を踏み越えながら、一瞬、そこに何らかの綻びが残されているようにさえ思えた。
──過去十年、葵が俺の仕事場に来たことなど一度もなかったのに──
哲郎は胸の奥に得体の知れないざわつきを感じながらも、車のエンジンをかけると、ひとまず病院へと向かった。
幸い、被害者である作業員の命に別状はなかった。だが、右脚の脛骨を骨折し、軽い脳震盪も負っていた。数か月の入院とリハビリが必要だが、最悪の事態は免れた。
会社側が十分な補償を約束することで、作業員との間で起訴は見送られる方向で合意が得られた。葵の処分も罰金刑程度で済む可能性が高い。それを聞いた瞬間、哲郎の肩から少しだけ力が抜けた。
哲郎は胸をなでおろしながら、次に葵のいる救急外来へと向かう。処置室で葵の姿を見つけると、思わず短く息を吸った。
「大丈夫か?」
本当は聞きたいことは山ほどあったが、出てきた言葉はそれだけだった。
「ええ、ちょっと頭を打ったから、念のために様子を見てるの」
葵は冷静で、むしろ淡々としている。その落ち着きが妙に不気味に映った。
「……無事で何よりだ。ただ、作業員が全治二か月の怪我をした。それに、お前が工事現場に来るなんて珍しい……どうしてわざわざ?」
葵が哲郎の仕事場に顔を出すことなど滅多にない。何か急ぎの用件があったのか。哲郎がそう問いかけたところで、白衣の医師が処置室に入ってきた。
「ご家族の方ですか?」
「はい、夫です」
「では、念のため彼女の頭部CTを撮影します」
「CT検査ですか? 何か異常が?」
目の前の葵は意識もはっきりしていて、受け答えも問題ない。事故で軽く頭を打ったとしても、CT検査が必要になるほどの症状とは思えない。だが、医師はカルテを確認しながら説明を続ける。
「奥様は一部の記憶が欠落しているようです。事故直前の状況を覚えていないとのことなので、外傷性健忘が疑われます。場合によってはてんかん発作が関与している可能性もあります。その場合、しばらく自動車の運転を制限する必要があります」
「事故で頭を打ったせいですか?」
哲郎は葵の方を見た。だが、医師は首を横に振る。
「それが……事故の直前の記憶がないそうです」
「えっ?」
哲郎は思わず息をのんだ。
──事故の直前だけ記憶がない? そんなことがあるのか?
「……じゃあ、記憶が飛んだから……妻は事故を起こしたってことですか?」
目だけは葵を捉えながらも、慎重に医師に確認を求めた。
「その可能性があります。はっきりした原因を特定するためにも、頭部CTで脳出血や脳挫傷の有無を確認し、その後、必要に応じて脳波検査を行うことになります」
看護師に指示を出しながら、医師はベッドを移動させる準備を始めた。哲郎は思わず葵に声をかける。
「葵、本当に記憶がないのか?」
哲郎の問いに、葵はわずかに顔をしかめたものの、淡々と答える。
「ええ、哲郎の仕事場に向かってたはずなのに、気がついたら事故を起こしてたのよ」
「そうか……」
本当に記憶が飛んだのか、それとも居眠りをしたのか。どちらにせよ、葵は運転中に意識を一瞬失ったのだ。突っ込んだ先が高速道路や歩行者の多い場所でなかったのは、不幸中の幸いと言うべきか。
「これからCT検査を行いますので、ご家族の方は待合室でお待ちください」
医師がそう告げると、看護師がストレッチャーを動かし始めた。哲郎は葵の顔にちらりと目を遣ったが、彼女は特に動揺する様子もなく静かに天井を見詰めている。
哲郎は軽く息をつくと、医師たちとともにCT室へ向かい、そのまま待合室で結果を待つことにした。
CT検査を終えると、葵は静かに病室に戻された。医師がカルテを確認しながら静かに口を開く。
「川島さんのCTの結果ですが、特に異常は見られませんでした」
医師の言葉に、哲郎は安堵の息をつきつつも、納得がいかなかった。葵も同じ気持ちのようで、眉間を微かに寄せている。
「では、なぜ私の記憶が飛んだんでしょうか?」
葵の問いに、医師は少し考え込むような様子で説明を始める。
「可能性としては、一過性全健忘や発作性意識障害が考えられます。強いストレスや疲労などで一時的に記憶が抜け落ちることです。事故の瞬間、めまいや頭痛はありましたか?」
「いいえ、特には。ただ、意識が戻った直後、目の前がセーフティバリアだったので、そのまま突っ込んでしまいました」
葵は目を細め、記憶を手繰るようにゆっくりと応えているが、哲郎の目には妙に落ち着きすぎているように映った。
「具体的にいうと、どの瞬間から記憶がありませんか?」
「夫の仕事場に向かっていたはずなのに、気がついたら事故を起こしていましたので……事故直前の数分間でしょうか?」
「……川島さんの場合、意識障害があったとはいえ、事故後の受け答えは正常ですし、興奮や混乱もない。脳の微細な変化はCTでは分かりにくいので、念のため後日MRIを検討したほうがよいでしょう──」
「つまり、結局のところ、何が原因で妻の記憶が飛んだのか、はっきりしないんですね?」
哲郎は苛立ちを押し殺しながら医師の説明に切り込んだ。いっそのこと、「てんかんの疑いあり」とでも診断されれば、葵から運転免許を取り上げられるのに──そんな考えが頭をよぎる。
──せっかく掴みかけた地位が、葵のせいで、すべて台無しになるかもしれない──
ようやく役員に昇進し、義弟の豊も事業を拡大しようとしている今、葵の不注意で何か大事が起きれば洒落にならない。
「現時点では断定できません。ただ、MRIを撮影すれば、脳の血流異常や微小な病変の有無を確認できますので、より詳しく判断できるでしょう」
「じゃあ、とりあえず今日は帰れるのね?」
葵は静かに息をついた。
「はい、気分が悪くなければ退院していただいて構いません。ただし、しばらくは無理をせず、万が一また同じようなことがあればすぐに受診してください」
哲郎は医師の診断に納得できないまま、葵をちらりと見た。やはり、彼女にしては落ち着きすぎてる。
──本当に記憶が飛んだのか? 居眠り運転ではないと言い切れるのか?
ふと、そんな言葉が哲郎の喉元まで出かかったが、今ここで口にすべきではないと理性が制した。
そんな哲郎の思いとは裏腹に葵の退院の準備は着々と進んでいく。
「では、お大事にしてください。MRIの予約については後日ご連絡します」
哲郎は看護師から書類を受け取ると、軽く会釈し、葵を連れて病室を後にした。
病院のエントランスを抜け、まだ肌寒さの残る風を背に駐車場へ向かう。車の助手席に葵を乗せ、ドアを閉めた瞬間、ふと病室での会話の断片が頭を駆け巡った。
「どうしてあんな所に来たんだ? 本社で豊君と会う約束があったのは知ってただろう?」
そう問いかける哲郎の声には、苛立ちが混じっている。葵は一番肝心な部分を、まだ語っていない。彼女が国道十七号沿いの工事現場に向かった理由だ。
「……高崎からの帰り道だったのよ」
葵は短く答えると、視線をそっと窓の外に逸らした。
「……どこに行ってたんだ?」
「高崎にある、お父さんの貸家よ」
「えっ? 冴子さんが相続するあの貸家か……なんでまた、そんなところへ?」
哲郎は問いを重ねながらも、少し責めるような口調になった。ハンドルを握る手にじわりと力がこもる。
「あの家……冴子さんの弟夫婦と母親が住んでいるのね。私、全然知らなかったわ……哲郎は知ってたのね」
車内に小さな沈黙が落ちた。
葵が父親の持ち家に義理の家族が住んでいることを知らなかったのは、単に関心がなかったからだ。相続人会議の場で、初めて高崎にある貸家の存在を知ったのだろう。だが、庄吉はすでに亡くなり、財産の行方も決まっている。今さら何を言おうと、変えられることではない。
「それで、ちらっと聞いたんだけど……冴子さん、赤城山麓の家を売って東京に移るつもりらしいわ」
「……そうか。まあ、女性一人で山奥の家を維持するのは大変だし、妥当な判断だろうな」
口ではそう言いながらも、哲郎は葵の反応を警戒した。
哲郎自身も何度か訪れたことがある、松浦家が所有する赤城山の麓にある家。葵が小さな頃、家族と夏を過ごした山荘だと聞いている。そんな幼い頃の思い出の詰まった場所が、継母によって売り払われると知って、彼女は冷静でいられるだろうか──。
「……さない」
「えっ?」
小さな声だった。だが、確かに聞こえた。
哲郎はハンドルを握ったまま、葵の横顔をちらりと伺う。
葵はフロントガラスの向こうを見据えているが、表情は硬く、瞳の奥深くで黒い炎のようなものが静かに揺らめいている。背筋がひやりと冷たくなり、哲郎は思わず息を呑んだ。
「許さないわ」
ぽつりと葵が低く呟いた。その途端、彼女の周りを黒い影が覆う。
凍えるような沈黙の中で、影が密やかに笑っているかのようだった。




