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寄生体  作者: 星乃夜衣
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第10話

 豊との会議は三時からの予定だったが、哲郎は二十分も早く前橋の本社へ到着していた。

 駐車場に車を停めると、ゆっくりとハンドルから手を離し、深く息をつく。フロントガラス越しに見えるオフィスはいつもより重々しく感じられた。

 時間を持て余すようにスマートフォンへ手を伸ばしてみる。だが、画面を眺めても、文字は目に入らない。哲郎の頭の中は昨夜の葵との会話でいっぱいだった。

 ——東京で暮らさない?——

 唐突に切り出されたその言葉が、いまだ胸の中で反芻される。単なる気まぐれなのか、それとも本気なのか。まるで引っ越しの相談でもするような気軽さだったが、哲郎にとっては人生の基盤が揺らぐほどの意味を持っていた。だが、豊が自分を切り捨てるという判断を下すのなら、その案も選択肢として現実味を帯びてくる。

 結婚して十年、哲郎は庄吉の会社のためだけに働き続けてきた。その自負は確かにある。それなのに遺言書には、一つとして自分の名がない。葵はそのことに、驚くほど無関心だった。長年連れ添った妻のはずなのに、何を考えているのか分からない距離がそこにある。哲郎の胸の奥に、言葉にはしがたい空虚さと焦りがじわりと満ちていく。

「……そろそろ時間か」

 これから始まる豊との会議で自分の今後が決まるかもしれない──そう思うと、呑気に構える葵の態度がひどく腹立たしく感じられた。

 哲郎は深く息を吐くと、苛立ちを振り払うように車のドアを勢いよく開けた。外気がひやりと頬を撫でる。日差しこそ柔らかいものの、風にはまだわずかに冷えが残っている。薄手のコートを作業着の上から無造作に羽織り、肩にのしかかる不安を振り落とすように一歩を踏み出す。

 哲郎の足取りはいつになく早く、まっすぐオフィスの玄関へと向かった。



 正式に豊を三代目社長として迎えた社内は活気に満ちていた。

 オフィスに入ると、秘書に案内されるまま社長室へと向かう。腕時計を確認すると、ちょうど三時を回ったところだった。

 扉を開けると、スーツに身を包んだ豊が椅子に深く腰掛けて待っていた。庄吉が倒れて以来、すでに実質的な経営を引き継いでいたため、特に目新しい光景ではない。だが、決して軽んじてはいけない節目であることは理解していた。

「おめでとうございます、三代目社長」

 哲郎は形式通りに挨拶をした。

「義兄さん、そんなにかしこまらないでくれ」

 豊は照れくさそうに言いながら椅子を勧めた。だが、哲郎にとって今後の立ち位置を左右する重要な会議だ。自然と背筋が伸びる。デスクを挟んで豊と向き合うと、緊張がじわりと胃に広がった。

「義兄さん、率直に話すよ。親父は昔から姉さんに甘かった。本当のところ、遺産を姉弟で半分ずつって言い出したのはお袋だ。それでも最後に親父が考えを変えたのには、正直オレも少し驚いた。……でも、会社は分割しないほうが良いのは確かだ」

「ああ、その点に関しては俺も同意だ」

 哲郎は慎重に言葉を返した。もし葵に経営の才覚があれば、話は違っていただろう。興味のない葵を無理に関わらせれば、会社が揺らぐだけだ。結局のところ、庄吉は最後の最後で理性を働かせ、会社の未来を見抜いたのだ。

「姉さんへの利益分配の件だけど、そこは心配しなくていい。うちは県や自治体の公共工事を多く請け負ってるから、決算書はある程度公開されるし、変な誤魔化しはできない。親父もそれを分かった上で、経営の細かいことは俺に任せて、営業利益の一定割合を姉さんに渡すように言い残したんだ」

「ああ、庄吉さんも最後まで考え抜いたんだろうな。それに葵は──」

 哲郎は、昨夜の葵の提案を思い返した。だが、経営を「豊に任せる」という彼女の意見だけを伝えることにした。

「──君に任せるって言っていたよ」

 その言葉に豊は少し肩の力を抜き、意外そうに目を瞬いた。

「そっか……姉さんとはもっと個人的に揉めるかと覚悟してたんだけどな……」

 哲郎が黙って頷くと、豊はデスクの上に指先を置き、話題を切り替えた。

「実はさ、事業をもう少し拡大しようと考えてる。例えば、うちが所有する重機や資材を小規模な建設会社にリースしたり、メンテナンスのサポートを提供したり。建設会社は何も建築するだけが仕事じゃない。それに、災害復旧工事みたいな短期間のインフラ整備にも積極的に力を入れようと思ってる。こういう仕事は人件費を抑えやすいし、回転率がいいから、利益率も悪くない」

 哲郎は、会社の未来を熱く語る豊を眩しそうに見詰めた。若さゆえの無謀な勢いとは違って、現実的な戦略と理想を着実に語る野心的な義弟は、四十代に差しかかった哲郎にとって、耐えがたいほど光り輝いて見えた。

 七年前、自分も同じように若かった。

 庄吉の娘と結婚し、この会社に骨を埋めるつもりで働き、ついには現場監督にまで上り詰めた。だが、それは本当に自分の実力だったのか。それとも庄吉の〝娘婿だから〟という肩書きだけでここにいるのではないのか。哲郎には確信が持てなかった。だからこそ、経営に関わり、役員に名を連ねることに今までこだわり続けた。継ぐ者として、この会社に根を張り、名を残すために。

 ──名前を持たない男は、誰の記憶にも残れない──

 両親と同じように、影のように消えていくのが怖かった。

「義兄さん……?」

 ふと我に返ると、豊が心配そうに顔を覗き込んでいた。

「あ、ああ、すまない……」

 心のざわめきを振り払うように軽く咳払いし、目の前の議題に意識を引き戻す。

「まあ、閑散期に重機を遊ばせるくらいなら、他社に貸し出して固定資産を有効活用するのは良いアイディアだな」

 哲郎は考え込むように腕を組み、もっともらしく義弟の案に同意した。豊もそんな義兄を見つめながら満足そうに頷く。

 豊が打ち出した新しい経営方針は、若干神経質すぎるほど保守的で、事業拡大に慎重だった庄吉とは真逆だった。だが、社内は活気に満ちている。

「親父は事業拡大には慎重だった。でも、これからは公共工事だけに頼るのはリスクがある。自治体の予算次第で受注が減ることもあるしな。だったら、安定した収益の柱を増やしておいた方がいい」

 豊は一旦言葉を切り、少し表情を引き締めた。

「それで、義兄さんには引き続き現場監督をお願いしたい。そして、経営メンバーとして取締役にも名前を連ねてもらうつもりだ」

「──それは本当に?」

 願ってもいない申し出だった。哲郎は思わず身を乗り出し、顔をほころばせる。しかし、豊の次の言葉が彼を制した。

「ただし、条件がある」

 不穏な予感が走る。哲郎は無意識に背筋を伸ばすと、身構えた。豊の表情も僅かに曇っている。

「姉さんを会社には一切関わらせない。だから義兄さんも、姉さんが口を出そうとしたら毅然とした態度で阻止してほしい」

「……ああ、約束しよう」

 哲郎は静かに、だが硬く頷いた。すると豊の表情が少し緩み、ほっとしたような笑みを浮かべると、照れくさそうに話題を変えた。

「実は……今年の十二月に子供が生まれる予定なんだ」

「えっ?」

 紛れもない朗報だったが、一瞬、言葉が出なかった。それは哲郎にとって、別の意味でも衝撃だった。

「ええっと、おめでとう。……庄吉さんは……知っていたのか?」

 緊張した面持ちで、なんとか祝福の言葉をひねり出したが、当の豊は哲郎のざわつきに気づく様子もなく、幸せそうに話を続ける。

「いや、親父が生きてる間に報告できればよかったけどな……とにかく、父親になる身としても、これからはもっと引き締めていきたい。だから義兄さんには、重要な現場を任せると同時に、役員にも入ってもらうつもりだ。家族間のわだかまりをなくすためにも──」

 つまり、葵の首に縄をつけて、うまく操縦しろということだ。少なくとも彼女は〝経営の邪魔〟と豊に判断された。会社にとって、葵の代わりは他にもいる。むしろ親族が経営に口を出しすぎるほうが、社内の士気に悪影響を及ぼしかねない。

 哲郎は静かに頷きながら、ふと気になった。

「葵にはもう伝えたのか?」

 彼女がそこまで興味を持つとは思えなかったが、哲郎は一応聞いてみた。

「……いや、まだだ」

 豊はわずかに表情を曇らせる。

「静香が……姉さんのことでナーバスになっているんだ。だから、親父の四十九日が過ぎたら報告しようと思っている」

「そうか……わかった」

 哲郎は短く応えながら、結婚して十年になりながらも、子供に恵まれない自分たちの運命を呪った。そうでなければ、この現実を受け入れられなかったのかもしれない。

 その時、哲郎のスマートフォンが鳴った。反射的に画面を確認すると、発信者は現場の工事主任だった。嫌な予感が走る。 

「もしもし?」

 電話を取った瞬間、耳元で受話口から緊迫した声が響いた。豊も自然と哲郎に視線を向ける。

「えっ?」

 哲郎は思わず息を呑んだ。手のひらがじっとりと汗ばむ。

「怪我人は? 警察は? ……ああ、すぐ向かう」

 通話を切ると、哲郎は無意識に唇を噛みしめた。豊も異変を悟ったのか、眉間に皺を寄せ、身を乗り出している。

「事故か? どこの現場だ?」

「国道十七号沿いの……道路整備工事の現場だ」

 言葉にした途端、目の前が暗くなるような感覚に襲われた。

「うちの社員か? それとも一般の人が巻き込まれたのか?」

 素早く返される豊の問いに、哲郎は息を詰まらせながらも答える。

「うちの作業員だ……通行人は巻き込まれていない」

「そうか」

 豊はわずかに肩の力を抜いた。社員の事故はもちろん重大だが、第三者が巻き込まれていないことに安堵したのだろう。だが、哲郎にはまだ伝えるべきことが残っている。三代目社長に就任して早々の試練。しかも、それが──。

 哲郎は深く息を吸い、低く沈んだ声で告げた。

「……工事現場で、葵の運転する車がスピードを落とさずに、交通規制をしていた作業員をはねた。被害者は病院に運ばれている。葵自身は軽傷で済んだ」

「えっ?」

 豊の表情が一瞬で凍りつくのがわかった。

「姉さんが? どうしてそんなことを……」

 豊はデスクに拳をつくと、喉に何かが引っ掛かったような声で呟いた。

 理由など、哲郎にもわからなかった。なぜ葵は現場付近を運転していたのか。しかも、スピードを落とさず、人をはねた。 

「それは、まだわからない……」

 見えない闇が、ゆっくりと哲郎の足元を浸し始めていく。

「とにかく、俺は現場を確認した後、病院に向かう」

 スマートフォンをポケットにしまうと、哲郎は椅子から勢いよく立ち上がった。

「あ、ああ……」

 豊の返事は頼りなく、視線もどこか上の空だ。

 哲郎は不吉な影が背後から音もなく伸びてくるような感覚に襲われながら、社長室を飛び出した。

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