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寄生体  作者: 星乃夜衣
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第1話

 ひどく恐ろしい夢を見た。

 胸の奥を抉られるような感覚。思い出そうとした瞬間、哲郎(てつろう)の頭の片隅がじくりと疼いた。首筋がこわばり、足が石のように重い。

 それでもようやく身体を起こすと、哲郎は枕元の時計に目をやった。時刻はまだ四時半前。春の彼岸を過ぎたとはいえ、外はまだ暗い。このまま瞼を閉じれば、再び悪夢に引きずり込まれるだろう。

 傍らで寝息を立てている妻の(あおい)を起こさぬよう、そっとベッドを抜け出すと、寝衣を脱ぎ捨てて作業着に腕を通す。気を配りながら寝室のドアを閉め、階段を降りると整然としたキッチンが哲郎を静かに迎える。暖房の温かさが行き渡っているはずなのに、家の中はどこか冷たく、よそよそしい。哲郎はキッチンカウンターに置かれたコーヒーメーカーのスイッチを入れると、そのまま洗面所へと足を運んだ。

 身支度を整え、ふと鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめる。彫が深く、整った顔立ちの哲郎も四十を過ぎれば、その日焼けした肌に皴が深く刻まれ、最近では白髪も目立ち始めている。

 ふと、鏡に映った自分の姿が、誰かに似てきた──そんな気がした。

 ──死んだ親父に、か? いや、違う。もっと別の──

 誰かの顔が、自分の顔に重なっていくような感覚に、哲郎は眉を顰めた。

 突然、右の鼻のあたりから眉間にかけて、鋭い痛みが脈打つように走る。じわじわと広がる鈍痛に、哲郎は顔をしかめた。

「片頭痛か……」

 ため息交じりに窓の外を見やる。まだ夜の気配が濃く、空の表情まではわからない。だが、どんよりとした重さだけは感じられた。

 哲郎は棚に手を伸ばして頭痛薬を取り出すと、口に放り込んだ。洗面台の蛇口をひねり、勢いよく流れ出す水を両手ですくい、その冷たさを感じながら一気に飲み下す。こうしてすぐ薬に頼るのを、葵には「女みたいだ」と笑われるが、気圧の変化に頭が左右されるのはどうしようもない。

「雨が降ると、仕事がはかどらないな……」

 独り言のように呟いたその時、ふわりと酸味の気配が漂ってきた。哲郎はキッチンに戻ると、淹れたてのコーヒーをひと口啜り、ふっと息をつく。

 早起き自体は苦にならない。妻の眠りを妨げないよう、そっとベッドを抜ける気遣いも、すでに長年の習慣になっている。葵と結婚して十年。川島哲郎は義父が経営する建設会社で現場監督を務め、毎朝六時半には建築現場へと向かう。彼女も父親の会社に勤めてはいるが、本社に出勤するのはいつも午後になってからだ。

 哲郎は、眠っている葵を家に残し、しっかりと玄関の鍵をかけると無言で車の運転席に乗り込んだ。



 灰色の雲が低く垂れこめ、薄暗い朝の空気は湿り気を帯びている。フロントガラスに細かな水滴がにじみ、ワイパーを一度動かすと、ガラスの向こうに静まり返った街並みがぼんやりと浮かび上がった。

 哲郎はハンドルを握り直すと、無言のまま仕事場へと車を走らせた。向かう先は、松浦庄吉(まつうらしょうきち)が昨年の指名競争入札で勝ち取った、国道十七号の改修工事現場。その入札に見せた執念から、二代目社長の〝最後の大口案件〟と噂されている。

 哲郎が到着すると、すでに現場主任の姿があった。

「おはようございます、川島さん」

「おはよう」

 短く挨拶を返し、共に仮設事務所へと向かう。毎朝、六時半には現場に入る主任の癖を、哲郎は良く知っていた。プレハブの前では、作業員たちが三々五々と集まり始めており、缶コーヒー片手に談笑する者や工具の点検をする者と、朝特有のざわつきが漂っている。

 哲郎の姿に気付いた作業員たちは、軽く会釈をしてそれぞれの持ち場へ散っていく。哲郎は小さく頷き返すと、事務所に入り今日の工程表を広げた。朝礼までに大まかな段取りを主任とすり合わせ、作業員たちに指示を出していく。七時きっかりにラジオ体操の音楽がスピーカーから流れ始めると、それが合図となり現場の空気がぴりっと締まった。

 ヘルメットと蛍光オレンジの安全ベストを身に着けると、いつもと変わらない一日のリズムが、哲郎の内側にすっと落ちる。

「どうやら、降らずに持ちこたえそうだな……」

 雨が降れば工程を組み替える必要がある。曇天の朝は、いつも以上に空の機嫌に気を遣わされる。哲郎はほっと息を吐き、薄灰色の空を見上げた。

 


 群馬県前橋(まえばし)市に本社を構える松浦建設は、庄吉の父が戦後の混乱期にわずかな資金で起こした町工務店に始まる。当時の住宅需要の波に乗り、地元の公共工事で少しずつ信用を積み上げていった結果、現在では公共工事を中心に、一般建築や土木工事も手がける中堅ゼネコンへと成長した。

 庄吉の娘、松浦葵と結婚した哲郎は、その勤勉な姿勢から現場監督にまで上り詰めた。だが、あくまで現場での総指揮を執るだけだ。会社の経営権はない。さらに、去年の暮れに庄吉が脳梗塞で倒れて以来、会社全体に微妙な緊張感が漂うようになり、哲郎の神経はすり減るばかりだった。

 庄吉の子供は葵だけではない。再度倒れれば、長男の松浦(ゆたか)が三代目社長就任を見据えて動くだろう。葵が自らの立場を主張しても、午後出勤を続ける彼女に社員の目は冷たい。

「お父さんは、会社を私と豊に半分ずつ分けるって昔から言ってるのよ」

 これは出会った時からの、葵の口癖だった。遺言書にでも記載されているという確信があるのならともかく、口約束であれば確実性に欠ける。

 ──何としても義弟と良好な関係を維持する必要がある──

 午後出勤を繰り返す葵を庇うように、昼休憩を使って前橋の本社へ顔を出す日々が増えていく。甘やかし過ぎだと思いつつも、松浦家が地道に築き上げてきた会社の看板を、哲郎は誰よりも強く意識していた。

 太陽が真上に登り、作業員が弁当を広げ始める中、哲郎は主任に一言伝えると、現場を離れた。前橋の本社の駐車場に車を滑り込ませ、辺りを見渡す。案の定、葵の車はまだ見当たらない。哲郎はオレンジのベストを脱ぎ捨て、作業着の上から薄手のコートを羽織った。

 入り口で軽く靴の土を払い、建物の中に足を踏み入れる。階段を上がった先にあるオフィスには数人の社員がパソコンに向かっていた。哲郎の姿に、皆が顔を上げると軽く会釈をする。微かな緊張感が漂う室内の奥に、義弟の姿があった。

 哲郎よりも七つ年下の松浦豊は、洗練されたスーツを軽やかに着こなし、どこか余裕のある表情を浮かべている。

「義兄さん、姉さんはまだ出社してこないのかい?」

 わざとらしい口調が鼻についたが、実際に葵はまだ姿を見せていない。葵は毎朝八時過ぎに起床すると、午前中はそのまま家でゆったりと自由に過ごし、午後から出社するのが常だった。哲郎がバツが悪そうに眉間にしわを寄せたその時、オフィスのドアが開き、葵が軽やかに入ってきた。

「おはよう」

 外の薄暗い天候とは対照的に、葵の弾むような声が響く。

 春らしい朱色のツーピースにエナメルのパンプスを合わせたその派手な装いは、彼女の華やかな容貌をいっそう際立たせていた。歩くたびに葵の耳元で揺れる大きなイヤリングは、光を反射してきらめいている。

 豊はちらりと葵の方を一瞥し、わざとらしく肩をすくめた。

「毎日午後出勤とは……姉さん、良い身分だね。義兄さんも呆れてるんじゃないかな」

 嫌味たっぷりの豊の言葉に、葵は鼻で笑った。

「あら、だって午前中は豊がオフィスにいるんだから大丈夫でしょう? お父さんからも許可をもらってるわ」

 そう言いながら、ハンドバッグをデスクの上に置くと、葵は立ったまま書類をめくり始めた。

「じゃあ、オレは外出するから」

 豊は短く言い捨てると、踵を返してオフィスを後にした。ドアが閉まると、室内は一気に静まり返り、哲郎と葵だけが残る。

「私のこと呆れてるの?」

 葵は椅子に座ると、書類をデスクに置いて哲郎をじっと見詰めた。葵の眉間にはうっすら皺が寄っている。

「まあ……少しはね」

 哲郎は曖昧に応えた。葵の遅い出勤に文句を言える者など社内にいない。もちろん、哲郎も例外ではなく、葵には頭が上がらなかった。

「お父さんが去年の暮れに脳卒中で倒れてから、みんなピリピリしてるのよ」

 葵はつまらなそうに呟いた。

 松浦庄吉は三か月前、医師から「軽い脳梗塞」と診断された。入院後のリハビリで回復したものの、最近は体調の悪い日が増えているらしい。つい先日、哲郎は本人から直接その話を聞いたばかりだった。

「ああ、そうだよ。先月、弁護士と一緒に遺言状を作り始めたって聞いたばかりじゃないか」

 哲郎は少しだけ声の調子を上げた。

「前から決まってることじゃない! お父さんは私と豊かに半分ずつこの会社を分けるって昔から言ってるわ」

 葵の声が少し張ると、哲郎は小さく溜息をつき、宥めるように言う。

「でも、気が変わるかもしれないだろう?」

 たとえ葵が庄吉の娘であったとしても、毎日のように午後出勤を続けていれば、長男の豊に比重を置くかもしれない。そう考えると、哲郎は落ち着かない気持ちになった。

「私は長女よ。それに、この会社は豊だけじゃ回らないわ」

 その言葉に、哲郎は口を噤んだ。確かに葵の言う通りだった。だがそれは、自分たちだけでもこの会社は回らないという意味でもある。

「まあ、もう少し誠意を見せてもいいと思うよ。せめて遺言状の内容を確認するまでは」

 いつ世代交代が起こるかわからない微妙な時に、会社の半分を担保されている義弟と事を荒立てるわけにはいかない。だが、葵は小さい時から蝶よ花よと大切に育てられてきたせいか、そうした駆け引きの感覚がまるでない。

「大丈夫よ。それよりもなんで哲郎はオフィスに寄ったの?」

 不機嫌そうに葵が尋ねる。

「俺なりに気を使ってるんだよ……じゃあ、現場に戻るから」

 哲郎はそう言うと、ちょうどオフィスに入ってきた秘書と入れ替わるように部屋を出ていった。



 一日の仕事を終え、鉛のように重い身体を気力で持ち上げるようにして、玄関のドアを開ける。今日はいつもよりだるさが増している気がした。

「ただいま」

 哲郎の声が、がらんとした家の中に虚しく響く。返事がないのは分かっているが、それでも毎回、誰かが待っていてくれるかのように期待してしまう。

 哲郎は整然としたキッチンへ向かい、冷蔵庫から昨夜の残り物を取り出すと、電子レンジで温め、簡単に夕食を済ませた。風呂で一日の疲れを癒し、髪を乾かし終えると、面白くもないテレビを眺めながらスマートフォンを弄る。葵からは大学時代の女友達と夕食を共にするとの連絡が午後にあったきりだ。時刻はすでに夜の十時を回ろうとしている。

「毎日こんなだから、あいつは午後出勤なんだよ」

 普段は口に出せない言葉を、誰に聞かせるわけでもなく吐き出した。

 十二年前、小さな建設会社で働いていた哲郎は、友人の紹介で松浦葵と知り合った。松浦建設の二代目社長であり、葵の父親でもある松浦庄吉に気に入られると、哲郎は庄吉の下で働き始め、今では現場監督まで上り詰めた。だが、最終的な経営権を握るのはやはり血の繋がった姉弟である。会社の世代交代が目前に迫るなか、葵は相変わらず自由奔放であり、父親が倒れても、生活スタイルを変えようとしない。果たして、彼女に会社を背負う覚悟があるのか? いや、そもそもその気すらないのではないか。

 だが、どれだけ気を揉んでも、哲郎は庄吉にとって所詮、義理の息子でしかない。

「血の繋がりか……」

 両親を早くに失くし、哲郎には継ぐべき家も名もない。ただ、懸命に誰かのもとで働き、信頼を得るしかなかった。そのせいか、松浦建設が今まさに代変わりを迎えようとしている事実が、哲郎の胸に妙な昂りを呼び起こす。

 ──もし俺が葵の立場だったら、死に物狂いで手に入れようとするだろう。どんな手を使ってでも──

 目の奥が熱くなり、掌に力がこもる。

 代々受け継がれてきた重みを、自分のものにしてみたかった。

 虚しさを振り払うように、リモコンを手に取ると、テレビを消した。途端に家が静まり返る。哲郎はソファから立ち上がると、そのまま寝室へ向かう階段を上がっていく。明日も朝早くから現場に向かわなければならない。心の奥底に沈殿した不安を押しやり、重い身体をベッドに沈めると、そのまま瞼を閉じた。きっと葵が帰宅する頃には夢の中だろう。

「……せめて夢の中では叶えさせてくれよ……」

 そう呟いたものの、意識は抗う間もなく闇へと引きずり込まれていった。

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