第5話 追憶の赤 ②
ひとまず約束をしていた空き地へ向かうと、すでに友達が集まっていた。
翔琉は何食わぬ顔で輪に入り、さっきの出来事は胸の内に秘めたまま野球に参加した。
「翔琉、お前バッターな!」
声がかかり、翔琉はバッターボックス――ただ地面にラインを引いただけの場所――に立った。
マウンドに立つのは、友達の兄で六年生のタケシ君だ。
体格差は歴然としている。タケシ君が投げる球は、小学三年生の翔琉にとっては剛速球だ。今まで一度もバットにかすったことさえない。
タケシ君が大きく振りかぶる。
ビュッ!
白い球が風を切り、翔琉がバットを振るよりも早くキャッチャーミットに収まった。
「ストラーイク!」
手も足も出ない。悔しい。
その時、翔琉は気づいた。
(待てよ……? 何度も繰り返せば、いつかは打てるんじゃないか?)
翔琉はニヤリと笑い、バットの握りを強くした。
パチパチパチ バック。
ピッチャーが振りかぶる瞬間に戻る。
球が来る。振る。空振り。
パチパチパチ。
もう一度。今度は少し早めに振る。まだ遅い。
パチパチパチ。
コースは外角だ。踏み込んで振る。チップ。惜しい。
パチパチパチ。
周りの子供たちからは、翔琉が一球目に対峙しているようにしか見えていない。
だが、翔琉の体感時間では、すでに二十回目の勝負だった。
相手のフォーム、球の軌道、スピード。全てがスローモーションのように見えてくる。
(ここだ!)
二十回目。翔琉は完璧なタイミングでバットを振り抜いた。
カキーン!
乾いた音が響き、ボールは快音を残してピッチャーの頭上を越えていった。
「すげえ! 翔琉、あのタケシ君の球を打ったぞ!」
「マジかよ! ヒットだ!」
周りの友達から大きな歓声が上がる。タケシ君も「やるな、翔琉」と驚いた顔をしている。
翔琉は一塁ベースの上で、ガッツポーズをした。
身体中を駆け巡る、心地よい優越感。
努力も練習もせず、ただ能力を使っただけで手に入れた称賛。
それは甘美な毒薬のようだった。この日、翔琉の中で何かが確実に壊れ、そして再構築された。
正当なプロセスを飛ばして結果だけを得る快感。それは、後にクレイジーな人格を形成する礎となってしまったのだ。
陽が暮れるまで遊び尽くし、翔琉は帰路についた。
体は鉛のように重かった。
以前より疲れやすい気がする。能力を使うと体力を消耗するのかもしれない。だが、その疲労感さえも、今日の戦果の前では些細なことに思えた。
上級生から何度もヒットを打ってやった満足感。
そして何より、自分だけが世界のルールを無視できる「特別」な存在であるという秘密。
団地のドアを開ける。
「ただいまー」
いつもの玄関。いつもの匂い。だが、翔琉の心持ちは昨日までとは別人のようだった。
夕飯の支度をしていた慶子が、台所から顔を覗かせた。
「おかえり、翔琉ちゃん。いいことでもあったのかい? なんだか嬉しそうだね」
祖母の鋭い観察眼に、翔琉はドキリとした。
今までは、学校であったこと、友達と話したこと、そのすべてをおばあちゃんに話していた。隠し事なんて一つもなかった。
けれど、今日は違う。
大人の女性の下着を五十回も見て興奮したなんて、口が裂けても言えるわけがない。
それに、この能力のことを話してしまったら、「そんなことしちゃダメ」と怒られるかもしれない。もしかしたら、気味悪がられるかもしれない。
翔琉は、おばあちゃんに対して初めて「秘密」を持った。
同時に、この能力を使っておばあちゃんをも驚かせてやりたい、もっと優越感に浸りたいという欲求が鎌首をもたげた。
「べ、別にないよ。いつもとおんなじだったし」
翔琉の声は上ずっていた。
慶子は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上追及はしなかった。孫の成長過程にある反抗期のようなものだろうと解釈し、優しく微笑んだ。
「そうかい。さあ、手洗いうがいをしてらっしゃい。今日の夕飯は、翔琉ちゃんが大好きなハンバーグだよ」
その言葉に、翔琉は「ここだ」と思った。
翔琉は背中を向けたまま、パチパチパチ。
バック。
十秒前。
「今日の夕飯は翔琉ちゃんが大好きな……」
慶子が言いかけた言葉を遮るように、翔琉は自信満々に言い放った。
「ねぇおばあちゃん。今日の夕飯、当ててみようか? ……ハンバーグでしょ?」
慶子は目を見開き、驚きの表情で振り返った。
「あら凄い! 大正解よ翔琉ちゃん。まだ焼いてもいないのに、よくわかったわねぇ。勘が良いのね。うふふ」
大好きなおばあちゃんが驚いた顔。
それは、翔琉をさらに調子に乗せるのに十分だった。
(もっとだ。もっと驚かせたい)
夕飯ができるまでの間、翔琉は獲物を探す獣のような目で部屋の中を見渡した。何か能力を使えるものはないか。
テレビ台の下に、古びたトランプを見つけた。
以前、テレビのマジックショーで見たことがある。相手が引いたカードをピタリと当てるマジック。
(あれなら、僕にもできるはずだ)
翔琉はトランプを手に取り、どういう手順でやれば時間を戻してカードを当てられるかシミュレーションを始めた。
だが、さすがに九歳の知恵では、マジックの演出と時間遡行の組み合わせ方が具体的によく分からなかった。
あれこれと考えているうちに、台所からジュウジュウと肉汁が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
「翔琉ちゃん、ご飯できたよー」
その匂いに抗えるはずもなく、翔琉はトランプを放り出して食卓へと向かった。
ふっくらと焼き上がったハンバーグに箸を入れると、肉汁が溢れ出す。口いっぱいに頬張りながら、翔琉は幸せを噛み締めた。
マジックのことも、一瞬感じた恐怖も、すべて忘れて夢中で食べた。
入浴を済ませ、布団に入ると、かつてないほどの強烈な睡魔が襲ってきた。
泥のように体が重い。
まぶたを開けていることすら辛い。
それは、一日に何度も時間を巻き戻したことによる、脳と肉体への過大な負荷だったのだろう。
翔琉は抵抗することなく、深い闇の中へと落ちていった。
規則正しい寝息を立てる翔琉の横顔は、まだあどけない少年のものだった。
だが、その魂には、消えることのない「歪み」が刻まれてしまった。
努力を嘲笑い、結果だけを掠め取るズルさ。
都合が悪ければリセットすればいいという軽薄さ。
この日、無垢な少年・兎木緒翔琉は死に、歪んだ倫理観を持つ能力者が産声を上げたのであった。




