第35話 色彩豊かに
あれから、怒涛のような数日が過ぎ去った。
海果月署の年末は、まさに戦場だった。
『万夏津川女性連続殺人事件』の解決を受け、マスコミへの対応、膨大な調書作成、そして犯人の余罪追及。俺と杵塚先輩は、息つく暇もなく書類の山と格闘していた。
「おい兎木緒君! 鑑識からの追加レポート、まだ整理できてないのか!」
「今やってますってば! 先輩こそ、報告書の誤字脱字、臼伊賀管理官にまた怒られますよ」
「なっ、バカ言え! 僕の書類は完璧だ、あ、本当だ。『被疑者』が『被議者』になってる」
杵塚先輩の慌てふためく姿を見ながら、俺は苦笑する。
相変わらずの臼伊賀管理官は、事件解決の手柄をしっかり自分の指揮のおかげだと上層部に報告したらしいが、署内での信頼は地に落ちていた。
逆に、現場で体を張った杵塚先輩と、それをサポートした(ことになっている)俺への評価が少し上がり、新米感が薄れてきた。
そんな喧騒の中、俺の心はずっと別の場所にあった。
なな子のことだ。
事件の翌日、彼女は事情聴取のために署を訪れた。顔色は悪くなかったが、ふとした瞬間に見せる陰りのようなものが気にかかった。
「大丈夫か?」と聞くと、彼女は「うん、平気」と笑った。
だが、その笑顔が無理をして作られたものだということは、幼馴染の俺には痛いほど分かった。
あの恐怖は、そう簡単に消えるものじゃない。
俺は彼女のそばにいてやりたかった。だが、刑事としての職務がそれを許さない。
その後、刑事課忘年会の三次会でスナック『エッホ』へ訪れた際も、なな子は健気に接客をしてくれたが、どこか寂しげに見えた。
もどかしさを抱えたまま、カレンダーは最後の一枚をめくり終えようとしていた。
十二月三十一日、大晦日。
奇跡的に、俺と杵塚先輩は夕方で非番となった。
「兎木緒君、今年はよくやった。君のおかげで、最高の年越しができるよ」
ロッカールームで着替えながら、杵塚先輩が珍しく真面目な顔で言った。
「今日はゆっくり休め。そして、大切な人と過ごすといい」
「へいへい。先輩も飲み過ぎないでくださいよ」
俺は急いで身支度を整え、署を飛び出した。
外はキンと冷えた空気に包まれていたが、雪は止んでいた。
ポケットのスマートフォンを取り出し、メッセージを送る。
『仕事終わった。今から迎えに行く』
すぐに既読がついた。
『待ってる』
忘年会三次会の最中に、酔った力を借りてなな子へ年越しを一緒にどうだと誘ってみたらOKをもらえた。たった四文字の返信に、俺の心臓が跳ねた。
なな子のアパートの前に車を停めると、彼女はすでに外で待っていた。
厚手の白いダウンコートに、赤いマフラー。吐く息が白く光っている。
「寒かったろ。中で待ってればよかったのに」
「ううん、外の空気が吸いたくて。それに、少しでも早く翔琉君に会いたかったし」
なな子は助手席に乗り込み、少し照れたように微笑んだ。その言葉の破壊力に、俺はハンドルを握る手を滑らせそうになった。
「そっかよ」
素っ気ない返事しかできない自分が恨めしい。
「どこ行く?」
「海果月神社に行こうぜ。初詣。屋台も出てるし、賑やかな方が気晴らしになるだろ」
「賛成! 甘酒飲みたい」
車は市内の中心部へと向かった。
除夜の鐘が鳴り始める頃、俺たちは神社の参道にいた。
海果月神社は、県内でも有数の初詣スポットだ。善男善女の波が、本殿に向かってゆっくりと流れている。
「すごい人だねぇ」
なな子が目を丸くする。
「はぐれんなよ」
俺は何気ない風を装って、なな子の手袋ごしに手を握った。彼女が一瞬ビクリとしたのが伝わってきたが、すぐにギュッと握り返してきた。
その温もりが、俺の胸の奥を締め付ける。
数日前、この手は冷たく、拘束されていた。
もし、あの時俺が諦めていたら。もし、一〇秒戻せる能力がなかったら。
この温もりは、永遠に失われていたかもしれない。
参道の両脇には、焼きそばやリンゴ飴の屋台が並び、威勢のいい掛け声が飛び交っている。
祭りの熱気と、新年を迎える高揚感。
なな子の顔にも、久しぶりに自然な赤みが差していた。
「あ、見て翔琉君! おみくじ! 一緒に引こうよ」
「まだ参拝もしてねーだろ。順序ってもんが……」
その時、後ろからドッと人波が押し寄せてきた。新年へのカウントダウンが近づき、参拝客が殺到し始めたのだ。
「きゃっ!」
なな子がバランスを崩す。
俺はとっさに彼女の肩を抱き寄せ、人混みの圧力から守るように体勢を変えた。
「大丈夫か?」
至近距離になな子の顔がある。長いまつ毛、透き通るような肌。
周囲の雑踏が一瞬、遠のいた気がした。
なな子は俺の腕の中で、安心したように息を吐いた。
「うん、ありがとう。私、やっぱり運がいいみたい」
「え?」
「だって、あんな広いマンションの、たくさんある部屋の中から、翔琉君に見つけてもらえたんだもん。神様が守ってくれたのかなって」
なな子は無邪気に笑った。
悪気がないのは分かっている。彼女にとって、あの救出劇は「奇跡的な偶然」に見えたはずだ。
だが、その「運」という一言が、俺の心の柔らかい部分をチクリと刺した。
運?
違う。
あれは運なんかじゃない。
俺は無言でなな子の手を引き、人混みをかき分けて進んだ。
「翔琉君? そっちは本殿じゃないよ?」
「いいから、ちょっと来い」
俺たちが向かったのは、賑やかな参道とは反対側の、本殿の裏手にある静かな林だった。
そこは、古い杉の木に囲まれた、薄暗い場所だった。
祭りの喧騒は遠くにくぐもり、冷たい風が木々を揺らす音だけが響いている。
俺は立ち止まり、なな子に向き直った。
「ここ、覚えてるか?」
なな子は周囲を見回し、ハッとしたように口元を手で覆った。
「ええ、覚えてる」
覚えていてくれた。
俺たちがまだ中学一年生、祭りの日。
俺が人生で初めて、なな子に「好きだ」と告白し、そして見事に玉砕した場所だ。
『翔琉君とお付き合いできないの。ごめんね』
あの時の気まずさ、恥ずかしさ、そして胸が引き裂かれるような痛み。
それ以来、大人になって再会しても俺たちは「ただの幼馴染」という安全地帯に逃げ込み、微妙な距離感を保ち続けてきた。
ここは、俺の初恋の墓場だ。
「なんで、ここに?」
なな子が不安そうに俺を見上げる。
俺は深呼吸をして、白い息を吐き出した。
「なな子。さっき、運が良かったって言ったよな」
「う、うん」
「訂正させてくれ。あれは運じゃない」
俺は真っ直ぐに彼女の目を見た。
「俺は、お前を見つけるために、何度も飛び降りたんだ」
「え……?」
「あのビルの屋上から、お前がいる部屋を見つけるまで、何度も何度も落ちて、時間を戻した。一回や二回じゃない。百回以上」
なな子の目が大きく見開かれる。
俺の能力のことは彼女だけが知っている。だが、それをどう使ったかまでは話していなかった。
「怖かったぞ。地面が迫ってくる感覚。死ぬかもしれない恐怖。それでも、お前が見つからない恐怖の方がもっとデカかった」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「どこの部屋か分からない。手がかりもない。普通なら諦める状況だった。でも、俺は絶対に諦めなかった。なぜだか分かるか?」
俺の声が少し震えているのが自分でも分かった。
「お前が、俺にとって何よりも大切だからだ。運任せになんかできなかった。神頼みなんかしてる余裕もなかった。俺の意志で、俺の力で、絶対にお前を助け出したかったんだ」
なな子の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「翔琉、君」
「かっこ悪くて言えなかったけどな。俺はそれくらい必死だったんだよ」
なな子が、俺の胸に飛び込んできた。
ドスッという音と共に、彼女の腕が俺の背中に回される。
「バカだよ、翔琉君は!」
彼女の声が涙で濡れている。
「何回も……そんな怖い思いして、バカだよ!」
「ああ、バカだよ。お前に惚れてる大バカ野郎だ」
俺は彼女の頭を優しく撫でた。
「私、知らなかった。翔琉君が、そんなに私のこと、」
なな子は顔を上げ、濡れた瞳で俺を見つめた。
「翔琉君は、私のヒーローだよ。世界一の、信頼できるかっこいいヒーロー」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で中学一年生の時の古傷が、温かな光に包まれて消えていくのを感じた。
あの日の俺は、ただの子供で、自分勝手な想いをぶつけただけだった。
でも今の俺は違う。
彼女を守るためなら、地獄の淵だってのぞける。何度でも時間をやり直せる。
「なな子」
俺は彼女の涙を親指で拭った。
「昔、ここでフラれた時のリベンジ、させてくれ」
なな子が泣き笑いのような表情で頷く。
「俺と付き合ってくれ。もう幼馴染は卒業だ。これからは、お前の彼氏として、一生お前を守らせてほしい」
遠くで、年越しカウントダウンの歓声が上がった。
『十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……』
「……はい」
なな子の答えは、新年の幕開けを告げる歓声にかき消されそうなくらい小さな声だった。
『ハッピーニューイヤー!』
その瞬間、遠くの本殿の方から歓声と拍手が沸き起こり、神社の鐘がゴーンと厳かに響き渡った。
だが、今の俺たちには、世界に二人きりしかいないような静寂があった。
「言っておくけど、この告白は、一度もやり直してないからな」
俺が能力のジョークを交えて言うと、なな子はクスリと笑った。
「うん、使ってたとしても何度も同じ答えよ、イエス」
俺は彼女の顎に手を添え、ゆっくりと顔を近づけた。
能力を使う必要はない。時間を戻す必要もない。
この瞬間、この結果だけは、何があっても変えたくない確かな現実だ。
冷えた空気の中で、重なった唇だけが熱かった。
長く、深い口づけ。雪解け水のように、心の中の迷いや不安がすべて洗い流されていく。
唇を離すと、なな子は顔を真っ赤にして、でも幸せそうに微笑んでいた。
「あけましておめでとう、翔琉君」
「ああ、おめでとう。なな子」
帰り道、俺たちはしっかりと手を繋いで歩いた。
人混みは相変わらずだったが、もうはぐれる心配はなかった。
空を見上げると、雲の切れ間から冬の星座が七色に輝いて瞬いている。
俺はポケットの中で、自分の掌を握りしめた。
一〇秒だけ時間を戻せる能力。
かつては、この力を疎ましく思ったり、くだらない悪戯に使ったりしたこともあった。自分は「モブ」でいい、面倒ごとは御免だと、人生から逃げるための言い訳にしていた。
だが、今回の事件で思い知った。
この力は、誰かの運命を変えることができる。大切な人を守るための、最後の切り札になり得るんだと。
これからは、もっとマシな使い方をしてやるよ。
スクラッチくじを当てたり、嫌なことから逃げたりするためじゃない。
誰かの涙を止めるために。絶望を希望に変えるために。この世界の人々が色彩豊かに輝くために。
もちろん、能力に頼り切りになるつもりはない。
杵塚先輩のあの姿。何の特殊能力も持たない生身の人間が、ただ熱い正義感と執念だけで巨悪に立ち向かい、周りの人間を動かしていったあの姿。
あれこそが、俺が目指すべき「刑事」の姿だ。
能力はあくまで補助輪だ。
俺自身がもっと強くならなきゃいけない。観察力を磨き、体力をつけ、人の心の痛みが分かる人間にならなきゃいけない。そうでなければ、もし能力が使えない状況になった時、なな子を守り抜くことはできないだろう。
「ねえ、翔琉君。何考えてるの?」
隣を歩くなな子が、俺の顔を覗き込んでくる。
「ん? いや、今年の目標をな」
「へえ、どんな?」
「秘密だ。ま、見ててくれよ」
俺は繋いだ手に力を込めた。
「今年は忙しくなるぞ。仕事も、プライベートもな」
「ふふ、覚悟しておくわ」
なな子が嬉しそうに俺の肩に頭を寄せる。
新しい年が始まった。
海果月県の冬はまだ厳しいが、俺の隣には春のような温もりがある。
俺は前を向き、力強く一歩を踏み出した。
もう、「モブ」の兎木緒翔琉は捨てた。
ここからが、俺の新しい人生のスタートだ。
第一章 了
登場人物紹介
兎木緒 翔琉24歳
海果月署・刑事課捜査一課の新人刑事。
『バック』:1秒間に3回瞬きをすることで、時間を10秒だけ巻き戻すことができる。
基本的には「事なかれ主義」で、自身の能力を使って楽をしようとする現代っ子。しかし根は真面目で、相棒や市民を守るためには、数百回の「死に戻り」という地獄の反復作業も厭わないド根性を見せる。中学時代のトラウマ(スカートめくり事件)を乗り越え、初恋の相手・なな子と交際をスタートさせた。
【裏の顔】超高難易度ゲームをノーミスでクリアする伝説の配信者「グリーンゲマー」。
杵塚 徹34歳
海果月署・刑事課捜査一課の巡査部長。兎木緒の教育係兼バディー。
ポマードでガチガチに固めた七三分けと、スーツが悲鳴を上げるほどの筋肉が特徴。
昭和の刑事ドラマから飛び出してきたような熱血漢。「刑事は気合と足」が信条。暑苦しいが裏表のない正義感の塊で、部下を守るためなら上司にも噛みつく。
兎木緒の能力によって(本人の知らないところで)何度も殉職と蘇生を繰り返している「死にゲー」の操作キャラ的存在。愛妻家で、息子・正義を溺愛している。
餅葉田 なな子24歳
兎木緒の幼馴染。昼は事務員、夜はスナック『エッホ』のチーママとして働く。
兎木緒の能力を知る唯一の理解者。かつて兎木緒の告白を振り、能力の暴走を止める「バック掟八訓」を作った張本人。
明るく聡明で、兎木緒の嘘や変化を鋭く見抜く観察眼を持つ。
サービスエリアの福引(5等)で兎木緒から貰った、眠そうな顔に見える「木の年輪キーホルダー」。
臼伊賀 良儀人37歳
県警本部の管理官(警視)。キャリア組のエリート。
冷徹で傲慢。現場の刑事を見下し、部下の手柄を横取りすることを何とも思っていない……ように振る舞っているが、裏では部下の待遇改善を本庁に申請したりするツンデレ気質な一面も(本人は否定)。
ストレスにより頭頂部が涼しくなっており、高級人毛カツラを愛用している。作中で一度、矢に射抜かれてカツラだけが壁に磔にされた。
兎木緒 慶子享年74歳
兎木緒の祖母(故人)。
両親を亡くした翔琉を女手一つで育て上げた慈愛の人。道を踏み外しかけた親族(竜也)をも更生させるほどの包容力を持っていた。
兎木緒 竜也48歳
兎木緒の叔父。
かつて兎木緒の能力を利用しようとしたが、慶子の支えにより改心。現在は工務店で働きながら、妻子と共に幸せに暮らしている。
バック掟八訓
一、誰にも言うな。秘密厳守
二、死んだら終わり。無理は禁物
三、エロスに使うな。紳士であれ
四、余裕をもって。遊びは2秒
五、異彩を放つな。俺はモブ
六、妄想現実。区別はしっかり
七、善行良きかな。ケチらず実施
八、慶子おばあちゃんを大切に
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