第34話 金獅子の鬣(たてがみ)
午前五時〇〇分。
目覚まし時計が鳴るコンマ一秒前、私は瞼を開けた。
私の生活に誤差は許されない。体内時計の狂いは、精神の弛みだ。
カーテンを開けると、暗い空の向こうに、まだ眠る海果月の街が広がっている。
静寂。この時間だけが、私が「私」でいられる唯一の聖域だ。
私は厚手のガウンを羽織り、ベランダへと出る。
そこには、私の唯一の趣味であり、人生哲学の実験場である電熱温室の家庭菜園が広がっている。
整然と並んだプランター。一ミリの乱れもなく誘引された茎。
私の視線は、一株のトマトの苗に注がれた。
「おはよう。……『キネヅカ』」
私は愛おしそうに、その葉を指で弾いた。
この『キネヅカ』は、実に手のかかる苗だ。放っておくとすぐに脇芽を無秩序に伸ばし、あさっての方向へ成長しようとする。情熱だけで突っ走り、養分を無駄にする愚か者だ。
隣には『トキオ』がある。こちらは一見ひょろりとして頼りないが、根の張り方が狡猾だ。土の中で水を求めて変則的に伸びている。
私はジョウロを手に取った。水は満たされている。だが、私はそれをかけない。
トマトという植物は、アンデス高地の過酷な環境が原産だ。
水をやりすぎてはいけない。甘やかせば、茎ばかり太くなり、肝心の実の味がぼやける。
極限まで水を与えず、枯れる寸前のストレスを与える。
喉が渇き、生命の危機を感じた時、トマトは初めて自らの体内に糖分を蓄え、濃厚な甘みとコクを持つ果実へと進化するのだ。
「水が欲しいか? やらんよ」
私は乾いた土を見て微笑む。
「欲しければ、自らの根を深く伸ばせ。地中の僅かな湿り気を、泥を啜ってでも探し出せ」
私は『キネヅカ』の脇芽を、指先で容赦なく摘み取った。プチッ、という緑の千切れる音が心地よい。
新芽は若いうちに間引く。すべての芽を育てようとすれば、共倒れになるからだ。
強く、太い一本だけを残し、あとは切り捨てる。
非情ではない。これが愛だ。
人間も同じだ。
『無能な上司ほど、部下が育つ』。
これが私の信条であり、この海果月県警で私が演じている役割の全てだ。
上司が有能すぎると、部下は思考を停止する。「あの人に任せておけばいい」という甘えが、組織を腐らせる。
逆に、上司が理不尽で、冷酷で、話の通じない壁であればどうだ?
部下は団結する。「あいつに任せてはおけない」「自分たちでなんとかしなければ」という危機感が、彼らの潜在能力を爆発的に開花させる。
先日の『弘樹ちゃん誘拐事件』、そして『万夏津川女性連続殺人事件』。
私はあえて、彼らの捜査方針を否定し続けた。
「SNSなど見るな」「勘に頼るな」「私の指示通りに動け」。
私の言葉を聞いた時の、杵塚のあの悔しそうな顔。兎木緒の反抗的な目。
ゾクゾクするほど素晴らしかった。
あれでいい。
私を憎め。私を乗り越えろ。
私の理不尽な命令を無視してでも、自らの正義を貫き通す気概を見せろ。
結果、彼らは私の想像を超えた。
杵塚の執念は犯人を追い詰め、兎木緒の機転は最悪のテロを防いだ。
私が手取り足取り教えていたら、決して到達できなかった境地だ。
私はリビングに戻り、ノートパソコンを開いた。
ここからは、誰にも見せない「裏の仕事」の時間だ。
画面には、本庁の総務部宛てのメール作成画面が表示されている。
件名は『海果月署・刑事課の環境改善予算に関する再・再申請』。
――現場の捜査員は疲弊している。特に夏季・冬季の空調設備の不備は、集中力を削ぎ、捜査ミスを誘発する恐れがある。即急な設備の入れ替えを要求する。
――また、潜入内偵調査などの特殊任務に当たる捜査員(杵塚巡査部長、兎木緒巡査等)への危険手当の増額を強く求める。彼らの働きは警視総監賞に値するものであり、規定通りの評価では不十分である。却下された場合、私は来期の予算委員会にて徹底抗戦する構えである……。
キーボードを叩く指に力が入る。
現場の人間は、現場のことだけを考えていればいい。
金のこと、政治のこと、上層部からの理不尽な圧力。それらはすべて、私が防波堤となって食い止める。
彼らが快適に、そして存分に「私を倒すための捜査」に打ち込めるよう、舞台を整えるのが私の仕事だ。
この申請が通れば、杵塚たちには特別ボーナスが出るだろう。
もちろん、私の口添えだとは死んでも言わない。「システムのエラーで多めに振り込まれたんじゃないか?」とでも言って、突き放してやるつもりだ。
送信ボタンを押す。
ふう、と息を吐く。
これが私の贖罪であり、彼らへの隠された報酬だ。
独身寮のロビーに設置したクリスマスツリーもそうだ。
あれは私の自費で用意した。
殺伐とした現場から戻る彼らの気が少しでも休まるようにと、毎日こっそり飾りを増やしていたのだ。
まだ片付けないでおこう。あの温かい光が、彼らの帰りを優しく迎えるように。
さて、出勤の時間だ。
私は洗面台の鏡の前に立つ。
そこには、疲れ切った中年の男が映っている。頭頂部は寒々しく、かつての激務とストレスの代償として失われた髪は戻らない。
私は、台座に置かれた「それ」を手に取った。
高級人毛で作られた、漆黒のカツラ。
これはただの装飾品ではない。私を「冷徹な管理官」へと変身させるための、鬣だ。
カツラを被る。位置を調整する。
よし。
私は鏡の中の自分に向かって、表情を作った。
口角を下げ、目を細め、他者を虫けらのように見る侮蔑の表情。
「……おい、そこの二人。無能が伝染るから私の視界に入るな」
声に出してみる。
ダメだ、まだ甘い。声に張りがない。
「……貴様らの代わりなどいくらでもいる。組織の歯車らしく、黙って回っていろ」
いい。凄みが出てきた。
毎朝のこのリハーサルが、現場での完璧な悪役を完成させる。
私はライオンにならなければならない。
我が子を千尋の谷へ突き落とす獅子。
這い上がってきた者だけが、これからの凶悪化する社会で生き残れる。
杵塚、兎木緒。私を憎み、私を恨み、そして私を踏み台にして高みへ行け。
お前たちがいつか、私を本当の意味で追い越していくその日まで、私はこの高く、分厚く、理不尽な壁であり続けよう。
私はネクタイをきつく締め上げた。
首が締まる感覚。これが心地よい。
自分自身への戒めのように。
ジャケットを羽織り、革靴を履く。
玄関のドアを開けると、冷たい冬の風が吹き込んできた。
背筋が伸びる。
さあ、今日も演じ切ろう。
世界で一番、嫌な上司を。
私の名前は臼伊賀良儀人。37歳。職業警察官。今だ独身。
「……行ってきます」
誰もいない部屋に呟き、私はサバンナの戦地へと足を踏み出した。




