第33話 凍てついたホワクリ ⑦
「やるしかねぇか」
俺は張り付くような冷たさの鉄でできたフェンスを素手で掴み、それを乗り越えた。
足元は断崖絶壁。遥か下に、豆粒のような車が行き交っている。
落ちれば確実に死ぬ。
だが、俺には『バック』がある。
地面に激突する直前、時間を一〇秒戻せば、俺はまたこの屋上に戻ってくる。
その落下している数秒間、俺は重力に引かれながら、マンションの窓の中を観察することができる。
人間の動体視力と、命がけのコードレスバンジージャンプ。
「待ってろよ、なな子」
俺は深呼吸をし、ランドマークのタワーを背にして、虚空へと身を投げた。
ヒュオオオオオオッ!!
風切り音が耳をつんざく。内臓が浮き上がるような浮遊感。
恐怖で竦みそうになる目を、カッと見開き、自分に言い聞かせる。
見ろ! 窓の中を見ろ!
落下しながら、俺の視線は高速でマンションの窓を走査する。
三〇階、二九階、二八階……。
家族団欒の食卓、テレビを見る老人、暗い部屋。
次々と景色が流れていく。
地面が迫る。アスファルトの目がはっきりと見える距離。死の匂い。
――パチパチパチ、バック!
俺は能力を発動させた。
世界が反転する。
無事、か? 俺は再びビルの屋上に降り立った。
心臓が破裂しそうだ。足がガクガクと震えている。
怖い。逃げたい。でもまだだ。まだ見つかっていない。
一度の落下で見られる範囲なんてたかが知れている。
角度を変え、落ちる姿勢を変え、何度も繰り返すしかない。
俺は再び、クリスマスの夜景が広がる雪の宙へ舞った。
――パチパチパチ、バック!
――パチパチパチ、バック!
――パチパチパチ、バック!
感覚が麻痺してくる。
次第に落ちる恐怖心は薄れていったが、代わりに、なな子を見つけられない焦燥感という別の恐怖がせり上がってくる。
五〇回目。
吐き気がする。脳が揺さぶられ、平衡感覚がおかしくなる。
それでも、俺は飛び続けた。
どこだ、どこにいる! なな子!
八〇回目。
SNSの写真にあったカーテンの色。特徴的な照明の形。それを探せ。
一〇〇回を超えた時だった。
落下速度が最高潮に達した視界の隅に、見覚えのある光景が飛び込んできた。
三八階、北側の角部屋。
遮光カーテンの隙間から、男の影が見えた。そして、その奥の椅子の下に、ぐったりと横たわる女性の姿。
「見つけたッ!!」
俺は絶叫と共に、時間を巻き戻した。
――パチパチパチ、バック!
屋上に戻った俺は、膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、無線機を掴んだ。
「杵塚先輩! 見つけました! 三八階、北西の角部屋です! 三八〇一号室!」
『よくやった兎木緒君! 僕も現場へ向かっている! 一人での突入は危険だから応援を待つんだ!』
俺は屋上から非常階段を転げ落ちるように駆け下りた。最上階からエレベーターを使って下へ行く。ゆったりと動くエレベーターの表示がもどかしい。
三八階に到着すると、杵塚先輩の姿はまだない。
俺一人で入ってしまおうか……くそっ! 考えている時間がもったいない!
その時、後ろから声がした。
「兎木緒君! 待たせたな! それにしてもよく特定できたな。突入するぞ」
杵塚先輩が現れた。その顔を見ただけで一気に安心感を覚えたが、それと同時にこれから突入する緊張感も込み上げてきた。
杵塚先輩が銃を構え、俺がドアの横に立つ。
ピンポーン。
チャイムを鳴らす。
数秒後、ガチャリと鍵が開く音がした。
「はーい、どちら様?」
ドアを開けたのは、小柄で上品そうな老婦人だった。エプロン姿で、手にはしゃもじを持っている。
予想外の人物に、俺たちは一瞬虚を突かれた。
「け、警察です! 息子さんはいますか!」
「え? あの子なら部屋に……」
その時、奥の部屋から物音がした。
「母さん、誰だよ! いま大事な儀式の最中なんだぞ!」
男の声だ。
俺は老婆の脇をすり抜け、土足で廊下を走った。
リビングから声がした方のドアを蹴破る。
「動くな! 警察だ!」
そこには、異様な光景が広がっていた。
部屋中に電車のポスターや模型が飾られ、部屋の中央には、電車の座席を模した椅子が置かれている。
その椅子の下に、なな子が横たわっていた。手足を拘束され、ぐったりと首を垂れている。
「なな子!」
「な、なんだお前ら! ここに入ってくるな! ここは俺の車両だ!」
犯人の男は、三十代半ばくらいの痩せた男だった。手にはナイフを持っている。
「貴様が連続殺人犯か!」
杵塚先輩が銃口を向ける。
男は怯んだ様子もなく、ギラギラした目で叫んだ。
「人聞きが悪いな! 俺は掃除をしてるだけだ! 俺の神聖な指定席に土足で踏み込んでくる汚らわしい女どもを、排除してるだけだ!」
男が杵塚先輩に飛びかかった。
男はナイフを振り回すが、素人の動きだ。杵塚先輩は手首を掴み、強烈な背負い投げを見舞った。
ドスン! と床が揺れる。
「ぐあっ!」
男が呻き声を上げ、ナイフが手から離れる。
杵塚先輩はすかさず男の腕をねじ上げ、手錠をかけた。
「俺の席を、奪う奴は全員悪魔だ、これは悪魔祓いなんだぁー!」
床に這いつくばりながら、男はブツブツと譫言のように繰り返していた。
杵塚先輩が男を確保するのを確認し、俺はなな子の元へ駆け寄った。
「なな子! おい、しっかりしろ!」
拘束を解き、抱き起こす。体は温かい。息もある。
「う、ん、翔琉、くん、?」
なな子が薄っすらと目を開けた。
「よかった、本当によかった」
俺はなな子の体を強く抱きしめた。張り詰めていた糸が切れ、目頭が熱くなる。
「ごめん、遅くなって。怖かったろ」
「うん……怖かった……」
なな子は俺の胸に顔を埋め、泣き出した。
程なくして、救急隊と応援の警官たちが到着した。
パトカーの後部座席に乗せられた犯人は、母親に向かって「母さん、今日の夕飯まだ?」などと叫んでいる。母親は泣き崩れていた。
歪んだマザコンと、異常な独占欲が生んだ悲劇だった。
現場検証が行われる中、マンションの下まで来ていた救急車の中で、なな子は薬品で眠らされていたようだったため、簡易健康診断をしてもらっている。俺はそれに付き添い、毛布にくるまったなな子の安心を保った。
その後、なな子は外傷もなく、命に別状はないとの診断だった。
そこへ、杵塚先輩が現れた。
「しかし兎木緒君、本当にお手柄だったな」
杵塚先輩が、俺となな子の分の缶コーヒーを二つ渡してきた。
「どうやってあんな短時間で部屋を特定したんだ? 隣のビルから見たと言っていたが」
「あー、まあ、俺、視力だけはいいんで。たまたまカーテンの隙間から見えたんすよ。コーヒーあざぁす」
俺はコーヒーを受け取りながら、適当にごまかした。
「たまたま、ねぇ。まあいい。結果オーライだ」
その言葉を聞いたなな子が、俺を見て少し笑ってみせた。
杵塚先輩もニカッと笑い、俺の背中をバシッと叩きながらなな子へ話しかけた。
「兎木緒君、彼女さんのために必死になって捜査したんですよ」
「え、いや、別に俺たちはそういう関係じゃないんで……」
「またまたぁ。あんなに真剣になった兎木緒君は初めて見たよ。それに最後は抱き合って泣いてたじゃないか。君たちはお似合いだよ」
「だから違いますって!」
俺は自分の顔が熱くなるのを感じながら、それを悟られまいと、なな子の方を見ることができなかった。
その後、なな子からの事件調書は後日とし、杵塚先輩の指示でなな子をパトカーで家まで送ることとなった。
俺はなな子を乗せて車を走らせた。時刻は深夜零時の少し手前だ。
雪は激しさを増し、街は静寂に包まれていた。
車内には暖房の音が低く響いている。
助手席のなな子は、疲れているはずなのに、どこか安らいでいるように見えた。カバンには、あの『木の年輪キーホルダー』が、揺れている。
「翔琉君」
「ん?」
「翔琉君、ありがとう、助けてくれて。あと、メリークリスマス」
なな子は潤んだ瞳で俺を見上げた。
「ああ、メリークリスマス」
最悪のクリスマスだったが、最後だけは悪くない。隣になな子が生きて座っている。それだけで、俺へのプレゼントは十分だった。
なな子のアパートの前に到着した。車を止める。
「じゃあ、ここで」
「うん。ありがとう」
なな子はシートベルトを外したが、すぐに降りようとはしなかった。
沈黙が流れる。
雪がフロントガラスに降り積もっていく。
……今しかない、か?
事件は解決した。俺はなな子を助けた。雰囲気は完璧だ。ここで「好きだ」と言えば、きっと……。
俺はハンドルを握る手に力を込めた。
「あのさ、なな子」
「なに?」
なな子が真っ直ぐに俺を見る。その瞳は、期待に揺れているように見えた。
喉まで出かかった言葉。
だが、その時、俺の脳裏に、あの犯人の母親の泣き崩れる姿や、これからの調書作成の山、そして刑事という仕事の重圧がよぎった。
俺のような、いつ死ぬかわからない、危険と隣り合わせの男が、なな子を幸せにできるのか?
特別な能力を使う刑事と一緒になったら、また今回のように、危険な目に遭わせるかもしれない。一〇秒時間を戻せたとしても、守りきれないこともあるかもしれない。
ビビってんのか、俺?
俺は心の中で自嘲した。何が特別な能力者だ。ただのヘタレじゃないか。
「いや、なんでもない。今日はゆっくり休めよ。鍵、しっかりかけろよ」
俺の言葉に、なな子の表情が一瞬曇ったような気がした。
しかし、彼女はすぐに優しく微笑んだ。
「うん。翔琉君もね。お仕事、無理しないで」
「おう」
なな子はドアを開け、雪の中へと降り立った。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
アパートの階段を上がっていく彼女の背中を見届け、部屋の明かりがついたのを確認してから、俺はアクセルを踏んだ。
バックミラーに映る自分の顔は、相変わらず冴えない。
「かっこ悪ぃな、俺」
独り言が車内に虚しく響く。
だが、これでいい。このまま、幼馴染という距離感でいい。
意気地のない自分を正当化しようとする言い訳ばかりが頭をよぎる。
俺はラジオのボリュームを少し上げ、雪の舞う夜道を走り去った。
海果月県の冬は寒いが、ヒーターの効いた車内は、ほんの少しだけ温かかった。




