第30話 凍てついたホワクリ ④
海果月県。
本州の中ほどに位置し、海と山に挟まれたこの地方都市にも、等しく冬は訪れる。
日本海側から吹き付ける湿った風が、街路樹の枯れ葉をすべてさらい去り、街全体が鉛色の空の下で静まり返る十二月。
商店街には少し早めのクリスマスソングが流れ、色あせたアーケードに吊るされたサンタクロースの装飾が、風に煽られて寂しげに揺れていた。
餅葉田なな子は、古びたアパートの台所で、一人分のシチューを温め直していた。
窓の外では、霙混じりの雨がガラスを叩いている。
「あー、寒ーっ」
独り言が白い湯気となって換気扇へと吸い込まれていく。
昼間の事務仕事で凝り固まった肩を回しながら、なな子はキッチンの隅に置いたスマートフォンに視線を投げた。画面は暗いままだった。
五日前、なな子は運命的とも言える再会を果たした。
夜のアルバイト先であるスナック『エッホ』に、ふらりと客として入ってきたのが、小学校時代の幼馴染、兎木緒翔琉だったのだ。
十数年ぶりの再会。最後に会った時は、自業自得ではあったものの、世界中の不幸を背負ったような顔をしていた少年が、今は背の高い、少し頼りがいがありそうな青年になっていた。しかも職業は刑事だという。
チャラついた口調、カウンターに肘をだるそうに乗せる仕草。昔の面影を残しつつも、すっかり「大人の男」になった翔琉と、その夜は昔話に花が咲いた。
翔琉の祖母、兎木緒慶子のこと。なな子にとっても、慶子は本当の祖母のように優しくしてくれた大切な人だった。その慶子が二年前に他界していたことを知らされ、二人はグラスを傾けながら故人を偲んだ。
だが、それきりだった。
『また店に来てよ』とメッセージを送っても、『おう、そのうちな』『仕事がダルくてさ』といったそっけない返信が返ってくるだけ。
この五日間、翔琉が『エッホ』に顔を出すことはなかった。
(もしかして、あの日の会話で何か気に障ること言っちゃったかな……)
シチューを混ぜるお玉の手が止まる。
翔琉は子供の頃、なな子のことが好きだった。酔った勢いで「あの恋は本気だったんだぜ、俺」なんて笑っていたけれど、今の彼にとってそれは単なる酒の肴に過ぎないのかもしれない。
嫌われたのだろうか。それとも、単に面倒くさいだけなのか。
鍋の底が焦げ付きそうになり、慌てて火を止めたその時だった。
ブブッ。
スマートフォンのバイブレーションが、静かな部屋に大きく響いた。
画面に表示された通知は『翔琉君』。
なな子は心臓が跳ね上がるのを感じながら、慌てて画面を開いた。
『明日非番になった。ばあちゃんの墓参り行かね? 車出すから』
たった一行の、飾り気のない文面。
絵文字もスタンプもない無骨なメッセージに、なな子の胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼は忘れていなかった。嫌われてもいなかった。
なな子は、あふれ出そうになる喜びを必死に抑え込み、なるべく落ち着いた文面を心がけて返信を打った。
『行きます。何時に迎えに来てくれる?』
翌朝
海果月市の空は珍しく晴れ渡っていた。
冬の澄んだ空気が街を包み込み、遠くに見える阪毛都連峰の頂が白く輝いている。
約束の午前十時ぴったりに、アパートの下に一台の車が滑り込んできた。
なな子はコートの襟を正し、階段を駆け下りる。
そこに停まっていたのは、シルバーのセダンだった。車種はごく一般的な国産車で、街中で最もよく見かける普及率の高いタイプだ。
運転席の窓が開き、サングラスをかけた翔琉が顔を出した。
「よっ。寒くないか?」
「おはよう、翔琉君。なんか、意外」
なな子は助手席に乗り込みながら、車内を見回した。
芳香剤のきつい匂いもしなければ、派手な改造もされていない。ダッシュボードの上も片付いていて、まるで社用車のようにシンプルだ。
「何が意外なんだよ」
翔琉はシートベルトを締めながら、不満げに唇を尖らせる。
「いや、翔琉君ってほら、もっとこう、派手なスポーツカーとか、真っ黒な大きな車に乗ってるイメージだったから」
話し方や雰囲気は少し軽薄な印象を受けるのに、選ぶ車は堅実そのもの。そのギャップが可笑しくて、なな子はくすりと笑った。
「あー、これ? 覆面と同じ車種なんだよ。仕事で乗り慣れてるから、プライベートでも同じのが一番楽でさ。変に目立つのも面倒だし」
「ふふ、なるほどね。合理的というか、翔琉君らしいというか」
「褒めてんのかそれ?」
「褒めてるよ。悪目立ちしようとしないところ、大人っぽくていいと思う」
「ふーん」
翔琉は照れ隠しのように鼻を鳴らすと、ギアをドライブに入れた。
車は滑らかに走り出し、海沿いの国道へと向かった。
お墓までは車で一時間ほどの道のりだった。
車内にはラジオから流れる軽快なトークと、タイヤがアスファルトを噛む音だけが響く。
最初は少し緊張していたなな子も、次第にリラックスして話し始めた。
「そういえば、刑事さんの仕事ってやっぱり大変なの?」
「んー、まあな。泥臭いし、書類仕事は山ほどあるし。上司はうるさいしで、てんやわんやだよ。今も、抱えている事件がどうしても行き詰ってて、なんだかなーって感じ」
「お仕事頑張っているんだね。翔琉君が警察官になるなんて、慶子おばあちゃん、すごく喜んでたでしょうね」
なな子の言葉に、ハンドルの上の翔琉の手が一瞬止まったような気がした。しかし、すぐに穏やかな顔になり頷いた。
「ああ。制服着て見せに行ったらさ、あのばあちゃん、ボロボロ泣いて喜んでたよ。『これで安心だ』って」
「そっか、よかったね」
「俺、両親いねーじゃん? ばあちゃんには苦労かけっぱなしだったからさ。少しは恩返しできたかなって」
翔琉の声色は、普段の軽薄さとは違い、優しく響いた。
「あと、あれだよ。覚えてるかな? なな子と作った『バックの掟』。あれをなるべく頑張って守っていたらこんな俺になったんだ。感謝してるぜ」
「そういえば、そんなのあったねぇ。忘れかけてたけど、どういたしまして。えへへっ」
なな子はその事をはっきりと覚えてはいたが、照れくさくなり誤魔化した。
引っ越しで翔琉と別れてからは、十秒だけ時間を戻せるという特別な能力を使える翔琉の事を、いつかニュースになって大事にならないかと、ずっと心の隅で心配に思っていたのだ。
そして翔琉は、ハンドルを握り直して能力についての話を続けた。
「あのさぁ。俺の能力のことだけど、なな子と一緒の時は使わないようにするよ。だって、気持ち悪いだろ? 俺がもしなな子の立場だったらそう思う。そんで、どうしてもって使っちまった時は、後で報告するようにする。この世界で俺の能力のこと知ってるのはなな子だけだからさぁ」
翔琉は言葉を選びながら続ける。
「なんて言うか。どう接していいかわからなくて、でも、失敗したくないから、全部言うようにするよ。うん、そうする」
「わかったわ」
翔琉は自分に言い聞かせるように、なな子へ精一杯の誠意を伝えた。
それを聞いたなな子は、胸が熱くなるのを感じた。スナックで再会した時は面白がって能力の使用をねだったが、そんな浅い考えと違って、翔琉はこの関係を大切に思ってくれているのだ。
海沿いの道からは、冬の海が太陽の光を反射してキラキラと輝いているのが見える。
かつて自分の能力に振り回されていた少年が、今はこうしてハンドルを握り、亡き祖母への想いを語りながら、周りの人たちとの関係性を大切にしようとしている。
その成長した姿に、なな子の胸は静かに高鳴った。
やがて車は市街地を抜け、山の中腹にある霊園へと到着した。
海を見下ろす高台にあるその場所は、海果月市を一望できる絶景のスポットでもあった。
風は冷たいが、日差しは暖かい。
二人は駐車場に車を止め、手桶に水を汲んで、慶子の眠る墓石へと続く石段を登り始めた。
「いつきても急だな、ここ」
「翔琉君、運動不足なんじゃない?」
「うっせ。昨日は徹夜で張り込みだったんだよ」
軽口を叩き合いながら並んで歩く二人。子供の頃と変わらない距離感は、共に心地よく感じていた。
慶子の墓は、霊園の中でも特に見晴らしの良い場所にあった。
しかし、そこには先客がいた。
「あれ、誰かいる」
なな子が足を止める。
墓石の前には、中年の男女と、三歳くらいの小さな男の子が手を合わせていた。線香の煙が、冬の空に細く立ち上っている。
翔琉が怪訝そうに眉をひそめた。
「親戚か? いや、俺に親戚なんて……」
翔琉の言葉が途切れる。その視線が、祈りを捧げている男性の背中に釘付けになっていた。
翔琉は黙ったまま、その家族が参拝を終えるのを待った。冷たい風が二人のコートを揺らす。
やがて、男性が立ち上がり、振り返った。
白髪交じりの髪に、深紅のマフラーを巻いたその男は、翔琉たちの姿に気づき、驚いたように目を見開いた。
「……!」
翔琉の目が、スッと細められる。刑事の顔つきになっていた。
「どちら様、ですか?」
翔琉の声は低く、威圧感を含んでいた。
男は一瞬たじろいだが、翔琉の顔をじっと見つめ、そして信じられないものを見るような表情で呟いた。
「まさか! 翔琉、か?」
その声を聞いた瞬間、なな子の脳裏にも記憶の彼方にある顔が蘇った。
「えっ! 竜也おじさん?」




