第29話 凍てついたホワクリ ③
翌朝
海果月県の冬は、骨まで凍みるような湿った風が海から吹き込んでくる。
俺は首元にマフラーをこれでもかと巻き付けながら、寮を出ようとした。ロビーにあったクリスマスツリーへ、雪に見立てた白い綿の飾り付けが足されているのが目に入る。
世間は年末ムード一色。クリスマスが終わればすぐにお正月。浮かれた街の空気が、なぜだか仕事への意欲を削いでいく。
だが、今朝の俺は少しだけ、ほんのミリ単位だけど機嫌が良かった。理由は昨日の夜にある。
仕事帰り、ふらりと迷い込んだ路地裏のスナック『エッホ』。そこで俺は、運命的な再会を果たしたのだ。
十数年ぶりに再会した幼馴染のなな子。記憶の中のなな子は活発な少女だったが、昨日の彼女は、しっとりとした大人の色気を纏った美女に成長していた。
昔話に花が咲いた。俺たちは笑い合い、空白の時間を埋めるように喋り倒した。別れ際、俺は自然な流れで連絡先をゲットできた。
「また来てね」と手を振るなな子の笑顔が、今も瞼の裏に焼き付いている。あー、可愛かったな。これって、もしかして恋の予感ってやつ?
そんなことを考えていたら、いつの間にか、俺の機嫌はミリ単位からキロ単位まで変化していた。
署へ着くや否や、なな子のことばかり考えて思考の海に漂っていた俺の背中を、誰かがバシッと叩いてきた。振り返ると、暑苦しいほどの笑顔を浮かべた杵塚先輩が現れた。
「おはよう、兎木緒君!」
現実に引き戻される感覚に舌打ちしそうになるのを堪え、返事をした。
「おはようございます、杵塚先輩。朝から元気っすね」
「当たり前だろう! 年末だぞ、気合入れないと年を越せないからな。ところで兎木緒君、頼んでおいた件、どうなった?」
ここ数日、朝の挨拶は決まって忘年会の三次会の会場が決まったかと尋ねてくる。どんだけ重要視してんだよまったく。
ただ今回、俺はニヤリと口角を上げた。
「バッチリっすよ。雰囲気のいいスナック、予約しておきました。ママが美人で、酒も美味いしカラオケ完備。完璧です」
「おお! さすが兎木緒君、君はやればできるんだよ! 僕も鼻が高いよ」
単純な人だ。まさか俺が、自分の恋路のためにその店を選んだとは夢にも思っていないだろう。
三次会で店に行けば、堂々となな子に会えるし、同僚たちを連れて行けば売り上げにも貢献できる。まさに一石二鳥。俺って天才かもしれない。
「よし、じゃあ今日も一日頑張ろうか!」
杵塚先輩が俺の肩を抱く。その腕をさらりとかわそうとした時、署内の空気が一変した。
カツ、カツ、カツ。
冷たく、規則正しい革靴の音が玄関ホールで響く。雑談をしていた捜査員たちが、一斉に姿勢を正し、沈黙した。
現れたのは、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ男。銀縁眼鏡の奥から、爬虫類のような冷ややかな視線を周囲に投げかけている。
県警本部の管理官、臼伊賀警視だ。
キャリア組のエリートで、出世のためなら部下の手柄でも平気で横取りする男。性格の悪さは県警内でもトップクラスで、俺が嫌いなタイプの人種だ。
臼伊賀は部屋の中央に立つと、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「……空気が弛んでいるな。年末だからといって浮かれている暇があるのか?」
静まり返るフロア。臼伊賀は冷ややかな声で続けた。
「例の事件の捜査会議を始める。関係者は大会議室へ集まれ」
いつにもまして不機嫌そうで無礼な態度だ。俺たちを奴隷だとでも思っているのだろうか。
俺と杵塚先輩も関係していた事件だったため、速足で会議室へ向かった。
始まったのは、現在進行形で海果月署管内を震撼させている『万夏津川女性連続殺人事件』の捜査会議だった。
重苦しい空気の中、ホワイトボードに二人の被害者女性の写真が貼られる。
一人目の被害者は二ヶ月前。二十三歳のキャバクラ嬢。
二人目の被害者は一ヶ月前。二十五歳の風俗店勤務。
いずれも深夜、仕事を終えて帰宅する途中で行方不明になり、数日後に遺体となって発見された。発見現場は、市内を流れる万夏津川にかかる鉄道の高架下。死因は絞殺。遺棄現場には争った形跡がなく、別の場所で殺害された後に運ばれた可能性が高いとされている。
犯人の遺留品や目撃証言は皆無。捜査は難航を極めていた。
もうすぐ三人目の被害者が出るかもしれない。そんな焦りが、捜査員たちの顔に滲んでいる。
臼伊賀管理官が、指示棒で被害者の写真を叩いた。
「被害者の共通点は二つ。夜の接客業に従事していたこと。そして、多額の金銭トラブルを抱えていたことだ」
臼伊賀の声が会議室に響く。
「一人目の被害者はホストクラブへの売掛金、二人目は消費者金融への借金があった。犯人は、彼女たちの金銭事情に詳しい者、つまり、店に出入りしていた客、あるいは闇金関係者の可能性が高い」
臼伊賀は自信満々に持論を展開する。確かに筋は通っているように見える。だが、現場の感覚としては何かが引っかかる。
そんな違和感を覚えているのは俺だけではないようだったが、誰も口を挟まない。臼伊賀に逆らえばどうなるか、全員が知っているからだ。
「おい、そこの二人」
不意に指名され、俺と杵塚先輩は顔を上げた。
臼伊賀が侮蔑の色を隠そうともせず、俺たちを見下している。
「杵塚、兎木緒。おまえたちは被害者が連れ去られた現場付近の聞き込みを洗え。いいか、余計な真似はするなよ。おまえたちのような無能が足を引っ張ると、全体の士気に関わる」
どうやら以前の「弘樹ちゃん誘拐事件」で顔と名前を覚えられてしまったようだ。
それに危険な闇カジノ内偵捜査もやらされたりと完全に目を付けられている。
それにしてもカチンとくる言い草だ。俺はあからさまに嫌な顔をしたが、隣の杵塚先輩はグッと拳を握りしめ、表情を殺して頭を下げた。
「承知いたしました」
杵塚先輩だって、臼伊賀のことが嫌いなはずだ。それでも組織の一員として、先輩として、感情を表に出さない。そういうところは素直にすげぇなと思う。俺には無理だ。
「行くぞ、兎木緒君」
「へいへい」
俺たちは会議室を追い出されるようにして、寒空の下へと繰り出した。
***
海果月市の繁華街は、昼間だというのに薄暗かった。鉛色の空が低く垂れ込め、今にも雪が降り出しそうだ。
俺と杵塚先輩は、二人目の被害者が最後に目撃された駅前の繁華街を中心に聞き込みを続けていた。
「さみーっすね。先輩、もう休憩しません? まだ昼飯も食ってないっすよ」
「文句を言わない! 被害者の無念を晴らすためだ。少しでも手掛かりを見つけないと、臼伊賀管理官にまた何を言われるか」
「あいつの言うことなんて、適当に聞き流せばいいじゃないですか」
「そういうわけにはいかないよ。僕は君に、立派な刑事になってほしいんだ。そのためには、どんな上司の下でも結果を出さなきゃいけない」
杵塚先輩はコートの襟を立てながら、熱く語る。俺は肩をすくめて、自販機で買った温かい缶コーヒーを頬に押し当てた。
俺たちは、被害者が働いていた店や、行きつけだったコンビニなどをしらみつぶしに回った。
「あの、警察の方ですか?」
数時間後。とある駅前のカフェで聞き込みをしていた時のことだ。被害者の同僚だったという女性が、怯えたような表情で口を開いた。
「あの子、殺される前、すごく怖がってたんです」
「怖がっていた? 借金の取り立てか何かですか?」
杵塚先輩が身を乗り出す。女性は首を横に振った。
「いえ、借金のことはよく知らないんですけど……ストーカーです。誰かに付け回されてるって」
「ストーカー?」
俺の中で、何かがピクリと反応した。臼伊賀が言っていた「金銭トラブル」とは違う線だ。
「具体的にお願いできますか? どんな相手だったとか」
俺が尋ねると、女性は記憶を辿るように視線を宙に彷徨わせた。
「相手の顔は見てないそうです。ただ、あの子、いつも始発の電車で帰ってたんですけど、その電車の中に『変な視線』を感じるって。いつも同じ車両の、同じ席に座ってるって言ってました」
「始発電車?」
俺は首を傾げた。夜の仕事なら始発で帰るのは珍しくない。
「ええ。あの子、電車に乗る時は必ず先頭車両の一番前の席に座るのが好きだったんです。景色が見えるからって。でも、最近その席に座ると、誰かがずっと後ろから見てる気がするって……。一度、駅のホームで『そこは俺の席だ』ってブツブツ言ってる男とすれ違ったこともあるって言ってました」
「『俺の席』……?」
杵塚先輩が怪訝な顔をする。
「はい。それ以来、夜道でも誰かの足音が聞こえるようになったって。怖がって、店を変えようかなって相談を受けてた矢先にこんなことに」
女性の話は具体的だった。
始発電車。先頭車両の一番前の席。そして、その席に執着する男。
単なる金銭トラブルの怨恨とは質が違う。異常な執着心を感じる話だ。
それに、一人目の被害者の情報とも合致する部分がある。資料によれば、一人目の被害者も、帰宅には必ず始発の電車を使っていた。
「ありがとうございます。貴重な情報です」
杵塚先輩は丁寧に礼を言い、店を出た。
外に出ると、雪がちらつき始めていた。
「兎木緒君、これは重要だぞ。臼伊賀管理官の見立てとは違うが、二人の被害者に共通する『ストーカー被害』の可能性がある」
「ですね。しかも『電車の席』なんて妙なこだわり、普通の客や借金取りじゃないっすよ」
杵塚先輩はすぐに携帯電話を取り出し、本部に連絡を入れた。
「あ、臼伊賀管理官ですか? 捜査中の杵塚です。はい……実は重要な証言が得られまして。被害者はストーカー被害に遭っていた可能性があります。はい、始発電車の……え? ですが……」
電話の向こうの臼伊賀の声が、隣にいる俺にも聞こえてくるほど大きくなった。
『くだらん! そんな妄想じみた話に惑わされるな! 被害者には借金があった、それが全てだ。客とのトラブルをストーカーと勘違いしただけだろう。私の指示通り、金の流れを洗えと言っているんだ! 勝手な捜査をするな!』
ガチャン、と一方的に切られる音。
杵塚先輩はしばらく携帯を耳に当てたまま固まっていたが、やがてゆっくりと腕を下ろした。その顔には、悔しさと怒りが滲んでいた。
「……却下された」
「でしょうね。あの人は、自分のシナリオ以外の情報はノイズとしか思ってないから」
俺は吐き捨てるように言った。
臼伊賀は世渡り上手だ。今回の事件も、被害者二人が共通していた「金銭トラブル」を抱えていたことを見つけ出したという、自分の有能さをアピールしたいのだろう。得体の知れないストーカー、しかも電車オタクかもしれないなんて前例のない筋は、無駄に捜査員を割くこととなり、あいつのキャリアに傷をつけるリスクでしかない。
「でも、僕は諦めないぞ」
杵塚先輩は顔を上げた。その瞳には、まだ熱い光が宿っている。
「管理官が動かないなら、僕たちで裏を取ろう。防犯カメラの映像をもう一度洗い直すんだ。駅周辺、特に始発の時間帯を」
「えっ……今からっすか? もう定時過ぎてますよ」
「バッキャロウ! 犯人がのうのうとしている間に、次の被害者が出るかもしれないんだぞ! 兎木緒君、君だって刑事なら」
「わーってますよ、わかりましたよ」
俺は降参するように両手を上げた。この人に正論を吐かれると弱い。それに、あの被害者の友人の怯えた顔を思い出すと、確かにこのまま放っておくのは寝覚めが悪い。
「じゃあ、手分けしてやりましょう。俺は駅の方を見てきます」
「頼んだぞ。僕は被害者の家の近所をもう一度当たってくる」
杵塚先輩はコートの裾を翻し、雪の中を走っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺は大きく溜息をついた。
本当に、熱い人だ。そして、損な役回りばかり引き受ける。
俺は駅へと向かって歩き出した。
すっかり日は落ち、街灯が寒々しい光を放っている。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。取り出してみると、なな子からのメッセージだった。
『お仕事お疲れ様! 今日もお店来る? 新しいお酒入ったよー』
可愛いスタンプ付きのメッセージ。
俺の指が画面の上で止まる。
「行く」と返せば、暖房の効いた店で、美人の幼馴染と楽しい時間を過ごせる。杵塚先輩との約束通り、三次会の予約確認という名目も立つ。
一方で、このまま駅に向かえば、凍えるような寒さの中で、膨大な防犯カメラの映像確認という地味な作業が待っている。
しかも、成果が出たとしても臼伊賀が手柄を独り占めする可能性が高い。
どうする、兎木緒。
お前はめんどくさがり屋のモブ男だろ? 能力使って適当にサボって、女の子とよろしくやるのがお似合いだ。
でも。
『始発電車の先頭車両。一番前の席』
『そこは俺の席だ』
あの証言が、頭から離れない。
被害者たちは知らなかったのだ。そこが、ある種の人間にとって「聖域」であることを。
鉄道好きの中には、特定の車両、特定の席に異常な執着を持つ者がいる。毎日同じ時間の同じ電車に乗り、同じ席に座ることを日課とし、それを生きがいにしているような人間が。
もし、犯人がそういうタイプの人間だとしたら?
自分の「指定席」を、何も知らない若い女に奪われた。一度ならず、二度も、三度も。
彼にとってそれは、自宅に土足で踏み込まれる以上の屈辱だったのかもしれない。逆恨み。歪んだ独占欲。それが殺意に変わったとしたら……。
被害者が見つかったのは、いずれも鉄道の高架下。
まるで、大好きな電車に見下ろされる場所を、墓場に選んだかのように。
「あー、もう!」
俺は頭をガシガシとかきむしった。
なな子への返信を打つ。かじかむ指を動かし、何とか文をつづった。
『無理、今日は残業』
送信ボタンを押すと同時に、俺は踵を返した。
目指すは海果月駅。
狙うは、始発電車の防犯カメラ映像に映る、不自然に先頭車両へ固執する男の姿。
「待ってろよ、異常な乗り鉄の野郎。お前の終点は、俺が決めてやる」
俺はマフラーを巻き直し、夜の闇に向かって走り出した。
雪が激しくなり始めていたが、不思議と寒さは感じなかった。
少しだけ、杵塚先輩の熱さが感染ったのかもしれない。




