第19話 ギンギラの銀 ⑤
通路を抜けると、そこにはもう一つの扉があった。
黒服が扉を開ける。
「どうぞ」
通された部屋は、先ほどのフロアとは空気が違っていた。
広さは半分ほどだが、内装のグレードが段違いだ。床には深紅の絨毯が敷き詰められ、シャンデリアが煌めいている。
置かれているゲームテーブルも少ないが、座っている客たちは明らかに富裕層だ。政治家らしき顔や、有名な企業の社長らしき顔も見える。
そして、テーブルの上に積まれているチップの色が違う。一枚十万円、いや百万円のチップだろうか。
ここがVIPルームで間違いない。
俺は興奮を抑え、さりげなく先輩の腕を突いた。
「(先輩、確認しました。間違いなくここが本丸です)」
「(ああ。この光景を現認できただけで大収穫だ。組対への土産は十分だろう)」
俺たちは交換した視線で会話を交わした。
これ以上長居は無用だ。深入りすれば、正体がバレるリスクが高まる。
杵塚先輩は、驚いた演技をしながら案内役の黒服に話しかけた。
「おや? ここは換金所ではないようだが……。なんだか随分とハイソな雰囲気だねぇ」
黒服はにこやかに答えた。
「はい。こちらは選ばれたお客様だけが遊べる特別なフロアでございます。お客様のような強運の持ち主には、ぜひこちらで更なる勝負を楽しんでいただきたく」
「ほう、それは光栄だね。だが、あいにく今日はもう疲れてしまった。十分に遊ばせてもらったので、このまま帰らせてもらいたいのだが」
先輩はチップの入ったカゴを持ち上げ、「換金はどこかね?」というジェスチャーをした。
しかし。
黒服の笑顔が、すっと消えた。
「……お帰りになる?」
空気が凍りついた。
部屋の隅に控えていた屈強な男たちが、一歩、こちらへ近づいてくる。
黒服は冷徹な声で告げた。
「いえいえ、滅相もございません。お客様ほどの凄腕を、このままお帰しするわけにはまいりませんよ。それに……」
黒服は、部屋のさらに奥、壁一面に飾られた巨大なタペストリーの方を指し示した。
「支配人が、あなたにお会いしたがっておられます」
「支配人?」
「ええ。あなた様のその『予知能力』のような勝ち方に、大変興味を持たれているようでして」
俺の心臓が跳ねた。
バレている? いや、イカサマのような勝ち方を怪しまれているのか。
「さあ、こちらへ」
黒服がタペストリーをめくると、そこには、二つ目の隠し扉があった。
重厚な鋼鉄製の扉だ。
さっきの鏡の扉とはわけが違う。一度入ったら二度と出られないような、独房のような圧迫感がある。
俺と杵塚先輩は後ずさろうとした。
「いや、だから帰るって言ってるだろ!」
「遠慮なさらず」
背後にいた男たちが、俺たちの背中をドンと押した。
強い力だ。抵抗できない。
半ば強引に、俺たちはその鉄扉の中へと押し込まれた。
ガチャン! と背後で鍵が掛かる音がした。
俺たちは闇の中に放り出された。
想定外だ。
ただの内偵調査のはずが、とんでもない虎の穴に入り込んでしまったようだ。
暗闇の中で、俺は先輩の息遣いを感じながら、ポケットの中の何もない空間を握りしめ、覚悟を決めた。
ここからは、チップではなく、命を賭けたギャンブルになりそうだ。
鉄の扉が背後で重々しい音を立てて閉ざされた。
俺と杵塚先輩が放り込まれたその部屋は、カジノの喧騒とは隔絶された、冷たく静謐な空気に満ちていた。
壁一面に並べられたモニター。その数、数十。
画面には、先ほどまで俺たちがいたカジノフロアの各テーブル、バーカウンター、そして入り口の通路や路地裏に至るまで、あらゆる場所が高解像度でリアルタイムに映し出されている。
「……監視室、か」
俺は思わず呟いた。ここは『バビロン』の心臓部であり、イカサマやトラブル、そして警察の動きを監視するためのパノプティコン(全展望監視システム)なのだろう。
モニターの青白い光が、部屋の中央に鎮座する人物たちを照らし出している。
最前列には、ヘッドセットを装着し、忙しなくキーボードを叩く三人の男たち。
そしてその後ろ、一段高くなった場所に置かれた豪奢な革張りの椅子に、一人の女が足を組んで座っていた。
派手、という言葉すら生ぬるい。
血のような真紅のパンツスーツ。長く波打つ金髪。その隙間からは、耳や鼻、唇にまで無数に穿たれたシルバーピアスが、モニターの光を反射してギラギラと輝いている。
女は俺たちの気配に気づくと、ゆっくりと立ち上がり、ヒールの音を響かせながら近づいてきた。
「初めまして新顔さん。支配人の片桐ノアよ」
近くで見ると、予想外に若い。二十代半ばだろうか。
だが、その瞳には年齢不相応な昏い光が宿っている。ただの雇われママではない。裏社会の汚泥をすすって生きてきた人間の目だ。
彼女は冷静な口調で挨拶をしてきたが、その全身からは、触れれば切れる剃刀のような攻撃的なオーラが立ち昇っている。
どうする? どう出る?
俺が身構えていると、隣の杵塚先輩が、あくまで「一般人の高橋誠」という設定を崩さずに、おどけた調子で口を開いた。
「あ、ど、どうもー。いやぁ、素晴らしい設備ですねぇ。でも僕たち、そろそろ帰りたいんですが……出口ってこっちでしたっけ?」
先輩が媚びへつらうように出口の方を指差した、その瞬間だった。
「ふざけてんじゃねぇぞ!!」
片桐の形相が一変した。
美しい顔が般若のように歪み、金切り声が狭い室内に反響する。
「初日からブッコ抜きしすぎなんだよ、テメェらコラァ! どこの組のモンだぁ? 半グレかぁ? どうやった! あぁん!? イカサマの方法を言ってみろよぉ!」
ブッコ抜き。カジノ用語で、店側の想定を超えて大勝ちし、金を根こそぎ奪っていく行為を指す。
どうやら、俺が能力を使ってバカラで連勝しすぎたせいで、プロのゴト師か同業者の嫌がらせだと疑われているらしい。
片桐がこれほど強く出られるということは、彼女自身も強力なバック――暴力団組織に守られているという自負があるからだろう。
俺は内心冷や汗をかいた。イカサマと言われれば、まあ、時間を戻すという究極のイカサマをしているわけだが、そんな証拠が出るはずもない。
しかし、杵塚先輩は動じなかった。
むしろ、一番恐れていた「警察官だという身バレ」ではなく、「ただの怪しい勝ち方をした客」として疑われていることに、安堵の色すら浮かべている。
先輩は、怯えた小市民を演じ続けながら、必死に弁解を始めた。
「い、イカサマ? まさかまさか! そんな大それたこと、僕たちごときができるわけないですよ。運ですよ、運!」
「運だとぉ?」
「ええ、本当ですとも! 今日も僕、職場へ出勤した後に『しまったお弁当を忘れた』と思ったら、なんと妻と子供が届けてくれましてね。朝行ってきますを言った後にもう一度、職場でも愛しの妻子に会えたことに、僕って運がいいなぁって思ったばかりなんですよ。……あれ? これってギャンブルの運とは関係ないか? ははは」
先輩の天然ボケが炸裂した。
この緊迫した状況で、愛妻弁当の話をぶっ込んでくるとは。演技なのか素なのか、この人だけは本当に読めない。
だが、片桐にはそのほのぼのとした空気が逆効果だったようだ。
「そんなことは聞いてねぇんだよー! バッキャロー!」
片桐が近くにあったパイプ椅子を蹴り飛ばした。
ガシャーン! と派手な音が鳴る。
まずい。完全に火に油を注いだ。外部との連絡手段を没収されているこの密室で、これ以上相手を刺激するのは危険だ。
俺が止めに入ろうとしたが、先輩はまだ諦めていなかった。
「信じてください! 本当の本当に運だったんですよ。なんなら身体検査をしていただいてもかまいません。怪しい機械なんて持ってませんから!」
先輩の必死の訴え。
すると、怒り狂っていたはずの片桐が、ふっと動きを止め、突如として表情を変えた。
「……ひゃはははは」
今度は笑い出した。
情緒不安定かよ。
「本当に運だけで勝ち続けたって言うんだな。間違いないな?」
「えっ? あ、はい。そうです」
「そうか。だったら――その運が本物かどうか、ここで証明してみろよ!」
片桐の目が、獲物を甚振る爬虫類のように細められた。
運の証明? ジャンケンでもするつもりか?
片桐は、座っていた椅子の近くにあったキャビネットを開け、手を差し入れた。何か重たいものを掴み上げ、ドン、とテーブルの上に置く。
黒く光る、鉄の塊。
回転式拳銃。
「こ、これは……銃!?」
俺は息を呑んだ。
シリンダーがスイングアウト(開放)状態になっており、弾倉が見える。弾は込められていないようだが、その存在感だけで部屋の温度が数度下がった気がした。
片桐はニヤリと笑い、挑発的に言った。
「なぁおっさん。実はアタイもめっぽう運には恵まれていてねぇ。銃で、アタイとロシアンルーレットをやろうじゃねぇか。どうだ?」
ロシアンルーレット。
一発だけ弾を込め、交互に自分の頭を撃ち抜く、狂気のゲーム。
こいつ、完全にどうかしている。薬でもやっているんじゃないか?
俺は杵塚先輩の袖を引いた。
「(まずいですってマコトさん! こんな挑発に乗っちゃダメです! 相手はイカれてますよ!)」
しかし、杵塚先輩は俺の耳元で、驚くほど冷静な声で囁き返してきた。
「(大丈夫だケンちゃん。……あれは、十中八九おもちゃの銃だ)」
「(えっ? おもちゃ?)」
「(ああ。さっき片桐が手に持っていた重量感や表面のツヤが正におもちゃのそれだ。おどかすために置いているだけのハッタリさ)」
先輩の目は確信に満ちていた。
「(だから、たとえアタリを引いてしまったとしても、BB弾か、せいぜい火薬の音が鳴るおもちゃの弾が飛び出してくる程度だろう。これで相手の気が済むのであれば、受けることにするよ)」
なるほど。
俺は改めて銃を見た。確かに、言われてみれば少し安っぽく見える気もする。
さすが杵塚先輩だ。あの一瞬の動作を、刑事の鋭い観察眼で見抜いていたとは。伊達に長年修羅場をくぐっていない。
俺は頷いた。
「(わかりました。任せます)」
杵塚先輩は姿勢を正し、片桐に向かって不敵な笑みを返した。
「いいでしょう。それが僕の強運の証明となるのなら、お相手しますよ」
先輩が受諾すると、片桐のテンションが異常なほど跳ね上がった。
「いいねいいねぇ! アタイの運が勝つか、あんたの運が勝つか、真の強運を決めようじゃないかぁ~!」
片桐は赤いスラックスのポケットから、一発の弾丸を取り出した。
鈍く光る真鍮の薬莢。本当に、おもちゃ、だよな?
彼女はそれをシリンダーの六つの穴の一つに滑り込ませた。
そして、手首のスナップを利かせてシリンダーを一気に回転させた。
ガラーーーッ!
回転音が止まり、カチャリとシリンダーが元に戻される。
これで弾の位置は誰にも分からなくなった。確率は六分の一。
「それじゃあアタイから行くね。いいねいいねぇ、このヒリついた感覚。脳汁が出まくりだよぉ」
片桐が先陣を切った。
彼女は銃を手に取り、親指で撃鉄を起こした。
チッ、という硬質な音が響く。
1ショット目。
片桐は銃口を自分のこめかみに押し当てた。その目は爛々と輝き、恍惚とした表情すら浮かべている。
彼女は俺たちを直視しながら、口角を吊り上げ――引き金を引いた。
カチッ!
金属が空を打つ乾いた音。
セーフだ。
「どうだー! 見たかー! シャーッ!」
死線を潜り抜けたことで脳内麻薬が溢れ出たのか、片桐は奇声を上げて喜んだ。
「次はアンタの番だ。言い残すことがあれば言っておくんだな」
片桐が銃をテーブルに滑らせた。
杵塚先輩は、それをゆっくりと手に取った。
銃の扱いには慣れているはずだが、あくまで素人の「高橋誠」として、恐る恐る両手で持ち上げる演技を見せる。
「それじゃあ次は僕の番ですね。先ほどあなたがやったように、ここを起こして引き金を引けばいいんですね」
2ショット目。
杵塚先輩は撃鉄を起こした。
銃口を、自身のこめかみに向ける。
その顔に迷いはなかった。おもちゃだと確信しているからだ。
俺は少し不安になった。万が一ということもある。もう少し緊張感を持った演技をした方が、相手を欺けるのではないか?
俺が注意しようと口を開きかけた時、先輩が俺を見てウインクした。
その余裕の表情と共に、先輩は何のためらいもなく引き金を引いた。
カチッ!
セーフ。
おもちゃだということを知っているから、躊躇することなく引いてしまった。
俺はもっと緊張感があった方がいいと思い、注意しようとした時、杵塚先輩が言った。
「ほらね。僕、強運なんですよ~」
そうだった。杵塚先輩は片桐よりも強運だと証明するためにこのゲームをしている。であれば躊躇する演技をする必要はないのだと思い直し、注意するのを辞めた。
杵塚先輩が銃をテーブルに戻すと、片桐がそれをひったくるように手に取った。
「ひゃはははは。やるじゃねぇか。だが、当たる確率が増えてきたここからがおもしろいんだぜ」
3ショット目。確率は四分の一。
片桐の手つきは手慣れていた。ためらいなく撃鉄を起こし、銃口を頭へ。呼吸が荒くなっている。
「死ぬか、生きるか……!」
引き金が引かれる。
カチッ!
セーフ。
片桐は、この外れた音に全身を震わせ、目がとろけるような表情を見せた。
「くぅぅ~……最高の勝負じゃないの。残り3発。さぁ、もういつ発射されてもおかしくないねぇ。うひゃひゃ」
狂気じみた笑いと共に、銃がテーブルに置かれた。
次は4ショット目。確率は三分の一。
かなり高い確率だ。
だが、おもちゃなら関係ない。
杵塚先輩は、この茶番を早く終わらせようと、慣れた手つきで銃を握った。
「はいはい。どんどん行きますよ~」
先輩は撃鉄を起こす。
俺はあくびを噛み殺しながらそれを見ていた。
先輩が銃口をこめかみに当て、ニカっと笑う。
「僕の勝ちですね」
引き金が引かれた。
パーーーンッ!!
!?
鼓膜を破るような轟音。
一瞬のマズルフラッシュ。
それと同時に、杵塚先輩の頭がガクンと揺れた。
スローモーションのように、こめかみから鮮血が噴き出し、反対側の壁に赤い飛沫が散った。
先輩の体が力を失い、どうっと床へ突っ伏す。
ピクリとも動かない。
血だまりが、急速に深紅の絨毯へと広がっていく。
死んだ。
え?
死んだ?




