6 笑い話
結局、一ヶ月も持たずに婚約破棄を申し込んできた。もちろん彼の一方的な婚約破棄であり、責はあちら側になる。
サンドラの珍しい昆虫を小鳥に食べさせてしまった話の何十倍もの金額を彼の家は支払うことになり、恋に盲目になってそんな金額を損した彼は、サンドラよりもよっぽどドジで、物の真価を見極められない阿呆だろう。
心のそこからそう思えた。
しかし、随分と話題の人物になってしまったサンドラは、良くも悪くも人に注目される。
事が収まるまでは王都ではなく領地のマナーハウスへと住まいを移した。
お姉さまたちは寂しいと駄々をこねていたけれど彼女たちも、少しは反省してほしいものだ。
もとはと言えば彼女たちのおしゃべりが生んだ面倒なのだから。
しばらく静かに自然豊かな土地でリフレッシュして過ごし、やる気が出たら婚活しようとそんなふうに思っていた。
そんな矢先、アントンの浮気相手であったマルガリータも婚約者と別れたらしいと言ううわさが舞い込んだ。
それから、その当事者であるマルガリータの元婚約者、ライネがサンドラの住まうマナーハウスへとやってきた。
「自分の婚約者がご迷惑をかけてしまって、大変申し訳ありませんでした。謝罪で許されることではないと思いますが、当事者のサンドラ様に直接お詫び申し上げるべくこうして参ったのです」
彼はそう言って、対応したサンドラにエントランスで深々と頭を下げた。
彼の後ろには、トランクを持った侍女が控えていて、彼が示すと厳かな態度で、サンドラの侍女にそれを渡す。
「こちらはお詫びの気持ちです。受け取ってください。いつも、カルティア公爵家の方々には良くしていただいているのに、恩をあだで返すことになり言葉もありません」
「……」
「突然来訪しお時間を取らせるわけにはまいりませんから今日はこれにて失礼いたします。この度は大変申し訳ありませんでした」
それだけ言って彼は帰ろうとする。
もちろん約束もなしにこうしてやってきて、長居するのは常識的な行動とは言えないので、早く帰るべきではある。
しかし約束もなしにやってきたのはサンドラが、マルガリータの婚約破棄について聞いたすぐ後のことだった。
ライネは事情を知って婚約破棄をし、腰を落ち着けることなくすぐさま謝罪をするために急いでやってきたということだろうと納得がいく。なので彼は誠意を尽くしてくれているように見える。
それに彼だって被害者だ。マルガリータの流していた噂はどれもこれも聞くに堪えないようなものばかりだ。
例えば、彼が長くしている前髪で隠している部分には、呪いの痣があるとか。突然人が変わったようになってマルガリータに暴力をふるって来たとか。
そういう彼を酷く貶める様なものだった。もちろん、婚約破棄をしたのはマルガリータからだったろうから、きっと彼女も相当な慰謝料を払う羽目になっていると思う。
でも、それで得だったと言えないほどに、彼のうわさは割と浸透していて、多数存在している。
「……ご丁寧な謝罪をありがとうございますわ。ライネ」
「いえ、当然のことです。僕に魅力がないばかりにこんなことになってしまいました」
「マルガリータとの婚約はやはりご両親が?」
「はい。僕は、醜いものですから、両親が良い人を。けれど、自覚がないまま彼女にひどく当たっていたのかもしれません。そうでもなければ、あんなふうに言うはずありませんから」
自信がないようなうつろな瞳が悲しげに揺れている。
「別の方に気持ちを向けていようとも、構わないと思ったのですが、お相手の婚約者もそうとは限らないと言うことに気がつかず、サンドラ様のお手を煩わせることになってしまいました」
「そうですわね……」
「自分は本当に至らない所ばかりなのだと日々痛感しています。ほかの貴族たちが僕に向ける軽蔑の目線も、自身の失態の結果なのだと受け止めて精進していきたいです」
「……」
さらりと揺れる前髪の隙間から、目元から額にかけて青いような紫のような痣が見受けられる。
たしかに他人とは違う特徴だが、別に何かの病気だとか呪いだとかそういうまがまがしいものという様子はない。
彼が卑屈になる必要もないだろうし、噂は総じて嘘八百だとわかるが、彼がそれを示すつもりはないらしい。
そして今、サンドラは暇だ。
野鳥の観察も、昆虫採集も楽しいが、たまには人と話もしたい。
「そうねぇ……ライネ。あなたこれから忙しいんですの?」
「いえ、詳細な事情説明が必要でしたら、出来るほどの時間は取ってあります」
「違うわ。良いのよそんなこと、それよりわたくし、思うのよ」
丁寧に言う彼に数歩近づいて、サンドラは強気に笑う。
「あんな過去の男の話、笑い話にしてしまいたいの。けれど、このことで本当に傷ついて、苦しい思いをしている人がいたらそうはいかないでしょう?」
「……はい」
「だから、被害者は報われて楽しく過ごさないと。少し寄って行って、婚約者を失った者同士、仲を深めてもバチは当たらないはずですわ」
「気を使ってくださっているのですか? 自分が不憫だから」
「そうともいうわね。ま、なんでもいいのよ。そんなことほらほら、謝りに来たのでしょう、それならわたくしのお願いを聞いてくださいませ」
「は、はい。……よろしくお願いします」
サンドラが適当に押し通すと彼はすんなり受け入れて、屋敷の中に入る。
サンドラは機嫌よく先ほどまでいたガゼボへと案内するのだった。