35 幸福
「わたくしの家族ですもの、わたくしが話を着けますわ」
サンドラは苦々しい表情をしてそう口にした。しかしライネは引くつもりはなかった。
もちろんすでに挨拶をするには遅すぎるタイミングだし、サンドラはカルティア公爵家の末っ子で溺愛されていることは噂にも聞いており、本人を見ていればそれが事実だということは間違いない。
大切に育てられてきた彼女を了解もなしにかすめ取って、愛してしまったことはきちんと謝罪しなければならない。
それにここまで言ってくれる彼女にこれ以上甘えるわけにもいかないだろう。
たしかにライネは醜くてどうしようもない人間だ、けれどサンドラに新しい価値観をもらって、ここまでしてもらったのに俯いてばかりでは情けない。
……だからこそ、僕が話をするのは当然だと思います。サンドラを大切にしている人たちの手から奪うのですから。
「いいえ……僕もサンドラを大切に守ってきた方々にはきちんとしたいのです。……カルティア公爵には一発ぐらい貰うかもしれませんが」
きちんと決意を固めて、ライネはサンドラに言ったが、そのあと無事に戻ってくるかという点については少し心配になって保険をかけるようにそう言った。
結婚を考えている相手の親に挨拶をすることはとても一般的で、普通はすぐにじゃあそうしましょうとなる。
けれども今回の場合はライネ自身の状況も悪いし、醜いという負い目もあれば、継母と揉めているし、なにより順番が悪かった。
ああして夜会の席から二人は同じ馬車に乗って夜のタウンハウスに消えていった。この状況をどう考えても、サンドラは後戻りが出来ない。
カルティア公爵も大切に育てた娘の道をそんなふうに決めることになった件について、父親として相手の男を殴る権利ぐらいはある。
その傷をすぐに治すわけにもいかないし、そのあとの件についても様々話し合う内容がある。
「そのぐらいは覚悟しています。むしろそのぐらいしてもらわないとつり合いが取れないような気がしますから」
「……何と釣り合わないのかしら、わからないわ」
「人生の幸福と不幸の総量でしょうか?」
自分のような人間のもとに現れた突然の幸福、その権化のような彼女にライネは、今までの不幸とまったく釣り合っていないと思いながら口にする。
……すぎた幸福を手に入れれば、醜い己の身が滅んだりしそうです。
彼女を見ているとそんな気分になる。
ライネの言葉を聞くとサンドラは、そんな言葉を鼻で笑ってほお杖を付いて言った。
「根っこの卑屈さは健在みたいですわ」
「申し訳ありません」
「いいえ、かまいませんわ。……わたくしからすればくだらないことだけれど、それでもあなたにとってはとても大切なことなのでしょうから」
「……」
「でも、釣り合わないと思うぐらいにしておいてくださいませ」
彼女の意思が強そうな美しい瞳と目が合う。ゆったりと細められて輝いているその瞳は、少し大人びていて紅を引いた唇がゆっくりと弧を描く様子は息をのむくらいだった。
サンドラの言葉がどういう意味かを考え無ければならないのに、首をかしげてライネは見とれていた。
「釣り合わないからと言って、不幸になることを望んだりしないことね。幸福なんていくらあったっていいのだから。……というわけで、お父さまとお姉さまたちとはわたくしが話をしますから」
釘をさすように言われて、コクリと頷いた。ほんの数カ月前まで、幸せになろうだとか、そもそも幸せではないということすら考えていなかった。
ただ自分はなにかを誰かから享受するには、醜くて、普通の人たちとはどこか違う世界で生きているような気さえしていた。
だからこそ幸せや不幸がどうだと、当たり前に隣にいる彼女と話すこの時間こそ、贅沢な幸福な時間だ。
そして少し不安になる。人違いだったとか、なにかの間違いで今までと同じように戻れと言われたら、ライネは本当の意味で不幸なのだと知ってしまう。
それが怖くて、彼女の小さな肩にしがみついて寄りかかってしまいたくなる。幸せ過ぎる状況に居たら幸福になるのが怖いからと、不幸というぬるま湯につかりたくなる。
不幸なままで、いることを甘んじて受け入れる自分でいられたら……なんて不謹慎なことを考えそうになる。
「はい。……不幸になりたいとは望みません」
けれども、そんなことをするのは、サンドラに酷く不義理だ。
サンドラは、何をしてもいい、どう生きてもいいといった。ライネに数多くの生き方があることを当たり前のように提示した。
きっとそれはサンドラも同じだ。たくさん選ぶ余地があった。たくさんの者が彼女の前に選択肢として存在していたと思う。
それでもサンドラはライネを選んでくれた。その気持ちに報いること、それはライネの不安な気持ちなんかよりもよっぽど大切なことだ。
はじめは、酷い婚約者から逃げる手立てをくれた。だから彼女の笑い話にしたいのだという願いをかなえようと、なりふり構わず手を打った。
今度は、ライネの問題を解決してそばにいてくれると言ってくれた。それもこれも幸福になるために。
だからこそそばにいるだけで幸せだと言ってくれたサンドラの願いをかなえるためにも、そんな不義理なことなどできない。と結論をだす。
……ただ、そうだとしても人としてやるべきことと、幸、不幸の話は別問題だって、流石の僕でもわかります。
「ですが、ご挨拶の話は別問題だと思います。……それとも、自分は家族に紹介するに値しない、と言うことでしょうか」
挨拶をするときちんと心の中で決めたけれど、言っている最中に不安になって、ハッとした。
もしかするとライネのことを考えてというよりも、ライネが親や家族と挨拶ができるような関係性の男ではないから……なのだろうか。
そう考えるとひどく納得できるような気がして、さらに追加で謝罪の言葉を口にした。
するとサンドラは「違いますわ!」と怒って、それから額を抑えて、まったくといった様子で呟いた。
「そんなふうに言われたら、会わせないわけにはいかないじゃありませんの」
短く言って、むくれる彼女は少し幼く見えて可愛らしい。ほっとしつつも、卑屈を使って要求をのませたようになってしまって申し訳ないと思った。
それからまた小さく謝罪の言葉を口にしたのだった。




